第6話 2/14 金曜日





 朝から男子がソワソワしている。

 きっと日本中の学校で同じ光景が広がっているのだろう。

 決してバカにしている訳ではない。男子にとって今日という日は年に一度のプライドを賭けた戦いの日なのだ。


「はい、これ。友チョコ~!」

「わぁ! ありがとう! これ、お返しのクッキーね!」


 「チョコ」というワードが女子の口から聞こえる度、男子の体が僅かに跳ねる。

 朝練の時や朝の会の前に女子からチョコを貰えた男子は課題を達成した後のような清々しい顔をしていて、他の男子も「まだまだ慌てる時間ではない」と平静を装っていたが、2時間目が終わったあたりから「そろそろ出欠席を把握した頃かな」と指の骨をポキポキと鳴らし、昼休みになると何かと理由を付けて1人になり、昼休み終わりのチャイムと一緒に、約8割が肩を落として教室に戻って来た。




 放課後、我がサッカー部は皆、涙を流していた。

「みなさん。日頃お世話になっていますので、これは感謝の気持ちですので、よろしければ貰ってください」


 ゆりなが部員全員にクッキーを作って来てくれていた。


「うおぉぉぉぉぉ! あの南ゆりなからヴァレンタウィン貰ったぞぉぉぉぉぉ!」

「俺はこのクッキーをまず神棚に備えて、その後、御先祖様に感謝の墓参りをして、半分は冷凍保存をして、半分は一噛み一嚙み全神経を味覚に集中させて味わうんだ」

「先輩、俺、生きてていいのかもしれない……」


 みんな半狂乱で喜び、他の部活からは羨望と恨みを買い、ゆりなは苦笑い浮かべながら、いつもより張り切って部活をする部員たちに戸惑っていた。




 夜8時、二週間前から自主練のランニングを始め、そろそろ自分に課した距離に慣れ始めていた。

 だけど今日は、普段は真っ直ぐ行くところを左折して信号を渡る。


「ゆりなちゃん!」


 大きなマンションのエントランスの柱にゆりなが背中を預けて立っていた。


「優輝くん、おつかれさま。頑張ってるね」

「最近ようやく走るペースが掴めてきたみたい」


 ランニングをストップさせて乱れた息を整える。


 2人並んでエントランスの前の階段に座ると、ゆりなは持っていた紙袋の中からタオルを取り出し、俺に渡してくれた。


「ありがとう。洗って返すよ」

「いいよ。そのままちょうだい。すぐに洗濯しちゃうから」

「そう? ありがとう」


 感謝しながらゆりなにタオルを返すと、ゆりなは次に水筒を取り出した。


「ぬるめにしたからグッといっても大丈夫だよ」

「あー、助かるー。喉渇いてるー」


 ゆりなの注いでくれたカップを受け取り、口元に近付ける。

 なにやら芳ばしい香りが鼻腔を通り抜ける。


「ほうじ茶だよ」

「ほうじ茶。あんまり飲んだ事ないかも」


 一息で飲み干すと口の中から鼻にかけて香りが抜け、味も結構好きな味だった。


「香り強くて美味いなぁ」

「よかった。それで、これが本命なんだけど……」


 ゆりなは袋から白い小さな箱を取り出し、俺はそれを受け取った。

 箱には緑のリボンがかかっていて、リボンを解くのも勿体なく感じた。


「持って帰ってからお家で食べてもいいんだよ?」

「いや、今食べるよ」


 ガラス細工を扱うように丁寧に恭しくリボンを解き、箱の蓋を開けると、中にはピンポン玉より少し小さい2粒の丸いチョコレートが収まっていた。


「あれ? クッキーだと思ってたのに」

「あれはみんなに配る用だよ。優輝くんにはちゃんと別で用意してあるよ」

「えっ!? めっちゃ嬉しい! 食べてもいい?」

「どうぞ」

「いただきまーす」


 口の中に優しい甘さが広がり、さっきのほうじ茶がチョコの甘さを更に引き立てているようだった。


「こっちも美味ぇぇぇ。ゆりなちゃんはお菓子作りも上手いんだね」

「そんな事ないよ。お菓子って分量と手順を間違えなければ誰でもできるんだよ」

「じゃあ作業が丁寧なんだね。ゆりなちゃんも食べてみなよ」

「私はいいよ。試作を食べてたし」

「いや、完成品は段違いの味になってるから」


 俺は箱からチョコをつまみ、ゆりなに突き出す。

 ゆりなは視線をキョロキョロとさせながら、意を決したように瞼を閉じて俺の手からチョコを口に含み、ゆりなの唇が触れた指先に柔らかい感触が強く残った。


「ホントだ。おいしいね」


 ゆりなは嬉しそうに微笑み、改めてゆりなは可愛いと思った。

 ただ、今感じた可愛いは顔じゃなくて、ゆりなの思考とか、仕草とか、顔以外のところから感じた可愛さだった。

 何だか鼓動の高鳴りがいつもより強く大きくなっているような気がした。


「あ、あんまり遅くなると家族が心配するよね」

「……ウチ、まだ親、帰って来てないから」

「え? そうなの?」

「会社の付き合いとかで大抵遅いんだよね」

「毎日?」

「毎日」


 ゆりなの声は抑揚がなく、暗かった。


「そうなんだ……。じゃあ時間がある時はいつでも電話して!」


 俺の言葉にゆりなは俯き、靴の裏で2度、3度と地面をジャリジャリと擦った。


「……それだと毎日電話しちゃうよ?」

「もちろんいいよ!」


 遠慮がちだけど、こちらが手を差し伸べたくなる絶妙な口調でゆりなにお願いされたら、誰であろうと「頼ってくれよ!」という思いが生まれるのは、明日もまた太陽が昇るぐらいに当たり前の気持ちだった。


 ゆりなは力いっぱい返答した俺がおもしろかったのか、笑顔をみせてくれた。


「じゃあ、そろそろ帰るね」

「うん。気を付けてね」

「ゆりなちゃんも、ちゃんと戸締りするんだよ」

「わかった」

「寝る前に連絡するね」

「うん。待ってる」


 ゆりなに手を振って、俺はまたランニングを再開した。

 ゆりなが俺の為だけにわざわざチョコを作ってくれていた事が嬉しくて、自然とジョギングの速度が上がっていた。


 帰宅後、汗を流す為にすぐに風呂に入り、髪を乾かすのもそこそこにしてゆりなと通話を開始した。


 学校の事、部活の事、好きなアーティストや面白い動画の話、次のデートはどこに行きたいか。話題は尽きなかった。


 俺はゆりなといるとすごく楽しくて、イベント事や本当の恋人みたいなスキンシップが重なると、ついつい考えてしまう。


 もし、ゆりなと本当に恋人になる事ができたのなら、きっとそれはとても幸せな時間になるのだろう、と。


 だけど、下手にゆりなの心に踏み込んで今の関係が壊れてしまうと考えたら凄く怖くて、今はまだ、気付き始めた自分の感情に真っ直ぐ向き合う覚悟を持てずにいた。

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