第3話

頭痛が治ったのなら、状況の説明をしないといけない。

でも残念ながら、私は自分がどういう立場なのかさえ、正しく認知していない。


まず言っておく必要があるのは、ことの発端がずっと昔の話、あるいはずっと未来の話であることだ。

こういう時系列の曖昧さはよくないのだけれど、諦めて欲しい。だって前とか先とか過去とか未来というのは、時間が一つの大きな流れであることが前提の物言いになる。

かつてはそれで支障がなかった。

でも今や時間は分岐に分岐を重ねた大河だ。その末端は川というより毛細血管で、つまるところ無数に存在する。

なぜそんなことになったか? ある時世界が分岐しようと思い立った、なんてことはありえない。きちんと人為的なきっかけが存在する。……この説明は寄り道ではなくて本筋になるので、もう少しだけこのややこしい話に付き合ってほしい。

ただまあ、話を簡便にするため、時系列はあくまでも私の主観、ということにしよう。

主観の内側では流石に、時系列は一本の川のままだ。まだ、と但し書きがつくけれど。


その昔、フランス系イスラエル人のユヴァル・ヘルツォークが量子コンピュータを用いて多世界の観測に成功したらしい。

パラレルワールド、と安易に飛びつきたくなるが、実際のところは確度の高い精密な演算が可能になったという話で、ラプラスの悪魔の発見と言った方がまだ正確なんだそうだ。もちろんその形容だって、正しいかと言われれば首を横に振るしかない。

とにもかくにも私のような凡人に理解できることというのは、途方もなく小難しい理論で、世界が重なり合っていることが証明されたということだけだ。そして世界は大きなシュレーディンガーの猫ということになった。観測されるまでは全ての可能性が存在する、という意味で。

問題は、観測する人間の主体のほうにあった。だが時はトランスヒューマニズムの最盛期、時流は彼に味方をした。魂と肉体の分離は、実に都合のいい技術だった。魂、自我、主体。そういうものに新しい感覚を備えるのに、うってつけだった。

いや、新しいとは言えないのかもしれない。仏教において、五感ではなく六識というものがとなえられていた。眼識、耳識、鼻識、舌識、身識。ここまでは五感と一緒で、最後が付け加えられている。それが、意識。マモ・ヴィジュニャーナ。

ヘルツォークは否定されたそれを引っ張り出して、そして再構築して再定義し、多重に重なりあう世界をあるがままに観測することを可能にさせた。拡張意識によってあたかも夜空に散らばる星を線でつなげて好きな形を見出すように、多重世界は観測可能になった。

観測できるようになったが、ヘルツォークはそれ以上のことを許さなかった。すべての世界が交流できるようになれば、やがて文化は相互に影響しあって均質化することが目に見えていたからだ。あたかも交通網やインターネットの発展により着るものも食べるものも世界中で差がなくなってしまったみたいに。ヘルツォークはただ観測したいだけだった。だから彼はある時から自分の研究を秘匿し、少子化による人口減少の著しいヨーロッパの田舎をまるまる買い上げるとそこを箱で囲った。

エヴァレティア。ヘルツォークはその土地をこう呼んだ。エヴァレティアにはヘルツォークが招聘した研究員とボランティアの観測者たちが集められ、無数に重なり合った世界の観測を行い、ログを増やし続けている。

かつて、私たちはエヴァレティアの研究員、あるいは観測者だった、らしい。

観測の最中で元の世界を見失い、帰れなくなった者たち。それが私や、真壁さんや、ミリュウというわけだ。その多くが拡張意識に不調をきたしていたり、レアケースだと私みたいにまるまるそれを失ってしまっていたり、真壁さんみたいに体をなくしてしまって身動きが取れなくなってしまったりしているわけだ。

誰かに助けてもらえばいいと思うかもしれない。

エヴァレティアの中は、こういってよければすべてが溶けたスープのようなものだ。観測されるまで、私たちはそのどこにでもいて、どこにもいない。故に、外から助けてもらえるというのは現実的じゃない。実際、研究員や観測者たちはここで起こった事故はすべて自己責任であるという旨の念書を書かされるという。

そういうわけだから私たちはあくまでも自助努力によって元の場所に帰るか、変調をきたした意識を修復しなくてはならないのだった。

ミリュウはそういう、観測のはざまに落ちた者たちの集団の、一応のトップということになっている。本人曰く、ただ一番長くここにいるだけで、わざわざ集めたりした覚えはないとのことだが、今は二十に届くくらいの人間が彼の周囲に集っている。

この集団に名前はない。真壁さんはたまに茶化して「ユーレイたち」と呼ぶ。皆好き勝手に呼ぶから、所属している人間の数だけ呼び名がある。ミリュウの呼称がばらばらなのも、そのあたりに起因する。

仮称・ユーレイは、一応は相互扶助を行っている。この真っ黒な部屋もそのうちのひとつだ。拡張意識を壊した人間は重なり合った世界のうちひとつに観測をフォーカスさせることがうまくできなくて、私みたいに数十秒でグロッキーになることが多い。そういう人間のために、他の五感をすべてごまかして、あたかも多重世界を観測していないかのような状況を疑似的に作り出している。


その技術を提供してもらう代わりに、私たちは仕事をしている。

誰かがどこかで見失った体や魂の情報を探したり、はたまた技術の進んだ世界であれば帰るため、快適な生活のために有用な知識を見つけたり、あるいは自分たちと同じように迷子になっている連中を保護したり。

ただ、最初から言っている通り、ここにいる人間は拡張意識に欠陥を抱えている。だから、二人一組で仕事をする。そうでなければまともに動けない。

二人一組はそれぞれ、ボディとコンテンツと呼ばれる。説明をする必要も感じられないくらいにそのまんまの名前だ。

ボディは文字通り体を、コンテンツは五から百八のパーツを提供しあうことで、相対的にマシなひとりとして活動が可能になる。

なら、体がまるまる存在しない真壁さんと、中身がまるで空っぽの私。まったくいいペアだと思うかもしれない。だがそれは安易だ。

だって私は、魂がないのにこうして自我があり、考えることができ、体を動かすことができてしまっている。

ここにほとんど完全な意識を持っている真壁さんを入れ込むとなると、どう考えても過積載オーバーロードだ。どうなるか分かったものじゃない。

私がそういうことをミリュウにこんこんと説明するのだけれど、彼は全く取り合うつもりがないみたいでさっきから視線をどこかにやっている。手元の書類か何か……いや、携帯ゲーム機に向かっているようだった。血管にものすごい負荷がかかるのが分かった。



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