第二章【5】 死
「────」
声すら出せずに、ラルゴは至近距離に出現した全身鎧を見る。
ありえないほどの気配のなさ、完璧なほどの隠密性。
音もなく現れた白い全身鎧は、しかし視認していなければ存在を捉えられないほどに印象が希薄だった。
奇怪な鎧だった。
真白な装甲は光沢ひとつ発しておらず、海中から出たばかりだというのに表面には水滴すら付着していない。
継ぎ目すら見受けられない全身の装甲は、しかし滑らかなほどの自然さで駆動している。
立ち尽くす赤黒い全身鎧を見ることもせず、純白のアーマーを身に着けた人物は移動を開始した。
ロック村の方角、おそらくはあの少女がいるままであろう、男の住処へと向けて。
ゆっくりと、急ぐ素振りもなく、白い全身鎧は村へと歩く。
「……待て」
その背中に、ラルゴは声をかけた。
なにも聞こえていないように、アーマーの人物は歩く。
「──待てッ!」
二度目は、言葉だけでは済まさなかった。
地面を蹴りつけ、躍りかかると同時に拳を振りかざす。
相手は反応しない。
やはりなにも聞かず、周囲に誰もいないかのように移動だけを続けている。
だから、ラルゴの驚愕は当然のものだった。
躱されるとは思っていなかった。
反応されたとしても、対応しきれないだろう間合いだった。
確実に拳が直撃するという確信があった。
真白な指先が赤黒い籠手を受けとめる、その光景を見るまでは。
「──なにっ……?」
「…………」
動揺する男の拳をつかんだまま、相手はなにも言葉を発することはなかった。
ただ、ゆっくりと
少しの
目を覗かせるためのスリットもなければ、カメラのような装置がついているわけでもない。
視界など存在しないはずの、フルフェイスの仮面。
それでも確実に相手は自分を視ている、とラルゴは直感した。
ギジリ、とつかまれたままだったラルゴの右腕が歪な音を立てて軋む。
「ぐっ……⁉」
バカな、とありえない事態にラルゴは驚愕する。
力負けしようとしているのか、膂力だけが取り柄のような自分が。
軋みをあげる右腕に、瞬時に思考を切り替える。
筋肉を駆使して、今以上に腕が曲がることだけは阻止する。
「…………」
拮抗した状況にも、無貌の全身鎧はなんの反応も見せなかった。
ただラルゴを観察するかのように、貌のない視線を向けてくる。
(舐めんな──)
そんな無防備な挙動で自分をどうにかできると思っているのなら、迂闊が過ぎる。
右腕の位置を調整して相手の動きを制限。
同時に、自由だった左腕に渾身の全力を籠める。
初撃を上回る威力で撃ち放つ。
目前の白い全身鎧に一撃を叩き込むことだけに集中して、ラルゴは拳を振るい──
直後、背後から迫った白刃に心臓を刺し貫かれていた。
「ぁ────」
背中から胸を貫通して現れた白い刃の感触は、ひどく冷たいものだった。
一瞬遅れて、言葉にできない痛みが白刃の刺さった箇所から脳へと伝達される。
それは、破壊された心臓の最後の一鼓動が脳へと送った血流の仕事でもあった。
中心を刺し貫かれ、ラルゴという人間の心臓は今にも機能を停止しようとしている。
その、最後の一鼓動が許す挙動で、彼は背後に振り返る。
目の前に立つ純白のアーマーとまったく同じ、無貌の仮面が冷淡に男を見ていた。
片手には、細く鋭利な刀身が握られている。
人体を穿つには細すぎるほどの、けれど心臓を貫き鼓動を止めるには充分な大きさの刃だった。
「……ッ」
振りかざした拳を下ろし、赤黒い鎧を突き破っている白刃の先端に触れる。
その鋭利さゆえに簡単に壊せるかと思ったが、握った刀身は想像以上の強度だった。
なるほど、これなら〈
それが彼の最後の思考だった。
心臓が今際の瞬間に送り出した血流が脳を一巡し、停止する。
心臓が止まり、血流が止まり、脳が機能を停止する。
完全な死。
そして次の瞬間には、ラルゴが繰り出した一撃が背後の全身鎧へと見舞われていた。
刀身を離した左腕を、そのまま背後へと突き出す。
まともに肘の先端を胸に受けて、背後のアーマーが大きく仰け反る。
いや、吹き飛んだ。
「──お前も、いつまでも他人の腕をつかんでんじゃねーよ」
背後に突き出した反動のままに、左腕を眼前の敵に今度こそ叩き込む。
防御が間に合わず顔面を強く殴打され、相手はそのままラルゴから距離を取った。
「……チッ。どっちも硬いな」
立て続けに二撃を繰り出した左の腕鎧を見る。
攻撃したのはこちらだというのに、赤黒い鎧の方に
おまけに、感触からして肘と拳の骨も砕けてしまっている。
一方で、白いアーマーの表面には傷どころか僅かなくぼみすら生じていない。
「…………」「…………」
体勢を整え、前方後方から挟み込むようにラルゴを観察する二体のアーマー。
不測の事態であろうに、言葉を交わす必要はないらしい。
「どうした? 〈
挑発するように、依然正体不明の襲撃者たちに対して言い放つ。
柄にもなく昂揚していることを自覚する。
ここまで傷を負わされるのは、いや一度殺されるまでに至るのは、初めての経験だった。
もう一度、胸に刺さったままだった白刃に手を添える。
引き抜こうとするだけで激痛が走るも、こんなものが突き立っていては邪魔でしかたがない。
赤黒い血を付着させて、白い刃は男の身体から取り除かれた。
表面の血はすでに硬化し、ラルゴが身に着ける全身鎧と同じ、昏い赤色に変色していた。
抜いた自分の血を固めて作ったのがラルゴの
右手に収まった白い刀身を眺めながら、全身の状態を確かめる。
もっともダメージがあるのは、当然ながら心臓部。
まだ鼓動は復活していない。
だが、出血そのものはすでにとまっている。
完全回復までは、数分ほどだろう。
次に、左腕。
しかし、こちらは心臓よりは軽傷なのでさほど問題ではない。
すぐに戦闘に支障ない程度に再生する。
あとは──
「…………イイヤ」
前後の敵の様子を確かめようとして、ラルゴはその声を聞いた。
奇妙な声音だった。
なんの感情も籠められていないような、無機質な音。
前と後ろ、どちらの人物が発したものであるかも判然としない。
それが自分の問いに対する回答であることに気づくのに、僅かに時間を要した。
「ハジメテ、デハナイ。ヨクシッテイル、イヤトイウホドニ」
「…………そうかい」
なぜだか、感情の希薄な言葉に察してしまうものがあった。
だが、新たな情報はさらなる疑問を生む。
もしそうであるのなら、そんな連中に狙われるアリムラック・ヴラムスタインという少女とは、やはり何者だというのか。
芽生えた疑問は、しかし正解を導き出すことすら許されなかった。
前後のアーマーが動く。
なんの予備動作もなかったというのに、示し合わせたかのようなタイミングと挙動で。
(どうする──)
この敵は、なにもかもが今までと違った。
隠密性、装備、戦闘能力、なにもかもが。
そして最大の問題は、ラルゴが感じた通りにそうであること。
その予測の通りであるのなら、どれだけ拮抗したところで不毛な争いとなる。
逡巡は短く、けれど致命的なほどに遅緩だった。
気配のなさを危険視するのであれば、当然、今この場にない気配にも注意しなければならないということ。
だが、直後に現れた十数に及ぶ影をも予測すべきだった、などとそれほど理不尽な要求もあるまい。
数えきれぬほどの白刃が、一斉に杭のごとき鋭利な先端を向けて男に襲いかかる。
ああ、と諦めにも似た冷めた気持ちでラルゴは思う。
これはしかたがない。
抵抗するだけ無駄というものだ。
ひとつふたつの刀身を弾いたところで意味がない。
結果は同じ、数秒後に訪れる死を回避する手段はない。
そう思考する彼の頭蓋を、兜を引き裂いた白い刃が刺し貫く。
思考が遮断され、肉体の感覚もすべてが喪失していく。
全身を刺し貫かれ、切り裂かれ、ラルゴという男の肉体は、完膚なきまでに破壊された。
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