新婚とおじいと743のこと
新婚とおじいと743のこと
最低な新婚旅行と、おじいの話をしよう。
僕は妻と結婚して、『いろんなこと(略』を片付けて、新婚旅行に行った。
※『いろんなこと』には、結婚をする上で考えられる面倒なことを想像し、全部入れてみるといい
沖縄に五泊で行ったのだが、なかなか奇妙な旅だった。
一日目は普通に観光をしたが、二日目から妻の機嫌が悪くなった。どうやら、女性特有の周期であるのと、小さな僕のミスの積み重ねもあった。その結果、妻は殺気立った山猫のような状態になった。
どこへ行くにも、妻は不機嫌そうに僕の後方から、距離を空けてついてきた。――そう、いちおうはついてきた。
赤いデイゴの花が咲いていても、海と空が青くても、妻の怒りはおさまらなかった。
その状態で二日目が終わった。
とにかく妻は不機嫌だが、観光を楽しむため、常にテンションは四割くらいになっていた。
絶対に中央値にはならず、常に小さく怒っている。その状態なら、僕を牽制でき、かつ、かろうじて観光も楽しめるという、絶妙なバランスなのだろう。
やがてホテルに帰ってきて、ディナーを食べた。
美味しかったはずだが、もう妻が気になってなにも覚えていない。なんて旅だろう。いや、僕が悪いのだろうけど。
二日目は早々に就寝した。ベッドの上にはねじったタオルで、不可侵の国境線が引かれていた。
僕は、翌日も一緒に行動するのが、ちょっと嫌になっていた。
奇妙なことが起きたのは、その翌日の朝方のことだった。
僕はベッドの中で目を覚ました。まだ半分夢うつつの状態だ。
そんなとき、ふいにおじいさんの、やわらかな声が耳元で聞こえた。
「
その声は、耳や首の産毛が震えるような感じがするくらい、間近で聞こえた。
御嶽とは琉球王国の霊場のことだ。
旅行の三日目であるその日は、
僕はベッドの上で、隣国の妻の方を向いて、
「おじいさんの声、したよね?」
と聞いた。
妻は不機嫌そうに、
「しらん」
と言った。
斎場御嶽は沖縄の中でも南方の、南城市にある。
南城市の東端へ向かって、青い空と海の絶景の中をレンタカーで走った。隣には無言の妻を乗せて。
やがて、海沿いに広がる森と、斎場御嶽の看板が見えてきた。
* *
かの民族学者の折口信夫は、沖縄には、垂直と水平の、二つの信仰が共存していると指摘した。
ひとつは、海の向こうの天国――ニライカナイへの信仰で、これは水平方向の信仰であり、民衆の間で広がっていた。
もうひとつは、オボツカグラという、神々が住む天上界への信仰。これは垂直方向の信仰であり、琉球王朝が中心になっていた。
ニライカナイの方は、都市文明以前の、縄文時代的な信仰のにおいがする。
古来の日本人や、世界のネイティブな民族は、比較的水平信仰を持っていたものだ。
縄文時代では猪や鹿や山自体、海自体への信仰があった。また、死者は山や遠くの島で暮らして、また現世に戻ってくる。これは、アイヌの信仰にも通ずるものがあるだろう。
一方で、都市文明を中心に広がる垂直の信仰。これは、日本では弥生時代の太陽信仰が起点になるはずだ。
女王たる卑弥呼を擁立し、稲作を本格的にはじめた弥生時代では、太陽や月や北極星を中心とした、天体の状態が重要なことがらとなった。天体や星座の状態により、季節を知り、稲作に際する行動の基準とした。
* *
ウンチクが長引いてしまったが、とにかく斎場御嶽は、ニライカナイ信仰の霊場であり、
しかしながら、僕の聞いたおじいの声の持ち主は、神様なのかなんなのか、どの筋の存在なのかもわからない。
だいたい、幻聴と考えるのが普通かもしれないが。
それでいて、斎場御嶽という沖縄最大の霊場の力を持ってしても、妻の四割のテンションは崩れなかった。
絶景の中を、また僕らは距離を空けて歩いていった。
そして、ついに旅行の最終日。
無口な妻とホテルの朝食を食べて、くつろいで、帰り支度をして、なにがなんだかわからない新婚旅行が終わろうとしていた。
まさに最低な新婚旅行。
それでも僕は、この旅行の仕上げとなる、なにかを探していた。
仕事を休んで、苦労して結婚して、準備をして、この体たらくだ。なんとなく悔しかった。
僕は荷物を持ってホテルの部屋を出た。
そこでふと振り返ると、緑色のなめらかな書体で、部屋番号がドアに書かれていた。
『743』
僕はスマートフォンでその部屋番号を撮影した。
それがこの、奇妙な新婚旅行の証であり、タイトルである。
あれから時は流れたが、あのおじいの声の意味は、いまだにわからない。あるいは、ただ単に、たいした意味なんてなくて、フレンドリーな神様がちょっと声がけしたのかもしれない。
まあ、それくらいが沖縄らしくていいだろう。
あれから夏はなんども訪れた。車を手放し、東京に移住し、新たな仕事に就いた。
いまだに妻は、たいてい不機嫌に、僕のあとを仕方なさそうについてくる。僕という存在は、彼女にとって人生における防風壁であり、斥候みたいなものなのだろう。
季節は巡る。夏は巡る。
けれど、『743』と題された、あのぎこちない最低な夏は、もう二度とやってこない。
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