第2話

ここはどこでもないので、どこでもある。

つまり私たちは迷子だと言える。


私は自室として割り当てられている部屋を飛び出した。白い、何もない廊下だ。かと思うと、そこに重ねられたのは昭和の日本みたいな木製校舎の渡り廊下で、瞬きをした瞬間には青白い光が幾筋も走るサーバー庫の中だ。

だから部屋から出たくなかったのだ。

私はさっそく頭痛を訴えはじめたこめかみを押さえた。

「僕が必要なんじゃない?」

真壁さんがドローンを操って追いかけてくる。小さなプロペラとちいさなカメラだけのそのドローンのどこにマイクがあるのかは分からないが、生の声帯でもそなえているみたいに鮮明に真壁さんのにやにや声を再生してくれた。ありがたくない。

それを無視してどんどんと道を進む。目はなるべく細めて、視覚情報は極限まで絞るのだけれど、そうすると聴覚や触覚が無暗に情報を拾いそうになる。

仕方がない。私は迷子で、落とし物なのだから。

「僕のバディになるのがそんなに嫌?」

「黙ってて……」

「なぜ?」

「今、私は、頭が、とっても痛いからです」

「ならなおさら、僕が必要だ。君にはこの重なりはつらいだろう?」

ひい、ふう、みい、と真壁さんが今私たちのうえに重なる世界を数えてくれる。教えてくれなくていい、私はそれが見えていて、それに苦しめられているのだから。

世界の説明をするには、時間と健康が足りない。私は頭痛で目の前がちかちかと明滅しはじめたのを自覚する。吐き気を覚える。喉のあたりが生理的な吐き気でひきつけでも起こしたみたいに震える。真壁さんが何か言っているみたいだけれど、もはや言葉として認識できなくなってきた。

たかが数十メートルを歩いただけでへとへとになって、ようやく目的地にたどり着く。部屋の数で言ったら三つ分。たったこれだけで私は死にかけている。

ノックもせず、その白色の扉を、あるいは木製の引き戸を、あるいは声帯認証の自動ドアを開く。中に入ると闇が漏れてくる。この部屋には光はなく、中にいるのは一人だけ。その人は自発的に発光でもしているみたいに、あかりのない部屋のなかにあってもつぶさな表情まで見える。

見えないけれど椅子があるのか、虚空に腰をおろし足を組んでいるのはミリュウ。でもその名前を呼ぶ人はいない。室長だとか、部長だとか、会長だとか、編集長だとか、適当に呼ばれている。あまりきれいじゃないくすんだプラチナブロンドに、淡いとび色の目、青白い肌をした、神経質そうなほほ骨の高い男性だ。私が飛び込んできたのを見て、わざとらしく目を丸くした。

「引きこもりが珍しい。何しに来たの」

「次の仕事、真壁さんと一緒って本当ですか?」

「ええ? そうだっけ。知らないなあ。っていうか、そんなことなんで俺に聞きに来るの」

「あなたがここの長だなんて名乗ったんでしょう」

「ボスに直接聞きにこないでよ」

やだやだ、これだから最近の若いやつは、とミリュウが肩をすくめる。

それから私に遅れて部屋に入ってきた真壁さんのほうに視線をやったかと思うところころと笑いだした。

「間抜けが来たね、そんなになってまで出歩くなんて、よほどこの引きこもりにいやがらせがしたいんだ」

ミリュウもまた、真壁さんと似たような人種だ。つまり、他人の行いや振る舞いに対して、にやにやと高見の見物をして、野次と形容できないぎりぎりのコメントを投げるのが趣味。

「やだな、なんで僕が三伴さんにいやがらせなんてしなくちゃいけないの?」

「いいです、お二人のことはあとでいいです。あとにしてください。とにかく、次の仕事の話をするんです、私たちは」

「なんで俺が。……はいはい、分かったよ。座りな」

ミリュウはこれ見よがしにため息を吐いてから、私に席を進めた。椅子があるのだろうが、私には見えない。この空間の中できちんと視認できるのは、ミリュウさんと、私と、真壁さんの声がするドローンだけ。入ってきた扉さえも、墨で塗りつぶしたみたいに真っ黒に染まっている。

おかげで私の吐き気はおさまっているのだけれど、その代償にここにあるものは何一つ見えない。私は中腰になって手探りで椅子や、なんでもいいから腰をおろせそうなものを探すけれど、机の角や本棚に手をぶつけるばかりでそれらしいものは何もなさそうだった。真壁さんはドローンなので、最初から座るという選択肢がないせいか、私の滑稽なしぐさを見てけらけらと笑っていた。

「室長、椅子ってどこにあるんですか」

「この部屋にある椅子は一脚だけだよ」

ミリュウはなんてことはないように言い放つ。視線をやれば、ミリュウは明らかにひじ掛け付きの椅子に腰を下ろしているような恰好だ。

「別に俺、椅子に座れなんて言ってないよ」

「……どこに座れっていうんですか」

「好きなところに座れば? 机の上はやめてね」

つまり床しか選択肢が残らない。ミリュウはとにかく私を部屋から追い出したいのか、あるいは人に意地悪がしたくて仕方がないみたいだった。座るのは諦めることにする。

「それで、次の仕事の話です。真壁さんとはNGって言ってましたよね、私!」

「そんなこと言ってもな。俺、覚えてない。真壁、資料はあるんでしょ。テキストを表示させて」

「僕がですか?」

「何、ただいやがらせのために適当こいてただけとか言わないよね? 早く出しなよ」

こどもの遊びにつきあうほど俺は暇じゃないんだから、とミリュウが唇を尖らせる。この部屋の主はミリュウだし、私たちにいつも仕事の資料を送っているのもミリュウなのだから、彼がするのが一番早いはずなのに。ただこのミリュウという人間は、とにかく自分で何かをすることを嫌がる。時間がかかっても、手間がかかっても、他人を動かしてやらせるほうが万事につけいいと信奉しているような面倒な人種なのだった。

真壁さんはそのあたりのことを長い付き合いで理解しているので、ミリュウの支持に唯々諾々と従い、真っ黒な壁に目に痛い緑の光を投影させる。いつも通りのテンプレートに流し込まれたいつも通りの仕事依頼で、ボディの欄には私の名前が、コンテンツの欄には真壁さんの名前が、確かに記載されていた。

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