第二章【4】 異変

 ひどく不快な、警告のような感覚だった。


 空中を飛び回る羽虫の翅の音を聞き取ったときに抱く、本能的な感覚に近い。


 背筋を走る嫌悪感に、ラルゴの表情が歪んだ。


「ああ、やはり君には〝わかる〟のだね。すごいな、どうやって感知しているのか実に興味深い」

「……なに?」


 村の外に感じた異変に気を取られようとしていたラルゴの意識を、アリムラックの言葉が引き戻した。

 壁越しに村が荒野に面している方角を見ながら、銀髪の少女は何気なく話す。


「何度も言っているだろう、君には護衛を頼みたいと。身辺警護が必要ということは、『わたしを狙う存在がいる』ということに決まっているじゃないか」


 当然の帰結であるように言って、彼女はさらに思案する。


「ふむ。しかし、まだ君とは契約関係を結べていない。今この場で君が了承してくれるのなら話は早いのだが──」

「……悪いが、その気はない」

「──残念。実に残念だが、仕方がない」


 イース、と静かに少女は背後の従者に呼びかける。

 はい、と短くメイドは主人の声に応じた。


「迎撃をしてもらいたい。演算補助はするが、なにぶん多勢に無勢というヤツだ。苦しい戦いになると思うが、頼めるかい?」

「ご命令とあらば」

「では、頼む」

「畏まりました」


 そう言って、イース・セルビトールは家の外へと出て行った。

 純白のローブで再び全身を覆い、入ってきたときと同じ、いるかどうかも判然としない気配のなさを纏いながら。


「…………」


 室内に残った少女を前にしながら、ラルゴは口を固く閉じようと努力した。


 そうしなければ、『結局お前は何者なのだ』という疑問が飛び出してしまいそうだったからだ。


 それを訊いてしまったが最後、少女を取り巻くだろう因縁に巻き込まれる確信があった。


 そんな覚悟も義理も、あるわけがなかった。


「安心してくれたまえ。契約も結べていないのに、君を巻き込むつもりはないよ」


 ラルゴの心情を読み取ったように、アリムラックは独り言みたいに話し始める。


 そのとき、初めて少女の顔から幼さが消えたようだった。


 いや、というべきなのか。


 最初に人形のようであった時と同じ、子どもという外見に似合わぬ美しさとあやしさを漂わせて、彼女は微笑んだ。


「わたしが何者であるかは、さっき伝えた通りだよ。《永遠の美少女天才科学者》──わたしは、それ以上でも、以下でもない」


 どこか、寂しさすら感じさせる微笑だった。

 この歳の少女が浮かべるには、あまりに複雑な感情が秘められているようだった。


「──……」


 一瞬だけなにかを言いかけて、しかし自分でもなにを言おうとしたのかわからないことに気がついて、ラルゴは再び口を閉じた。


 この状況で迂闊なことを言う余地があるとは思えない。


 確認すべきことがあるとすれば、ひとつだけだ。


「あのメイドだけで、対処できるのか?」

「彼女は優秀だよ。戦闘自体は厳しいとは思うが、最終的には撃退できる計算だ。それに、もし対処し切れなかったときは、わたしの身柄を引き渡せば解決する。〝彼ら〟の狙いは、わたしの命ではなくわたし自身だからね」

「……あっそ」


 できるだけ無関心を装って、気持ちの籠らない返事をする。

 自分がどんな感情を抱いているのかすら、今のラルゴには──


「君は、怒っているのか?」

「…………あ?」


 不意に言われて、まともに答えられなかった。

 意味のない言葉が口を衝いて出る。


 訝しそうに表情を歪めるラルゴに、アリムラックは言う。


「すまない。やはり、わたしは君に会いに来るべきではなかったのだね。君が怒っているということは、そういうことなのだろう?」

「……待て待て。なんで、そんな結論になる? そもそもおれは怒ってなんて……」


 言いかけて、自分のなかで合点が行っていることに気がつく。


 名前のない、形容すらしがたかった感情が、指摘されたことで実体を伴っていた。


 確かにラルゴという男は怒っていた。


 だが、この場合は何に対して──?


「…………少なくとも、お前に対してはなにも怒ってないから安心しろ」


 不明な感情に名前がついて、だからこそ、自分は目の前の少女に悪い心証を持っていないとわかった。

 怒りと呼べる感情はもっと別の方向、真逆を向いているように感じられた。


「気を遣ってくれなくて構わない。君が怒っていることぐらいは、わたしにだってわかる」

「いや、だから怒ってはいてもだな」

「やはり怒っているのだな! さっきから、理由はわからないがちょっと恐かったんだ!」

「当てずっぽうだったのかよ! つーか、別に恐くはなかっただろ!」

「……君はもう少し自分のことを客観視した方がいいと思うぞ? 君ぐらいの体格の人物の機嫌が悪いと……あの、その…………かなりの恐怖だ」

「…………悪かったよ」


 だいぶ言葉を選んで指摘されたことに、妙に傷ついた。


 いや、知らず知らずのうちに相手を恐がらせていたことの方が、よほどラルゴにとってはショックな出来事だった。


 状況自体は切迫しているはずなのに、この少女と話していると妙に気が緩む。


 せいだろうか、気づけば軽口を叩いてしまっている。


 このままでは駄目だ、いつものように適度に気を引き締めなければ。

 そう自分を戒める。


 だから、その〝可能性〟に彼だけが思い至ったのも、当然といえば当然だった。


「……この際だから、理由は訊かねえ。お前も、〝敵〟が近づいてくるとわかるんだな?」


 あくまで確認の意味合いで、ラルゴはアリムラックに尋ねる。


「うむ。しかし、わたしのは科学者ゆえの技術的な方法だ。わたしからすれば、君がどうやって肉体の感覚だけで感知しているかの方が──」

「それはどうでもいい。ちなみに今、海側になにかいるかわかるか?」

「──? いや、探知はくまなく行っているが、敵性反応はなにもないぞ」

「ああ。おれの感覚でも、そっちからはなにも来てない」

「うん?」

「…………クソッ!」


 悪態を吐きながらラルゴは壁際に走った。


 仕事道具の赤黒い全身鎧を次々に身に着けていく。

 確認だけならば身ひとつでも構わないが、万が一の場合に武装していなければ対処が遅れる。


「君は、なにをしているんだ」

「ただの確認作業だ。なにもなければ、それで問題ない類のな!」


 行動の意味が理解できていない様子のアリムラックに言い捨てて、ラルゴは少女を残して家の外に飛び出した。鎧の装着には一〇秒もかけなかった。


 強い日差しが、彼の網膜に差し込んだ。

 反射的に目を伏せつつ、方角と感覚を頼りに、浜に向かうための路を選択する。


「おい、急にどうしんたんだよラルゴ?」


 武装した用心棒の姿に村人が声をかけてくるが、「緊急事態だ」とだけ短く言って移動を急ぐ。


 だが、昼間になった村のなかは住民が多い。

 それらすべてに気を配っていては、速度が足りない。


 だから、彼はことにした。


 呼吸を整えるのは一瞬。

 次の瞬間に訪れる浮遊感と痛みに備えて、精神を統一する。


 そして、地面を両の足で蹴った。

 必要な飛距離を稼ぐために、必要なだけの膂力を込めて。


 赤黒い鎧が、空気を裂いた。


 充分な速度と高度。

 頭のなかで瞬時に概算した理想の動きのままに、男の肉体は宙を舞う。


 ズン、と着地の衝撃に両足が音を立てる。


 ほんの僅かな痺れと痛みを感じつつ、けれど感覚すべてを無視して彼は水平線を見据えた。


「え、ラルゴっ⁉」


 浜辺に突如として現れた赤黒い全身鎧に、その場にいた少女が声をあげた。


 イコだった。

 足下には洗濯物。

 用心棒に忠告された通り、今日の分の仕事をしていたらしい。


「なんでもねえ。気にすんな」

「いや、無理だって。ビックリしたし」


 振り返ることなく話すラルゴに駆け寄ろうとするイコ。

 それを手の動きだけで制して、なおも目の前の海だけを見ながら男は言った。


「本当になんでもねえ。けど、お前は念のために村に戻ってろ」

「……うん。わかった」


 いつになく緊迫感のあるラルゴの声音に、イコは素直に従うことにした。

 洗濯物をまとめて、村に戻るために歩きだす。


 その様子を気配だけで感じながら、ラルゴはしかし杞憂だったかと思い直し始めていた。


 海岸に異常はない。

 不審な人物もいなければ、見慣れない船が近づいてきているようなこともない。

 静かに、波だけが浜に寄せている。


 海鳥の一匹すら飛んでいない、静謐とした風景だった。


 上空に巨大な〝帯〟が浮かぶ光景もいつもと同じ。

 ラルゴが記憶している景観と大きく食い違うような異常は、なにひとつとして起こっていない。


 可能性に思い至った勢いで移動してしまったが、本当にただの杞憂だったか。


 そう、ほんの少しだけ彼が気を緩めた、その瞬間。


 純白の全身鎧が、海面を引き裂き男のすぐ横へと上陸した。

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