二度目の初恋

mimiyaみみや

第1話

「この世界には二種類の人間がいる。君を愛している人と、これから君を愛する人だ」

 パパがそう言ったのは、私がまだ幼稚園生の頃だったと思う。とぼけた顔でキザなことを言うパパを思い出して、私は小さく吹き出した。幼い私が「パパは? パパはどっち?」と聞くと、パパは両手を広げて「もちろん前者さ!」と抱きしめてくれたっけ。



 リビングにパパはいなかった。猫のティアラが私の横をすり抜け階段を登っていく。トイレの砂を交換してあげようかと思ったが、あいにく替えの砂を切らしていた。ちょうどその時、玄関の扉の鍵穴をガチャガチャ言わせてパパが帰ってきた。

「おかえり。どこ行ってたの?」

「ティアラのトイレの砂がなくなってたから買いにな」

「さすが、仕事が早い!」

 パパはニヤリと笑った。おそらくパパの中ではアル・パチーノを意識した笑みのつもりだろうが、不出来な福笑いにしか見えない。


 男手ひとつで私を高校生まで育て上げたパパはすごいと思う。パパの細やかな気遣いとおおらかさのおかげで、私はパパを嫌うこともなく、かといって尊敬の重石を背負わされることもなく今日まで生きてきた。


 パパは忙しなくまた家を出て、車をバタバタ言わせると、夜だというのにやけに大きなクーラーボックスを庭に引っ張り出して洗いはじめた。また週末に学生時代の仲間と釣りにでも行くのだろう。

 私は頃合いを見計らって、パパに言った。

「ねえ、この世界には三種類の人間がいるんだよ。私を愛している人と、これから私を愛してくれる人と、かつて私を愛してくれた人」

 精一杯とぼけて言ったのに、最後は声が震えてしまった。パパの動きが止まった。その手には鉈が握られていた。釣りではなく、山に行くらしい。キャンプ地での鍋パーティー。私も連れて行ってもらおうかしら。

「振られたのか?」

 パパの優しい声色に、私は堪えきれず声を上げて泣いた。


 ✳︎


「父親は娘に二度目の初恋をする」と早くに結婚した同僚が言っていたが、まったくその通りだ。側にいても離れていても、娘が気になって仕方がない。娘に好きだと言われると心の底から嬉しくなるし、嫌いだと言われると夜眠れなくなる。

 同僚と飲みに行くたび、中年の男二人でうっとりと娘の可愛さを自慢しあった。

 恋をすれば犬も詩人になるという。娘に恋する中年二人もポエマーとなり、うだうだとロマンチックなセリフを吐いていた。

「自分の人生の主役が娘になり、彼女を中心に世界が回り始める」

「俺たちは、いつかさらわれる運命と知りながら姫を守り続ける騎士」

「いや、さらわせやしない」

「どんなに頑張ったところで、初恋は実らない」

 最後は同僚と二人、力なく笑い合う。



「この世界には二種類の人間がいる。君を愛している人と、これから君を愛する人だ」

 これは半分は自分に言い聞かせていた。娘の結婚式で泣き過ぎてみっともない姿を晒さないように。まだ娘は五歳だというのに。



「ねえ、彼氏できたよ」

 その宣言は、夕食の最中になされた。中華炒めの中からうずらの卵を探しながら娘はさらりと言った。しかし口元がにやけている。

 俺は思わず吹き出した。心中は意外なほど穏やかだった。確かに寂しさはある。しかし、娘の成長を喜ぶ気持ちのほうが強かった。苦しい時期もあったが、娘の幸せを第一に考えて生きてきた自分の人生が報われた気がした。

「ハメ外すなよ」

 俺はアル・パチーノのように笑って見せた。

 二度目の初恋から十六年。俺もだいぶ大人になっていたらしい。



「別れようぜ」

「は? 意味わからん」

「おまえ重いわ」

「悪いとこあったら直すから言ってよ」

「いや、別れよ」

「もう電話したいとか言わんし、LINEも減らすよ?」

「そういうことじゃなくて」

「したいっていうこと全部してあげたのに!」

「おまえも喜んでたじゃん。たまにならまた抱いてやるよ」

 娘に彼氏ができたと告げられて一ヶ月ほどたった今日、俺は外回りの途中で入ったファミレスで偶然娘を見かけた。娘と一緒にいる金髪のフリーター然とした男が彼氏であろうことはすぐに察しがついた。恋は盲目と言う通り、娘はすぐ近くにいる俺に気づかずにいた。

 そして唐突に別れ話が始まった。娘は泣きながら男に食い下がっていた。俺はきつく目を閉じ、二人が店を出るのを待った。注文したものには手をつけず、会社へは直帰の旨を伝えてから外に出た。



「ねえ、この世界には三種類の人間がいるんだよ。私を愛している人と、これから私を愛してくれる人と、かつて私を愛してくれた人」

 その日の晩、娘はそう言って泣いた。

 手に持った鉈がヌラリと光る。男を解体した時の肉の油がまだ残っているらしい。

 俺は娘に笑いかけた。

「二種類の人間しかいないよ。この世界には」

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