第四章【7】 黒点



          §§§



 おのれが己ではない感覚を、なんと表現すべきなのか。


 自意識も自我もたしかに自分のもので、けれど明確に異なって感じられた。


 つい数分前にみずから潰した頭蓋が首ごと別人のものに挿げ替えられたかのような、まるで生まれ変わったような感覚ですらある。


 無論、ただの錯覚だ。


 ラルゴという不死者ヴァタールの組成は、なにひとつ変わっていない。

 身体を構成する骨も肉も、それらを再生させる霊血アムリタにも変化はない。


 ただ一点、過去の記憶を取り戻したという事実だけが、男を別の存在たらしめている。


「ああ、なるほど」


 納得したように、金髪金眼の真祖ロードは頷いた。


「これが《覇王レイレクス》か。たしかに、これは実物を見ないとわからねぇな」


 頭脳ではなく、目で見て肌で感じる感覚で、エンヴァーはラルゴの変化を知覚していた。


 これほどまでとは思っていなかった。

 話には何度も聞かされていたが、やはり記憶のあるなしで人間が別人に変わるほどの違いが生じるとは考えていなかった。


 それがまったくの間違いであったことを、全身を突き刺すような〝気〟によって理解する。


 威圧感、息苦しさ、凄味。

 言葉を尽くしても表現し切れない存在感を今のラルゴは纏っていた。


 立ち上がり、再生した頭部の感触を確かめるように持ち上げながら、彼は呟く。


「……お前は、覚えていたのか?」


 誰に対しての質問であるのかさえ判然としない言葉だった。

 しかし、尋ねられた相手は、


「はい。忘れたことはありませんでした」


 そう言って、灰色の髪のイースはラルゴの問いに答えた。


「お前とおれが会っていたことを、なぜ言わなかった?」

「あなた様は私のことを覚えていないようでしたので。ならば、私から話すべきではないと」

「……そうか」


 本当に、変わってしまったものだ。


 だが、今ならばわかる。


 性格すら変わってしまうほどの歳月を、互いに生きてきたのだ。

 当時の記憶があり、そのときの自分と今の自分が違うと自覚していても、どうしようもないほどに。


「あの方を……」


 まだ満足に回復していない身体で、弱々しい声音でイースは言う。


「アリムラック様をお救いください、ラルゴ・レイレクス」


 かつて自分を救ってくれたときのように。

 その懇願だけが、今この場に弱った肉体を引きずってまで現れた理由だった。


「──頼まれるまでもない」


 それは、もはや彼のなかで決定している事柄だった。

 他人に言われて変わる行動ではない。


 だが、その意志を言葉として聞く意味はあった。


 アリムラックが救われることを望んでいる者がいる。

 その確認が、彼の理由をさらに強くする。


「ラルゴ……?」

「──……」


 変貌したラルゴの様子に困惑するように名前を呼ぶイコに対して、彼は振り向きもしない。


 応えてしまえば、ようやく取り戻した自分を取り零してしまうだろう確信があった。


 だからラルゴはイコの言葉になにも言わず、ただ空を見上げた。


 今の彼だからこそ、感じ取れるものがあった。


 いまだ遠く、しかし確実に接近している存在を認識する。


 視界に捉えることもできないが、瞬きのうちに現れるという確固たる感覚があった。


 だから彼は、その一瞬を僅かに待つことにした。



          §§§



 文字通り〝黒点〟のごとく、は太陽の表面に存在した。


 赤く燃える恒星に取りつくように、黒く小さな〝点〟として浮かぶ機影。


 光り輝く太陽の表層、約六〇〇〇度にも及ぶ過酷な環境のなかで、ひたすらに実体を保ち続けている。


 本物の黒点であれば数日から数ヶ月ほどの寿命で消滅するのだが、は五〇年近い年数をただエネルギーを蓄えるためだけに費やしていた。


 絶えず機体を襲う膨大な熱量、そのすべてを喰らい吸収して、動力として蓄積し続ける。


 自身が活動すべきときを待ち続け、それまでは雌伏に徹してきたのである。

 自身を造り出した創造主、それ以外の何者からも姿を隠して。


〈惑星〉から見て太陽の影、地上からは決して観測できない場所に浮かんでいたは、しかし不意に送り込まれた命令に対して即応した。


 〈吸血ドレイン〉システムに特化した球状の形態から、超高速飛行を可能とする状態へと即座に変形する。


 今まで保ってきた沈黙が嘘であるかのように、は盛大に雄飛した。


 太陽の強力な重力圏から瞬く間に離脱して、光の速度もかくやとばかりのスピードで宇宙空間を飛行する。

 動力として吸収した膨大なエネルギーを消費し、機体性能を存分に発揮させる。


 旧時代の技術であれば最短でも三〇〇日は要する距離を、一〇分ほどの時間で移動し終えた。

〈惑星〉の大気圏に迷うことなく進入し、重力下の影響に入る。


 高高度から一瞬で地上付近まで降下すると、はほぼ直角に軌道を変更して飛翔した。

 宇宙空間ほど自由に飛行することはできないが、可能な限りの最高速度で目的地へと急行する。


 少しも減速することなく、そのまま自身を呼び出した者がいる場所まで行き着いた。

 到達と同時に急制動をかけ、音速の状態から完全に停止する。


 その場で超高感度センサーを起動させ、地上に存在する五つの生命反応を感知。

 体内にある霊血アムリタを認識し、不死者ヴァタールであるかないかの識別を瞬時に行う。


 幼体の真祖ロードを二体、探知完了。

 残る二体は成体の亜祖レプリカ、つまりは取るに足らない──


 否、と早計な判断を根底に刻まれたプログラムが否定する。


〝彼〟がだ。

〝彼〟こそが、自身が存在する理由。


〝彼〟という存在がいなければ自身は誕生することすらなく。


 ほかのいかなる理由のためでもなく、〝彼〟という存在のために自身は造られたのだから。


 そうして。

 その吸血機ヴァルコラクスは、みずからに相応しい者の許へと舞い降りたのだった。



          §§§



 予兆と呼べるものは、なにひとつとしてなかった。


 気づけば、黒い塊のような機影が目の前に浮かんでいる。


 今この瞬間に現れたかのようにも、まるで最初からその場に存在していたかのようにも思える自然さで。


 数秒のあと、思い出したように吹き荒れる風がラルゴたちを襲った。


 進路上のなにもかもを裂き散らし、最速最短の方法で移動した機体は、けれど今は完全に空中で静止している。


 驚異的な飛行能力、絶対的なまでの機動性。

 吸血機ヴァルコラクスというマシーンに許された、あらゆる機能を万全に発揮して、は彼らの前に現れた。


 まずなにより目を引くのは、巨大な


 中心にある本体を上回る大きさの機翼は、それ自体が莫大な推進力を生み出す飛行システムだった。

 ナノ単位の鋭さを有する先端はまるで研ぎ澄まされた刃のようで、触れるだけで切り裂かれそうな鋭利さを保っている。


 その巨大な両翼、そして翼と同じ黒一色の機体に、目を奪われる。


 どこまでも深く底のない、闇の奥を覗き込むかのような感覚だった。

 艶ひとつ浮かべることのない機体の表層は、立体感のまるでないカラーリングをしていた。


 手に触れることができる距離まで近づけば、眼前に広がるのは果てしない黒い闇。

 手に触れようとすれば、そのまま呑み込まれてしまいそうな純度の高い黒色。


 あらゆる光エネルギーを吸収して動力とするために設定された、純黒という機体色だった。


「個体名は《カーミルラ》。真祖ロードアリムラック・ヴラムスタインの設計による、専用機だ」

「……おれの、だと?」

「そうだ、不死者ヴァタールラルゴ。かつてあんたに墜とされたヤツが、造った機体だ」

「……そうか」


 エンヴァーの言葉に頷いて、ラルゴは躊躇なく機体との接続を開始する。


 方法は教えられずとも知っていた。


 かつて一度、行った内容だ。

 体内の霊血アムリタと眼前の機体を結びつけるイメージが、そのまま吸血機ヴァルコラクスに搭乗するための準備となる。


 同時に、当然のようにラルゴの神経は灼熱した。


 殺人的なまでの情報量に脳細胞がかれていく。

 機体を制御するためのものではない、ただ純粋にステータスを確認するだけの作業で脳の一部が死に絶える。


「バカげた性能だな」


 その苦痛を、ただの一言で彼は片づけた。

 鼻を拭い、いつの間にか漏れ出ていた血を綺麗にする。

 尋常ではない出血量だったが、すでに再生が始まっているため問題はない。


「マジかよ。スゲェな、おい」


 その姿に、心底からエンヴァーは驚嘆する。


 平気なはずがないのだ。


 吸血機ヴァルコラクスへのリンクも、その搭乗過程も常人に耐えられるものではない。

 どれだけ再生能力を持つ不死者ヴァタールだろうと、未完成の存在である亜祖レプリカに可能な作業ではない。


 今この瞬間に倒れるか、発狂しても不思議ではないダメージをラルゴはすでに負っている。


おれが五〇年前に使った機体よりも殺人的だ。こんなものを用意して、あいつはおれにどうして欲しかったんだ?」

「その点に関しては、心底から同意するよ。けどな、あんたにも責任はあるんだぜ?」

「……?」

「〝人間としての性能を極めようとする〟あんたに負けたから、あいつは《性能至上主義》とでもいうべき性格になっちまったんだ。おれ様たち真祖ロードでも扱い切れるかどうかの性能でも、『自分を負かした不死者ヴァタールになら使えてしまんじゃないか』なんて希望的観測で造っちまった」

「…………」


 責任の所在を説明され追及されても、困るしかない。


 自分にとってはただ当然のように鍛え、戦士としての能力をみずから追い求めた結果だ。

 それに影響を受けてしまったと言われて、どう反応しろというのか。


 答えは『反応する必要はない』だった。

 現状で優先すべきことは、もっと別にある。


「〝あそこ〟までの制御は任せる。……乗り込んでからは、おれの仕事だ」


 巨大なベルトを射抜くように見据えて、ラルゴは行動を開始した。

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