#２彼女の正体

『……いいの？　奨学金を借りれば、大学に進学することも可能なんだよ？　入学金ぐらい、別に重たく考えなくても……』

『お兄ちゃんは、大学どうするの？　有名私立とか狙ってる感じ？』

『金銭の問題なら、私がどうにかするし、もしかしたら奨学金は無利子で借りれるかもしれない。そんなに生き急ぐことなんてないんだよ？』

『俺はサッカーを続けたい。介はどう思う？　俺、スポーツ推薦とかもらえたりすると思う？』

『お金の心配をするのは分かる。だけどな、愛（あい）田（だ）。正直、大学には行っておいた方がいい。最終学歴が大卒か高卒かだけで、大人の世界では選択の幅が違ってくる。まだ時間はある。保護者の方からお金を出すと言ってもらえてるなら……もう少し考えてみて欲しい』

『大人だから働くちゃいけないっていう言い分は解らなくもないけど……でもね？　介くんが責任を感じることはないんだよ。お母さんとお父さんがいなくなったのは、全部が全部、介くんのせいじゃないんだよ？』

『お兄ちゃんは私のためじゃなくて、自分のためだけに頑張ってよ！』

「──……はっ！」

　パチッと眼が開いた。なぜか荒々しい息遣い、ドクンドクンと騒がしい心臓。なんだか懐かしくも息苦しい夢を見た気がする……。何かに、急かされていたような……。

　最初に目に飛び込んできたのは、どこか見慣れたシミのついたミルク色の天井。そのシミの数を数えるでもなく、とりあえず荒い息遣いが整うまで静かに見上げる。

　存外、今はなにかを考える気にもなれないし、体を起こす気にもなれない。

　しばらくして辺りが気になり始めて、僕は体勢そのまま視線だけきょろきょろと彷徨わせると、突如一人の人影が視界の中に飛び込んできた。

『お目覚めですか、介（かい）様』

「……うん」

『放心状態ですね』

　この人は確か……リードさん、だっけ。

「ここ……は？」

『日（にっ）朝（ちょう）病院という総合病院です。通りすがりの方が、悲惨な状況を見てすぐに警察と救急車を呼んでくださっていました』

「……そう、なんだ……」

　ここは……病院なのか。そういえば僕、なんかすごい疲れて……。

『体の方はどうでしょう』

　訊かれて、試しに布団の中で手を開いたり閉じたり、膝を曲げたりしてみる。

「ちょっと、筋肉痛が……」

　あ……そうだ。僕は、狙われてたんだ。相手は……アイ・コピー、だっけ。銃で攻撃されて、八人を操って襲い掛かってきた。

『昨夜のこと、気になりますか？』

「昨夜……」

　ふと、光が差す窓の方に首を捻ると、どこまでも澄んでいる青い空が僕の虚ろな瞼を優しく開けてくれた。

「今日、って……」

『今日は九日の木曜日です。現在、時刻は午前六時半。あれからもう十二時間は経過しています』

　昨夜、十二時間前……。そういえば瓢（ひょう）太（た）と駅で別れて、電話に出たらリードさんがいて、その後に……。

「楓……そうだ……楓！　楓（かえで）は！？」

　なんで早く思い出さなかったんだ！？　寝ぼけすぎだろ、僕！　そうだ……楓が電話に出て、倒れて、そのまま動かなくなったんだ！

「楓は、楓はどうなったの！？」

『残念ながら、妹様の所在は存じていません。視界が遮られていたものですから。ただ、おそらくですが、この病院に運ばれてきているのではないかと思います』

「なら、早く探さなっ……！」

　慌ててベッドから降りようとしたら、足に全く力が入らず、そのままリノリウムの床に両手両膝を付く。

　まるで噛み合わせの悪い歯車のように下半身全体、肩や腕に上手く力が入れられない。

『介様、あまり無理はしないでください』

「だ、大丈夫……」

『とてもではありませんが、大丈夫とは言えません。全身の筋肉を酷使してしまった私が言えた立場ではありませんが……今は安静にしていることが最善です』

　ダメだ……自分でも情けないと思うくらいまともに動けない。まず脚を動かすことすらできないなんて……。

「それでも関係ない。楓の安否を確認しないと……そうじゃないと、気が済まないんだ……」

　兄として、家族として。お母さんとお父さんが帰ってきた時に僕が元気な姿を見せるまでは……。

　ベッドの脇に設けてあった手すりを握ってどうにか立ち上がることはできた。

　けれど、松葉杖とか手押し車とか、そういう支えがないと今の僕は歩けそうにない。立ち続けるだけで精一杯だ。

　どうにかして歩行を試みていると、病室扉の向こうから硬い廊下を踏み鳴らす音が聞こえてきた。その足音は次第に大きくなって……

「あれ、介くん！？」

　病室の扉が開いたかと思えば、入ってきたのは一人の女性看護師さん。その人は、僕の保護者に当たる伯母の孝（たか）子（こ）さんだった。

「あ、た……孝子さん」

「何してるの！？　まだ寝てなきゃダメじゃない」

　その慌てぶりは、僕の知ってる普段の孝子さんの印象とはかけ離れていた。

　僕は駆け寄ってきた孝子さんに両脇を支えられて手すりから離れると、今度は孝子さんの両腕を掴む。

「か、楓……楓はどこ！？　楓を……」

「その話は安静にしてから。膝がくがくじゃない」

「ダメだよ！　今すぐにでも楓の安否が知りたい！　せめて今、孝子さんの口からでもいい！　楓は今、どこにいるの！？」

「介くん……院内では静かに。他に入院してる患者さんいるから。心配なのは分かるけど、とにかく介くんはまず、冷静になって」

「……分かった」

　感情的に叫んでしまっていたことは認めざるを得ない。

　でも楓が意識を失くしたように倒れて、あの乱闘中もずっと目を開けないままだった。一晩経った今、ただただ楓のことが心配だ……。

　僕はやきもきする気持ちをひとまず留めて、孝子さんに促されるままベッドに座した。

「でも、良かったー……介くんが無事で。ほんと、良かった。ほんと……」

　一度大きく息を吐くと同時に、孝子さんは安堵の言葉を口にする。それを聞いて僕は今ようやく、孝子さんを心配させてしまったことに罪悪感を覚えた。

「……楓は、どうなりましたか……」

　僕もまだまだ未熟だ。それでも頭の中は楓のことばかりで、思わずまた訊いてしまった。

「……」

　けれどすぐに返答は来ない。すると、孝子さんはベッド横にあった椅子に腰を落ち着けると、神妙な面持ちで口を割った。

「楓ちゃん……まだ病院のベッドで、目を瞑（つぶ）ってるよ」

「……………………そう……ですか」

　途端、なんとも言い表しがたい感情が胸中を渦巻いた。

　安堵はあった。けれど多少の不安もあって……とても複雑で、楓が無事だと聞かされてもイマイチ納得できていない。

「大丈夫？」

「え……あ……はい」

　大丈夫じゃないのに、条件反射的にそう応えてしまった。まだ頭は混乱しているのだろう。それだけは確信をもって言える。

「楓は……寝てるんですか？」

「寝てるし、まだ目は覚ましそうになかったよ。他の人の容態も一応見回ってきて……で、最後に介くんの部屋に来たら、介くんが起きてたの。介くんが一番に目覚めた」

　僕が一番……それは、何か訳があるのだろうか。妙に何かが引っかかって、脳内で蟠（わだかま）る不安が完全に取り除けないでいる。

　謎の気持ち悪さに眉間のしわを寄せていると、孝子さんがいきなり大仰なため息を吐いた。

「ほーんと、心配したんだよ？　その時はちょーど家の前に着いた時だったもん。電話が来て、見たら介くんの携帯なのに、警察の人からの電話でびっくり！　話聞いたらめちゃめちゃ近所だったし。慌てて駆けつけて、そこにいた警察の人に改めて話を聞いたら……介くんが担（たん）架（か）で運ばれてるのが見えたから。ほーんと……びっくりしたんだよ？」

　そうまくし立てる孝子さんの表情は終始にこやかで、しかし、時々声色が震えていた。

「とりあえず、介くんが運ばれる救急車に一緒に乗ったんだよ。で、後から楓ちゃんが運ばれてるのも知ってぇ……もおーなになにー！？　って。えー！？　って。しかも別の救急車には九人運ばれてるし。ほんと……何、なんなの！？　何が起こったの！？　って」

「……すみません」

　いろいろと言いたいことはあるけど、罪悪感だったり情報過多だったり心を蝕んでたりでうまく話せそうにない。

　とりあえず、孝子さんにまで被害が及んでなくて……よかった。ほんとに。