本と幽霊

守宮 靄

本と幽霊とあなたと僕と

──電灯の発明は室内から夜を遠ざけ、そこに確実に息づいていた幽霊たちは行き場を失ってしまった。そんなことはない、現代でも『事実をもとにした』幽霊・怪異譚は生まれるし、幽霊が出てくるホラーコンテンツは今なお人気で新しいものが次から次へ湧いて出て、なんなら食傷気味なくらいだ、という意見もあるだろう。しかし、風で揺れたり不意に消えたりしない灯りの中に、それ以前と同じように幽霊たちが存在しているとは思えない。彼らはもはや夜の空気の中には存在せず、昼と見紛うほどの光に裂かれて霧散したのだろう。


 本を閉じる。あなたに勧められた記憶はあるが、タイトルからして自分の趣味ではないことが分かっていたから、今になるまで読む気も起きなかった。そして読み始めたものの、案の定なかなか先に進めない。ページを繰る手は止まりがちで、少し読み進めるごとに休憩が必要だった。そもそも本なんかあまり読まないのだ。SNSで爆発的な人気を博したあの感動小説だって、中途で放ったまま続きを読めていないのに。


──蝋燭の火が揺れる。不鮮明な影が揺れる。その向こうに、人は幽霊を見たのだろう。灯りのひとつさえない寝室で鳴る物音に幽霊を聞いたかもしれない(これは今でも有り得るかもな)。とにかく、闇の中に不安定に安住していた彼らが、ある日突然、強制立ち退き要請されたさまを想像すると、少し哀れにも思えてくるよね。「さっきから幽霊の存在を信じているのかいないのかはっきりしない言い草だな?」見たことがないものを信じるとも信じないとも言いきれないだろう。そしてこの先もきっと見ることはない。


 目の前にある本棚を眺める。天井に届きそうなくらいの高さの棚に、本がぎっしりと詰まっている。隣り合う本どうしの出版社や著者、ジャンル、タイトルの頭文字は一致していないように見える。が、何かしらの規則に従ってはいるらしく、俺が適当に戻した本を「それはこっち」と言って並べ替えるのを何度となく見た。だが結局、どういうルールで並べられてるのか分からないままだった。だから、本を取り出すときはどこから取り出したかを覚えて(自信が無いときはメモまでして!)、理解できない秩序を維持しようとしている。


──それじゃあ霧散した幽霊たちはどこへ「さっきは影や音に触発されて人が見た幻覚が幽霊だ、みたいなこと言ってたくせに存在する前提で話を進めるのか?」やかましいな。『夜の闇の中の影や音に幽霊を見て、聞いたのだろう』と言ったのであって幻覚だとは一言も言っていない。まあ、電灯によって幽霊たちが霧散したとして、霧になったその幽霊たちがどこに行ったのか、興味はないか? あるな? あるということにしよう。安住の地を追いやられた彼らの次の楽園、私はそれに目星をつけた。……振りでもいいからもっと興味ありそうな顔をしてくれないか?


 深呼吸をして、再び本を開く。鼻腔には、今まさに手に持っているこの本が発する、古本特有のあの匂いがへばりついてしまった。これもあなたの匂いの一部だった気がするが、肝心のあなた自身の匂いをはっきり思い出せない。嗅いでみれば間違いなく「これだ」と分かるのだろうが、その機会はもう。


──幽霊たちの第二の楽園にして終の住処、それは……本の中だ。……相槌打つなら打つでもっとこう、他にあるだろう、抑揚とか表情とか。『幽霊は本の中に移り住んだ』と言ったが、これは『彼らは“おはなし”となって今でも存在し続けています』みたいなことを言いたいわけじゃない。夜を追われた彼らは本のページとページの隙間に住んでいるんじゃないか、と言いたいんだ。考えてみろ。書架に仕舞われて、ぴったり重なった紙と紙。その隙間に、電灯の光は届かない。本の中には現代でも懐かしい夜の闇が遺されている。不躾で圧倒的な灯りに駆逐されたかに見えた幽霊は、本の中でひっそり暮らしている。どうだ、面白くないか?


 幸運なことに今読んでいるのは短編集だから、小休止を挟みやすい。今読み始めたのは海外の幽霊譚のようだ。日本では幽霊といえば夏のイメージだが、海外の幽霊は冬の印象、閉め切った室内に窓から忍び込む冷気が似合うような気がする。その室内には燭台と蝋燭と、そして重厚なつくりの書架があるかもしれない。


──『いつにも増してわけわからんことを』とか、言ってくれるなよ。今まさに言おうとしてた? 先制しといてよかった。だが言いたいことの肝はここじゃないんだ。本当は『幽霊とは死者なのか?』みたいな議論もしないといけないのだろうけど、ここではそれは割愛して、定石どおり死者の魂やら思念やらの残滓が幽霊となる、ということにしたい。そうであってほしいから。


 幽霊と聞くと、あのときの会話をどうしても思い出してしまう。あなたはいつもわけのわからない、突拍子もない思いつきを口にした。それは何らかの行動を生み出すのでもない、ただの空想の断片でしかないことがほとんどだった。だがあなたはそれを誰かと共有したがった。僕はあなたの空想を完全に共有できたわけではなかったけど、あなたが話したそうだったから、聞いた。『電灯に追いやられた幽霊は本の中に移り住んだ』というのも、そういった無益無害なイメージ、空想のためだけの空想でしかないと思っていた。


──これまでの話を踏まえて、君に頼みたいことがある。私が死んだあと、私の蔵書の中に私の幽霊がいるかどうか、確かめてほしい。蔵書はこの棚にあるものが全てだ。なるべくこの部屋で死ぬようにしたいが、もし病院やら屋外やら他の場所で逝くことになっても、なんとかしてここまで戻る。「どうやって?」それはまあ、そのときに考えるよ。君はほら、むかし幽霊見たとかなんとか言ってたろ。幽霊じゃなかったっけ。妖怪? 河童? まあ、大丈夫だろう。


 その空想がさらに突拍子もない『頼み事』のための枕だなんて思ってもみなかった。どこからツッコめばいいのかも分からなかったし、何が大丈夫なのかも理解できなかった。まるですぐにでも死ぬ予定があるかのような言い方が多少引っかかりはしたが、その一点を殊更に取り上げて何か言うのも違う気がしたから、「覚えてたらな」なんて意地の悪い返事をしてしまった。それでもあなたは少し微笑んだ。


──そのときはちゃんと1ページ1ページ確かめるんだよ。……あのねえ、こういう毒にも薬にもならない思いつきを言える相手は君だけなんだよ。いや言うだけなら何に対してだってできるけどね、興味なさそうな顔しながらも聞いてくれて、咀嚼して想像までしてくれる相手は貴重なんだ。唯一と言っていいかもね。そういうわけで、頼んだよ。


 それからすぐ、本当にすぐ、あなたが死ぬとは思っていなかった。短い遺書により、蔵書は本棚ごと僕に譲られることになった。あなたの親族の手伝いを断り、彼らの怪訝そうな顔に見守られながら、本の並びを崩さないように梱包した。本音を言えば部屋ごとそのまま保存しておきたかったが、賃貸の部屋はすぐに引き払わなければならない。かくして、この本棚と本は僕の狭いアパートへやってきた。


 そして、本の中に隠れてしまったかもしれないあなたを探すため、僕はこの本を読み始めた。


 ……本当のところは少し違う。




 本棚が部屋にやってきてから今日までの空白期間、僕はあなたのことを考えていた。あなたと初めて話したときのこと。たまたま隣に座って、あなたがそのとき読んでいた文庫本についてなんの気なしに聞き、それが僕も名前だけは知っている最近SNSで話題の本だったから、「僕も読みたいんですけどね、読むどころか本屋に行く時間もなくて」とほとんど社交辞令で言った。あなたは読書を中断されて多少迷惑しているように見えた。それなのに数日後、あなたはその本を持って再び僕の前に現れた。「貸す。返さなくてもいい、あげるから。」実直なのかクソ真面目なのか不器用なのかその全てなのか、とにかくあなたはぶっきらぼうにその本を押しつけて、どこかへ行ってしまった。僕はこの『プレゼント』に大いに戸惑ったが、悪い気はしなかったので持ち帰って読み始めた。押しつけられたプレゼントとはいえ何かしら『お返し』をした方がいいかな、と思い立った僕の方もささやかな贈り物を用意して、数日かけてあなたを見つけ出し、そこでやっとお互いの名前を知った。これがあなたと僕との始まりで、当時はあなたが人見知りなだけで実はとてもお喋りであることも、この縁がこんなに続くことも知らなかった。プレゼントは結局読み終わらなかった。感想のひとつも言えないままだ。


 考えていたのはあなたとの思い出だけではなかった。最後の最後にあなたが押し付けた頼み事。その真意について。『本の中に幽霊がいる』というのが完全なる口から出任せだとも思えないが、あなたの狙いは他にあるんじゃないかと思っていた。


 たとえば。僕にあなたの本を読ませるため。親しくなるほど饒舌になっていったあなただが、不器用なのは変わらなかった。言葉足らずだったのが、回りくどい説明に変わってしまっただけ。この予想は外れてはいないんじゃないかと思う。


 乱雑に並べられているように見える本を、顎に手を当てて悩みながらさらに並び替えようとしているあなたを思い出す。幽霊の話をし出す少し前くらいから、あなたはそういう一見意味の無い、だがあなたの中だけにある秩序を乱すという大胆な行為に及ぶようになっていた。これはもしかしたら(全ては都合のいい妄想かもしれないが)、『セトリ』を組んでいたのではないだろうか。この本の次にはこれを読んでほしい。いやテーマの繋がりを考えるとこっちの方がいいか。あなたのためだけの本棚から僕のための本棚に組みかえていた? 僕が最初に手に取った本、一番上の棚の左端にあったこの本は、怪奇譚の短編集、彼女の『頼み事』の長ったらしい前置きからスムーズに繋がるように……これは考えすぎかもしれない。


 ……仮にあなたが僕にあなたの本を読ませたがっていたとして、その意図はなんだったのだろうか。自分がいなくなってからも空想を共有したかった? この本たちを読めば、あなたの空想の源泉に触れられるのだろうか。自分のことを忘れないでいてほしかった? もしそうなら、その目論見は成功するだろう。本棚ごと本をプレゼントするような人間をそうそう忘れられるわけがないし、僕の読書ペースでは読破まで何年かかるかも分からない。そのころには、あなたが何を考えてこんな道を選んだのかも分かるのだろうか?


 何の役にも立たないことをたくさん話してきたくせに、大事な言葉を何一つ交わさなかったことを、今になって後悔している。だから、あなたの本を読む。あなたの残滓を探したかった。


 僕は本棚と本と、その中に潜むあなたの幽霊を引き取ってしまった。




 やっと一冊目を読み終わった。こんな機会でもなければ一生触れなかったかもしれない作品たちだった。幽霊という単語が目に入るたびに喉に何かが詰まるような気がしたが、いずれこの感覚にも慣れるのだろうか。本の最後のページと裏表紙との間に、栞が挟まっていた。僕があなたに渡した最初のプレゼント、あの本の『お返し』だった。

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