第30話

「にしても……今日の弁当、なんだか多いね」


 最初から気付いてはいたが、いつも瓢太の弁当箱は一つなのに、今日は珍しくそれが二つある。


 メインとデザートを小分けにしてるのかと思ったけど、大きさは同じくらいに見える。


「あーこれ、朝練用のなんだよ」


「朝練? 朝練あったの?」


「うん。明後日、もしかしたら高校生最後の公式戦になるかもしれないからな。顧問ができるだけ練習時間を取りたいからって」


 明後日、か……。昨日と一昨日が濃厚すぎててすっかり瓢太の試合のこと、頭から抜けてた。


「だから今日の朝、バス停のとこにいなかったのか」


「あーわりぃ。連絡するの忘れてた。朝早かったから寝ぼけてて」


「いや、別にそれは大丈夫。気にしてない」


 朝に弱いのは僕もそうだ。今日の早朝トレーニングの記憶なんて半分ないし。気付いたら池の周りを走ってたし。


 いや……走らされていたといっても過言ではない。おかげで今日はずっと筋肉痛で、授業開始と終わりの号令で椅子から立ち上がる度に足がガクガク震えていた。


 リードさんの鬼ヤバトレーニング、もとい即席トレーニングのおかげでね……っとそちらを見やれば、彼女の姿はもうなかった。いつの間に消えてたんだ……。


「介……お前、いい奴だな……」


 なぜだか瓢太が瞳を潤ませていた。


「いや、そこまで言われるようなこと言ってないけど」


 肩に乗っかってきた瓢太の手が煩わしいなと思いつつ、僕は精一杯の愛想笑いを作る。


 瓢太は鼻をすすりながら目元をぐいっと拭うと、またいつもの調子で話し出した。


「というか、そういう介も、今日はいつもより多くねぇか?」


 さすがに友達してるだけある。瓢太の言う通り、瓢太の弁当と比べれば大した増量ではないが弁当箱はいつもより大きくなっている。


 元は一段だった弁当箱も、昨日孝子さんが病室まで持ってきてくれた二段の弁当箱を使ってる。筋トレを始めた僕の体は、やけに食べ物を欲するようになっていた。


「あ、まぁ……ちょっとね。最近、体なまってきた感じだったから、運動してるんだよ」


 気付いてくれるのは嬉しいが、内心はかなり複雑。ここでもまさか嘘を吐く羽目になるとは……。


「お、筋トレしてんのか!? 付き合ってやろうか? それともうちの部活、来る!? 今日の放課後練習やってるし」


「いや、瓢太のところ球技だし。筋トレが主な練習メニューじゃないでしょ?」


「いや違う違う。体を鍛えるのにもいろんな方法があるんだよ。その中でもサッカーは手以外の体全体を使う。特に足腰は鍛えられるぜ。体をぶつけ合うからな」


 絶対に怪我をする未来が見える……。


「って言われても……勝手に行っていいの? 公式戦前だろ?」


「……まあ、バレたら普通に叱られるとは思うけど」


「だろうね」


 まあ、筋トレを一人でやるよりかは精神的に楽なんだろう。それでもリードさんが陰ながら無理させてくるのが容易く想像できてしまうけれど……。


 平然と走ってる瓢太の横で、なぜか異常に疲れ果ててる僕……ありえそうなシチュエーション。


「一緒にやるとなると……放課後か、休日か」


「いや、無理して一緒にやろうとしなくて大丈夫だって。まだ公式戦あるんだろ?」


「まあ、そうだけどさ。それが終わったら引退だし」


「受験勉強は?」


 なんて、内定が決まってる僕が訊ける立場じゃないんだけど。


「あー……まあ、息抜きってことで!」


「……まあ、それくらいなら」


「よっしゃ。じゃあ、行くときに連絡するわ。介は大丈夫だよな? もう決まったんだっけ? 就職先」


「うん。まあ……介護職に、就くことになった」


「おー、良かったじゃん! 目指してたやつだっけ?」


「うん、まあね」


 本当なら、楓にもこう言ってもらえるはずだったんだけどなぁ……。


「おー、おめでとう! よし、じゃあ……」


 言うと、瓢太はいそいそと弁当箱を開けて、中にあるおかずをひとつ、お箸で摘まみ上げる。


「はい、これ! 玉子焼き!」


「いや、別にいいんだけど……」



######



『介護職にかれたのですね』


「え? なに急に……」


『昼食の時の話です。訊くタイミングを逃してしまったので、今聞いておこうかと』


 バスでの帰宅途中。呆然と外を眺めていたら、ふと僕の視界にリードさんが現れる。


 なんだか不可思議な光景だ。車窓に流れる景色の中、一人の女性がバスと同じ速度で並走している。いや、厳密には走ってすらいないんだけど……。


「まあ、介護職になるっていうのは決めてたから。大学からじゃなくても行けるって知ったのも、進路相談の時で将来のことを尋ねられた時だし」


『大学に行かずとも就けるなら、今の家庭状況や金銭面を考慮してここでもうなってしまおう。そういうお考えだったんですね』


「……言い当てられるの、怖いよ。そういう力なんだろうけどさ……」


 もちろん、目先の夢にすぐに飛びついたわけじゃない。自分の学力も考えたし楓の将来のことも考えたし、リードさんが言い当てた通り、今後の家庭の在り方や金銭面のことも考えた。


 リスクはあるけど、その中でも学歴を捨てることを選んだ。もし僕が奨学金や教育ローンを返せないようなことがあったら、その矛先が家族の方にも向いてしまいそうで……。


 学歴の話であれば、不利益を被るのは僕だけだろう。そんな考え方も、大人達からすれば安直なのかもしれない。


 でも……少なくとも、我がままを言えるような状況ではないと僕は判断した。努力してればどうにでもなるかもしれない。


 けれど、それが怖い。どこかで無理だった場合のことを頭の隅で考えてしまう。


 誰にも何も言われていないのに、不意に劣等感を思って苛まれる。その時、自分は無力なんだと、そうつくづく思ってきた。


『介様の頭を覗いて、私もいろいろと思考してみました。介様と妹さん、両者が進学できる道を。もしよければ、お聞きになられますか?』


 そう言われて、興味が沸いてる自分がいた。


「……いいよ、今さら。もらった内定は蹴れないし、放棄しようとか思えないし」


 けれど、僕は聞かないことに決めた。今さらそんなこと言われても後には戻れない。それに……楓にも怒られちゃったし。


 でも一応、就きたかった職ではある。これは自分なりに、自分のことを考えた結果の選択だ。


『……了解しました』


 彼女が僕のなにを察したのか分からないけど、その返事をするまでの僅かな間が気になった。


「……ありがとう」


 彼女に返す言葉に少し戸惑って、しばらく考えて出た言葉は、合ってるかどうかも分からない感謝の言葉。


 楓に反対される前まではこの話で多少なりとも胸を張れていた。


 別に楓のせいだと言いたいわけではないけど、それでも胸中でモヤモヤしたものが疼いてることにどうにも苛立ちを覚える。


 できれば……この感情を誰にも向けず、自然としずまってくれたらいいなと、そう思う。

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