第20話

「……まだ、一人いましたね」


 ふと、リードさんがナースセンターの方に視線をやると、カウンターの下、積み上がった人の山の脇で這いつくばっている老人を見つける。


 その人は真っ白な髪ではなく、黒が混じった灰髪をしていた。


「あ……あんな人まで……。リードさん、あの人……」


「彼もまた、アイ・コピーの分体に体を支配されてる一人のようです」


 痩せこけていて、手や首を震わせながらこちらに向かおうと必死な様がなんとも痛々しい。


 歩けない方なのだろうか。それでも、彼は相手に操られるまま、必死に僕のところまで来ようともがいていた。


「じゃあ、助けないと!」


「いえ、ダメです」


 僕がぐいっと前に出した歩を、リードさんに言葉で押し留められた。


「っ、なんで!?」


「優先順位はまず相手の所在。分体を使って私達の視界をさえぎった隙にこの病院から逃げた可能性もありますが、念のためこの階を見て周ります。あの老人や他の方々を助けるのは、その後でも十分です」


「……」


 リードさんの言ってることは間違ってないと思うし、それが最善最良だとすら思ってしまうから何も言い返せなかった。


 きっと大人は、こういう時リードさんのように明確な意見を持って動くのだろう。たとえそれが、非情に聞こえたとしても。


「……でも、キャプチャーって言って、耳に近付けるだけ……なんだよね? 手の中にあるホワイトキューブを。そうすれば、昨夜みたいに……警官の人を元に戻したように……」


 それでも僕は、あのおじいさんの這いずる姿を見捨てられない。苦しそうにしているその姿を、昔の自分と重ねてしまう。


 体が悪くてしんどい時は誰かの助けがないとまともに動くこともできない。勝手に同情して苦しんでいる自分もどうかと思うが、どうしても胸が締め付けられる。


「だとしても、もしかしたらあれは相手の罠かもしれない。あえて体の弱い人を使うことで、あなたの同情を誘って不意を突いてくるという線も考えられます」


「……そんなの……まだ分かんないよ」


「分からないからこそ、まずはリスクの排除が先決です。相手は拳銃を二丁携えています。いつどこから銃弾が飛んでくるかも定かでない状況で、他人をおもんぱかる余裕はありません。まずは早急にこの階を周回します」


「……」


 頭では分かっている。リードさんの言っていることは正論だ。


 でもこのまま放置していたら、あの人は苦しみに耐え続けないといけない。這いずる姿を……無視できない。


 まだ僕が諦めきれていないことを察してか、リードさんは再度話し出す。


「僅かな気の緩みが生死を分けることもあります。今はなによりも、相手の所在を知ること。それが受け入れられないというのであれば……即刻、現実世界に戻ってくることを選択してください」


「なっ!? なんで今、その話が出てくるの!?」


「介様はあの方の無事を第一に考えたいのでしょうが、私は介様自身の安全が第一です。どちらを取るかと言われれば、私は介様の安全を優先します。私は決して万能ではありません。AIとはいえ、保証できる命の数には限りがあります」


 自分は苦しむ人を助けたい。でも、リードさんも自分の使命を全うするために、僕を守るために動いてくれてる。


 僕があの人を救いたいように、リードさんも自分のすべき使命を果たそうと……。


『それでも……どうしてもというのであれば、私は力を貸しません。別に私は、介様の体を支配してるわけではありませんので』


 突如、僕の視界に現れたかと思えば、彼女はそう言い放った。


 その語調はいつもと同じように聞こえるのに、とても冷たく突き放したものだった。


『介様がそうしたいのであれば、私は……あなたの意志を尊重します。介様自身でも、その足であの方の片耳に手中のホワイトキューブを当てにいけば、苦しみから解き放ってあげられます』


 別にあの人がいる場所まで行くのはそう難しくない。ただ一点、相手が不意を突いて襲ってこなければの話だけど。


 それでもまだ這いずるあの人のうめき声が耳をつんざく。助けてと言っているようにも聞こえて耳が痛い。


 聞いてられない……けど、今は絡まって上手く起き上がれない様子の支配されてる人たちが、また動き出したらその余裕はない。


 銃弾に対処する手段を何も持ち合わせてない。彼女が僕の視界にいるということは、今の僕はただの人間で、無力。


 リードさんのように人間離れした動きはできない。


「──……くっ!」


 長い苦悩の末、それでも僕はその人の元へと歩みだした。


 後ろ髪引かれる思いで、胸を痛めながら、それでも出てしまった足はまるで小さな子供のように止まることを知らない。


 頭では分かっていても、僕の心はあの人を助けることを選んだ。


「今、助けます……」


 自分でも声が震えているのが分かる。もうここに来てしまったら、彼女の手は伸ばされない。


「キャプチャー……」


 右手にぎゅっと握りしめているホワイトキューブがあることを認めてから、おじいさんの右耳にそれを当てる。


 老人の耳から出てくる白い粒子が吸い込まれる様を傍に、僕は頬を引きつらせながら最悪の場合を考える。


 今ここで、まだ後ろで動けてない支配されてる人たちが起き上がった場合……もし相手が飛び出してきて銃で撃ってきた場合……。


「そのまま動くな。アイズの人間」


 固い足音と不気味な気配が右後ろの方から感じて振り返ってみれば、もうそこには僕を睨み付ける銃口があった。


 片方の手にはブラックボックスを握られている。楓の姿をしたそれは、近くの病室に隠れていたのか、気付いた時にはそこにいた。


 最悪の場合の中でも特に最悪なことが起きた。またこの光景……。昨夜と同じ、気付けば目の前に銃口がある。また、この黒い筒の中を覗く羽目になるなんて……。


「命令だ」


 そう言うと、どういうわけか相手は握りしめていたブラックボックスを僕の足元に転がす。


「ホワイトキューブを捨てて、これを自分の耳に当てろ」


 つくづく思う。自分はこの世界で弱い方なんだと。強い奴を前にして、僕は何もできないまま、言えないまま竦むだけ。


 腕と脚を丸めて、頭の中で助力してくれる人を必死に探すか、諦めて従うだけ。


「……」


 こんなことはもう慣れっこだと自負の念すら抱いてたのに、いざその場に立ち会うと何もできず、ただ震えて固まる。


 口ごたえをすれば撃たれることは考えなくても分かる。


 しかもブラックボックスを転がした後、相手は律儀にもう一丁の拳銃をスカートのポケットから取り出して、香ばしい二つの銃口を向けてくる。


 僕がここでリードさんの真似事を始めたところで、その拳銃をどうにかできると思えないし、それはただ弱い奴が暴れてるだけにしかならない。


 僕はホワイトキューブが白い粒子を吸い終えるところを確認して、渋々ホワイトキューブを静かに置く。


 そして、その手で今度はブラックボックスを握りしめる。


 まったく同じ触り心地だと思いつつ、平常心を保とうとでも考えたのか、ホワイトキューブのようにしぼまないことをさりげなくしたためる。


「早くしろ。でないと、その老いぼれが冥府に果てるぞ」


 左方の黒い口が僕から、今は安らかに瞼を閉じている老人の頭頂に移る。


「もしくは……」


 そこで一度言い切ると、今度はもう片方の口がどこともつかない虚空に向けられる。僕はそれが指し示す方を目で追った。


「アイズの人間……お前の、この世界にとっての大切な人が絶えることになる」


 ナースステーションの奥の廊下から、のっそりと歩いてくる男女の姿。その二人を見て、僕は目を剥いた。


「お……母さん? ……お、お父さん!?」

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