第四章【6】 記憶



          §§§



 一体いつ、どこで起きた出来事だっただろうか。


 覚えていない。

 そもそも記憶から消え去っていた出来事だ。


 詳細を思い出せるほどに自分の頭脳は再生しておらず、ゆえに浮かび上がるのは彼にとって印象的だったエピソードに限られる。


 あくまで当時の彼にとって、という条件が前提となるが。


 それでも浮かび上がる記憶に対して、どのような感情を抱いていたかまでは判然としない。


 わかるのは、『なにをして、誰とどんな話をしたか』といった程度の内容だ。


 自身の回想であり、同時に知らぬ他人の追体験である。

 思い出すことに意味があるのかさえ、わからない。


 けれど、思い出す必要は、たしかにあったのだろう。



          §§§



『……無事、ではないな』


 暗闇のなかで横たわる女に、男は呼びかけた。


 牢獄、または拷問部屋を思わせる場所だった。

 人間を閉じ込め、苦しめるための施設だ。


 この場所に閉じ込められるのは、とある特徴を持つ人間だけだった。


 、というほかの人間と異なる唯一にして絶対の特徴を持つ者だけが、狂信的な差別主義者によって迫害を受ける──そんな無法が許される時代だった。


 いびつに折れ曲がった鉄格子をさらに力尽くに抉じ開けて、男は女が横たわる暗闇へと踏み入る。


 灯りひとつない場所だが、生物として優れた男の眼球は闇のなかでも仔細に相手の姿を捉えた。


 なにも知らなければ、ただの死体にしか見えなかっただろう。


 青白い肌は生きている人間のものではなく、もはや陽の光とは無縁の色をしている。


 最低限の衣服すら与えられず、女は血色のない肌を隠すこともできないまま闇に晒していた。


 どう見ても、ただの死体だ。

 男が現れたことに反応すらしない。

 ただ女の死体があるだけだ。


 そうでないことを、男は知っていた。


 この場所に立ち入る直前に調達したボロ切れを女の身体の上から被せる。


 服ですらない代物だが、ないよりはマシだった。

 ほかに使えそうな衣類はすべて血で汚れてしまっていた。


『…………ぁ』


 男の行為に、女が僅かに反応した。


 この場所に連れ去られてから、初めて受ける優しさだったからだ。


 この施設に陣取っていた者たちは、そうすることが神に許された行為であるかのように女を傷つけ続けた。


 肉を裂き、骨を砕いて、それらの傷が元通りに再生すれば、その光景を忌避するようにさらに傷をつける。


 そして、そうした行為に飽きればただ太陽の光に晒すことで長い責め苦を与える。


 この場所で行われたのは、ひたすらに繰り返される暴虐だった。


 傷もシミも少しもない白い肌だが、それは今そうであるだけで、どれだけの傷を刻まれたのかは数えることすらしていない。


『動けるか?』


 呻くように声をあげる女に、男は淡々と尋ねる。


 肉体の構造上は、動けるはずだった。


 どれほど非人間的な扱いを女が今まで受けてきたかは察することしかできないが、今この瞬間は間違いなく肉体は五体満足を保っている。


 立ち上がり、歩き、走ることさえ問題ないだろう。


 その驚異的な再生能力だけが、不死者ヴァタールの利点であり欠点なのだから。


 だが、精神こころはどうか。


 不死者ヴァタールという存在を生み出した者は、ヒトの心というものについて頓着しない性質らしかった。


 どれだけ精神的に傷つき、あるいは絶望に苛まれようとも、肉体が健全であれば支障ないと考える非人間ひとでなしだった。


『……』


 男の呼びかけに、女はもう一度反応するための気力すらないようだった。

 焦点の合わない虚ろな目で、闇のどこかを見詰めている。


『わかった』


 短く言って、男は女の身体を力強く持ち上げた。

 自分の力で動けないであれば、今は一刻も早くこの場を去ることを優先する。


 抱えた女の感触は、ひどく軽い。


 食事も満足に与えられず、しかし餓死することもできずに生き続けた女の身体は、人体に許される限界すら超えていた。

 動くことはできても、やはり単身で逃げ出すことは不可能だっただろう。


 その地獄も、すでに終わりを迎えていた。


 女が閉じ込められていた部屋を出て、男はとある一室を通り抜ける。


 崩れた天井から陽の光が差し込んでいるものの、日除けのフードを身に着けた男に影響はなく、ボロ切れとはいえ全身を包まれた女にも問題はない。


 身体全体を包まれていたために、女に室内の様子はわからなかった。


 そうでなくても、意識も判然としない彼女に、その部屋でなにが起こったのかを理解する力があったかどうか。


 夥しいほどの血が、部屋そのものを塗り潰すように広がっていた。


 圧倒的な〝力〟で粉砕され、原形を留めていないモノたちの残骸。


 いわれのない暴力を他者に振るった人間が、当然のように報いを受けた痕跡だった。


 部屋一面に広がる赤色に一瞥をくれることもなく、男はその場を立ち去った。



          §§§



 時間が経つにつれて、徐々に女は回復していった。


 いまだその瞳に光はない。


 あの牢獄の凄惨な環境は、女の心を完全に消耗させていた。

 切れ長の眼差しは亡者のように沈み、内面の感情も外部の情報も映すことはなかった。


 それでも、自分の足で歩けるぐらいに女は回復していた。

 ゆっくりと後ろを付いてくる姿を、男は静かに見守る。


 目的の場所まで男が運べば話は早いが、この時間はリハビリと同義なのだ。

 少しでも今までの環境とは異なる、ごく当たり前の行動をすることが女の回復の助けとなる。


 男はただ見守り、そして護り続けた。


 旅の道中〝不死者ヴァタールである〟という理由から彼らを迫害しようとした者たちから、あるいは単純に追い剥ぎ目的で襲ってくる者たちからも、男は女を護り続けた。


 どれだけ相手が多勢であろうと、男の武力の前には意味を成さなかった。

 ナイフも銃も、男の戦闘力と相対すればまるで玩具のようだった。


『…………あなたは、どうしてそんなに強いの?』


 何度目かの襲撃を蹴散らしたときに、初めて女が言葉を発した。


 夜だっただろうか。


 不死者ヴァタールたちにとっては安全に移動できる時間帯だが、野盗にとっても活発に動ける時刻である。


 闇夜のなかを進んでいたふたりを襲おうとした野盗は、当然のごとく男によって撃退された。


 何度も男の戦闘力を目の当たりにして、死んでいた女の心にも思うところが芽生えたらしかった。


 それまで一言も喋らなかった女の言葉に驚くこともせず、男は淡々と答えた。


『強くなるように鍛え続けた。それだけだ』

『……どうして、鍛えたの?』

おれにできることが、それだけだったからだ。誰かを護るためには、鍛えて強くなるしかない』

『どうして誰かを……私を護ってくれるの?』


 その問いに、僅かに男は考えた。


 そんな理由は、訊かれるまで考えたことすらなかったからだった。

 戦士としての鍛錬と、その能力を他人のために使うことは、男にとっての自然体だった。


 少し考えて、しかし答えは決まっていることに気づいて女の疑問に返答する。


おれは、おれ自身が護ってやりたいと思った相手を護る。それ以外の生き方ができないだけだ』


 決まりすぎていて、男のなかでも覆せない答えだった。

 愚直ですらある回答に、そのとき女は初めて、


『バカなんだ、あなた』


 初めて、心の底からの笑顔を浮かべてみせた。

 伸び切った灰色の髪を掻き上げて、その少しだけ慣れない表情で男と向き合う。


 ああ、と〝ラルゴ〟は思う。


 こんな顔ができる女だったのか、と。


 こんな会話を彼女と交わしたことがあったのか、と。


 互いに随分と変わってしまったものだ、と男は追憶の海から自分を引き上げることにした。

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