寂しがりやなお守りのこと

寂しがりやなお守りのこと

 僕の実家には、神社でもらってきた、あるお守りがある。彼は意外と寂しがりやだ。



 僕が子供のころ、両親は居酒屋を経営していた。

 カウンターが十席、テーブルが五つほどの、よくあるサイズ感の店だった。

 その店の二階に住居があるのだが、小学生だった僕と弟は、夜が寂しくて、よく一階の店舗にいた。

 奥の座敷の席にお客さんがいないときは、そこで本を読んだり、毛布にくるまって寝ていたりした。

 たまにビールや料理を運んだりもした。


 常連客には実にさまざまな人がいて、特にMさんという人が、仲良くしてくれたことを憶えている。

 Mさんは、読み終わった漫画をたくさんもってきてくれた。サイボーグ009だとかの王道もあったが、それ以外に、結構エロいものも入っていた。教育上どうかと思うものもあったが、僕はもらった漫画を次々に読んだ。

 (エロすぎるものとかは親が隠したが、見つけ出して読んだ……)

 とにかくMさんは、親切な人だと感じていた。

 Mさんは少年の心を持っていた。

 今にして思うと、いわゆる、知恵遅れというのだろう。

 でも、だからこそ、僕は同じ目線で話すことができた気がする。Mさんはいつも、中瓶のキリンビールを飲んでいたから、僕は好んでそれを持っていった。


 あるとき、別の常連客のおじさんが、Mさんに対して冗談めかして言った。

「Mさんはさ、まだ子供だから、お酒は早いんじゃねえの?」

 Mさんはぽかんとしていた。


 そのとき、母が調理場から飛び出てきた。

「Mさんは良い人だでね! Mさんのことを馬鹿にするなら、帰ってくださいね!」

 すると、おじさんは、しばし言葉につまり、やがて申し訳なさそうに、Mさんに言った。

「ごめんな」

 Mさんはあいかわらずの笑顔だった。

 そこからは、僕は遠ざけられてよくわからなかったが、母がうまい具合に采配したのだろう。またいつもの、にぎやかで陽気な空気が戻ってきた。



 一方で、父はよく将棋を打っていた。

 近所の八百屋のおじさんが将棋が好きで、よく店にきては、父と戦っていた。

 その際は、店は母にまかせっきりになる。ダメ親父ムーブは、この頃からはじまっていた。


 概して、教育上よいとは言えない結構デタラメな育成環境だったわけだが、こんな日々の中で僕は大事なことを学んだと思う。

 それは、『大人に期待しない』ということだ。



 さて、因縁は、すでにはじまっていたのかもしれない。


 ここまでが光に近い部分の話だとすると、一方で、闇の部分の話をしなければならない。

 父の死につながる因縁を思わせるなにかが、すでに存在していた。


 本当に、人間の因縁というものは、いつから、どこからはじまっているのだろう?

 それは、もう終わっているのだろうか?

 僕にもまだ、その残滓が染み付いているのだろうか?

 わからない。

 でもそれゆえに僕は、心の世界や、目に見えない世界に導かれたのかもしれない。そして、占いの師匠や姉弟子のKさんと出会うこともできた。

 人の生きる道は、なにが吉と出るか、なにが凶と出るか、どうにもわからない。



 常々、母はこんなことを言っていた。

「ねえ、コウ。この家にはね、大きい蛇が住んでるよ。ずるぅ、ずるぅ、って、這い回ってね。聞こえる? そいつ、体もね、なっがいだよ」

 僕にはその蛇は、視えていなかった。

 第一、あとからわかってくることだが、その蛇はむしろ、僕らを守ってくれていた可能性もある。

 人ならぬ者たちは、敵か味方か判別が難しい面があるかもしれない。



 ある日の昼間、衝撃的なことが起こった。

 そのとき僕は、店が休みで、一階の店舗で漫画を読んでいた。店の壁際には大きな本棚があり、漫画や雑誌が並んでいた。

 また、本棚の上には、大きな招き猫が置かれていた。

 僕は漫画を、のめり込むように読んでいた。

 すると、頭上に置かれていた招き猫がぐらりと揺れた気がした。

 見ると、招き猫は落下し、店の打ちっぱなしのコンクリート床にぶつかり、粉々になった。

 僕は泣きながら母に報告しにいった。母は怪訝そうな目で、店内を見回していた。



 それ以外にも、僕自身が、自宅の階段から落ちたことがあった。

 二階の住宅部分から、店に降りてゆく階段があるのだが、僕はそこから頭から落ちて、ひどい怪我をした。幸い後遺症はないが、いまでも頭にハゲがある。

 階段から落ちたときは、ちょうど母方の叔父さんが、遊びにきてくれた日だった。叔父さんの車が二階の窓から見え、僕は興奮して走っていったのだろう。

 でも、そんなことはいつものことだし、やはり、なぜ落ちたのかがわからない。

 気がついたら、階段に飛び込んでいたのだ。


 あとは、母が昼間に家事をしているときに『連れて行かれそうになった』らしい。魂が体から抜けてしまい、空に引っ張られたのだという。

 まあ母には変わった力があるので、家の因縁などはなくても、通りがかりの『なにか』に、そういう嫌がらせをされたという可能性もあるが。


 あとは……。それと、弟が交通事故にあった。

 幸いにして命をとりとめたが、長く入院生活を送ることになった。また、その経緯で店を廃業し、父は大工の仕事をはじめた。



 そのあたりで、いよいよさすがに、家がおかしいという話になった。

 それがなくても、店をやめたわけなので、店舗つき住居に住み続けるのも不便な話だ。



 そんなわけで、僕らは近くの借家に移り住むことになった。

 そのとき僕は、小学六年生になっていた。

 引っ越しが落ち着いて、ひと息ついているとき、母が唐突にこんなことを言い出した。



「呼ばれてる……。古い家の、二階の奥に、なにかが呼んでるの。すぐこいって。ねえ……」

 僕はあきれながら、

「え? なにが? だれかいるの?」

「違うの。わからないけど。ねえ、コウ、見てきてくれない?」

「えー? 変な人とかいるってこと?」

「違うの。そうじゃない。人間じゃないと思うんだけど……」

「なにそれ、怖いんだけど。じゃあさ、一緒に行こうよ……」

「ごめん。もう、わたしは、あそこに行けないの。ダメ……」



 そこまで聞いて、少し僕は理解した。

 なにかが、本当に呼んでいるのかもしれない。

 そして、母が僕に行かせようとするということは、僕にとっては危険な存在ではないのだろう。


 それにしても、いったいなんだというんだ。

 奇妙に思いながらも、僕は懐中電灯を持って、近くにある古い家に向かった。



 僕は一階の、店舗の扉の前に立って、鍵を開けた。

 あんなに活気のあった店舗は、がらんとして薄暗く、不気味だった。

 また、気のせいかもしれないが、常になにかに見られている感じがした。

 なぜ、こんな不気味なところで暮らすことができたのだろう?

 建物というものは、人の気配がなくなると、とたんに雰囲気が変わるものだ。だから、より気味が悪かったのかもしれない。


 入って左手に、二階への急な階段があった。

 右手のカウンターと、その奥の細い厨房は薄暗く、じめじめした感じだ。

 頭が少し痛くなった。

 それでも僕は頭痛を無視し、二階への階段へ向かった。

 かつて、自分自身が落下したその階段に足をかける。

 ギシギシと不安な音をたてる。


 急な、薄暗い階段を、ゆっくりと慎重に登っていく。

 そこでふと、『あのとき、なぜ階段から落ちたんだろう』なんて考えはじめた。

 走っていたら、いつの間にか足元がなくなっていた。

 なにか、ぼやっとした空気に包まれていたような感じを憶えている。

 墜落感。衝撃。世界がまわる。痛み。


 階段の半ばで足が震えて、なかなか踏み出せない。

 なにかに突き落とされやしないか。

 そんなことを考えた。


 それでも、上りきった。

 なにも起こりはしなかった。

 それよりも問題は、二階の奥で呼んでいるという『そいつ』だ。

 そもそも、母から頼まれたお使いの途中なのだ。


 椎茸みたいな、古い木のにおいがする。そして暗い。

 閉ざした雨戸の隙間から細い光が差して、そこだけ、埃が舞っているのが見える。

 電気はつかない。

 僕は懐中電灯を持ち上げて、二階を照らす。

 二階の居住スペースには物がなかった。当然のことだ。


 そんな二階の奥の部屋に、大きな影があった。


 それは、古く壊れかけた、大きな箪笥たんすだった。

 取り壊す予定だったから、大家さんに許可をもらい、置いていったものだ。



 なにかがあるとしたら、箪笥の周りの可能性が高い。

 僕は懐中電灯を、唯一の身を守る武器のようにかざし、箪笥へと向かった。



 ギシギシと床が鳴る。


 やがて、箪笥の前までやってきた。そこで僕は、意外なものを目にした。

 それは、吸盤で箪笥に貼り付いた、朱色のお守りだった。

 家族で地元の神社に行ったとき、商売繁盛と安全を祈願してもらい、家に持ってきたものだった。

 それを見つけてから、なんとなく、恐怖が薄らいだ気がした。

 僕は吸盤を外した。

 それから、さっきまでのおどおどした気分が嘘のように、スタスタと歩いて店を出た。


 母のところに持っていくと、母は言った。

「なんだろ。寂しかったのかねえ」



 このお守りには、実はもうひとつストーリーがある。

 引っ越しが終わってから月日が経ったころ。それは、僕が高校三年生のころの話だ。

 この頃にはすでに、父は他界していた。


 ある日僕は二階の部屋で昼寝をしていた。

 そのとき、不思議な夢を見た。

 夢の中で僕は布団から起き出し、階段を降りて、一階の仏壇の前に行く。

 そこで、仏壇の右の引き出しを大きく開けた。すると引き出しの奥底に、ひとつのお守りを見つけた。


 ――その夢を見たあと、僕は目覚めた。


 ぼんやりとした意識のまま、夢の通りに階段を降りていった。台所には母がいたが、気にせずに横切り、仏壇の右の引き出しを開けた。


 そこで、なにが起きたと思う?

 

 まあここまできたら、もったいぶる必要もないけれど。

 なんと引き出しの奥底には、朱色のお守りがあった。

 あの、古い家に忘れられかけた朱色のお守りだ。

 僕はそのあたりで正気づいて、妙な声を上げた。

 台所にいた母は、何事かと聞いてきた。

「なに? どうしたの?」

「いや……」

 僕が説明すると、母は不思議そうな顔で、

「まあ、呼ばれただらぁ。そのお守りに」

 そう言って、母は台所に戻っていった。

 僕はそのお守りを、父の仏壇の内側に貼り付けた。なんとなく、それがいい気がした。

 お守りの彼?は、人知れず僕らを守ってくれていたのだろうか。


 あるいは、非常に寂しがりやなんだろうか。だから、目立つところに置いてくれ、ということか。



 人間という生き物は、目に見えない者たちと交わりながら、彼らを気にも留めずに生きている。

 それがこの世というものだし、大概はそれで問題ないはずだ。

 しかし、もし因縁が生じたら、きちんと付き合わなければならないのだろう。

 きちんと、最後まで。

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