第9話

「行け、止まるな。アイズの人間を捕らえろ」


 相手はまた指を鳴らすと、足を止めていた八人は再び動き始める。その瞬間、ふと奥の方に佇んでいる相手が静かに拳銃を構え直しているのが垣間見えた気がした。


 リードさんの方は何かを口走ってからというもの微動だにしない。このままだと銃弾に貫かれるか、蹴られ殴られるか……。


「リ、リードさ……」


 近付いてくる死の予感を思い、僕が彼女に呼び掛けようとした……その時だった。


「…………へっ?」


 それは一瞬にも満たない間だった。視界が乱れたかと思えば掠れた銃声音が聞こえて、気付くとさっき向かってきていたはずの八人の姿が視界から消え去っている。


 何も分からないまま、気付けば手や足に激しい痛みとじんわりとした熱が帯びていた。


 もう僕たちの前には拳銃を構えた相手ただ一人。その事実を前にして、不意に間抜けな声が漏れた。


「へー……」


 にたりと不気味に笑む相手。状況の理解もままならないというのに、それでも戦況が急速に変化していく。


 リードさんは戸惑う素振りも見せず、勢いそのまま一気に相手の間合いへと近付いていく。もしや彼女には目前の銃口が見えてないだろうか……。


 けれど、相手はリードさんの勢いに気圧けおされている様子はなく、引き金に指を掛ける。


 加速度が増していくこの状況下、僕が懸念するのはいつ放たれてもおかしくない銃弾への恐怖。それでも初手、至近距離で躱してみせたリードさんのさっき身のこなしがふと脳裏を過る。


 二人と違ってしゅくしそうになってる僕は、リードさんを信じてぐっと恐怖をこらえ、彼女から言われていた息を絶やさないということを、まるで現実逃避をするようにそちらに意識を集中させる。


 もう銃口は目前まで迫ってる。それでも依然として相手は一向にその引き金を引こうとしない……と内心不審に思ったけれど、リードさんが相手の懐に入って間もなく、こちらが拳を突き出そうとしたその瞬間、相手もその引き金をついに引く。


 明らかに同時攻撃を狙った発砲。しかし、リードさんは構えていた右腕を打撃ではなく、振り抜く直前で右半身を軸に回転し、弾道から体を外した。


 銃弾は僕たちの目端を通過していき、体の回転力はそのまま相手のこめかみに狙いを定めて勢いよく右足を振り上げる。


「コマンドとやらで身体強化したようだが、それでも未熟な青年の体。今の私の体で対応できる範疇。けれどあの速度で動かれたいせいでイマイチ狙いが定まらなかったよ。それだけは認めよう」


 だが……リードさんの攻撃は、相手の左腕と右手で受け止められてしまった。けれど幸い、相手に拳銃を手放させることができている。


「拳銃を、手放してまで……私の攻撃を止めて……よく、余裕でいられますね……」


「君と人間の体を使ってやり合うことになっただけだの話じゃないか。何も気に止むことは……ない!」


 相手は勢いよく僕の足を払うと、バランスが崩れた瞬間にすかさず鋭い足先を左から振り上げる。


 しかしリードさんはその攻撃が当たる直前に背後へ跳び、相手との距離を取りながら体勢を立て直す。


 その素早い身のこなしはあまりに鮮やかで軽やかで、しかし一つ間違えれば怪我を負っていたかもしれない。


 相手の蹴りは辛くも当たらなかったが、頬を突き刺すような風圧を受けてその一撃の重たさを想う。


 相手の手にはあの黒い立方体が握りしめられている。あれには近付いてはいけない……と僕が思っていても、彼女の方は再び相手の懐へ地を蹴って入る。


 こちらには武器になるような道具はない。唯一、手中に収められて小さくなっている白い立方体があるけど、リードさんはどうにも手と足だけでやりきることに拘ってる様子。


「くっ……!」


 リードさんが蹴り出す勢いそのままに拳を突き出すが、相手は瞬時に両腕をクロスの形にして防いだ。それでもリードさんは攻撃の暇を絶やすまいと、今度は相手の太股の横に向けて足を振り上げる。


 力では圧し切れない雰囲気だが、速さに関してはこちらの方が上手にあると視る。


 攻撃を加える度、相手の足運びが徐々に覚束なくなっているし、防御ばかりで余裕のない感じが見て取れる。肝心の黒い立方体も、攻撃をさせないことで使わせないようにできている。


 自分でも驚きだ。僕の体がこんなにも激しく、早く、強く、正確に動かせ


「ん、はぁっ……はぁっ!」


 今、一瞬だけ体の全臓器が止まった気がした。頭と目がジンジンしてる……。ヤバい、肝心の体力が……。


「だ、だいじょ、うぶ……です、か……」


「……だ、……」


 リードさんの声……まるでノイズが走ってるみたい。あー……立てない。膝が……上がらない……片膝をつくまでが限界だ。空気が冷たくて……呼吸したら、肺の中が冷たくて痛い……。


「……ふっ。仮想世界とは言え、体力という上限値のおもはどうしても無視できない。やはり劣弱だな、そのアイズの人間の体は」


 ダメだ……苦しくて、頭を上げられない。呼吸が辛い……吸うのが痛い……。


 かつかつと静かに地面を踏み鳴らす相手の足音が、徐々に僕のところへ近付いてくる。


「君が機能不全にした私の分体。その借りも一緒に返してもらうよ」


 どうしよ……どうする……。息と、思考が……整わない。このままじゃ、もう……。


「介、さま……いっ、しゅん……大きく、深呼吸、を……」


 ノイズの入ったリードさんの声は、さっきよりは幾分か言葉が聞き取れる。彼女の言う通りに僕は一度大きく息を吸って、一気に吐いた。


 そしてもう一度大きく息を吸って、吐く。吸うたびに意識が朦朧として、吐くと頭が冴えてくる。


「安心しろ。体と命は奪わない。奪うのはその中にある意識体だけだ」


「……させません」


 すると、片膝をついた姿勢から僕の右拳が相手のこめかみに向けて放たれる。僕の呼吸が安定した一瞬を見計らって、リードさんが放った渾身の一撃。


「なんとも滑稽だな。アイ・リードとはいえ、やはり人間の疲労には手も足も出まい」


「節穴ですか? ……その眼は。少なくとも……腕は、突き出ていますよ」


「その状態でも威勢があることだけは褒めてやる」


 だが、力尽きた状態から放たれた一撃を、相手は軽々と左手で僕の前腕を鷲掴みした。こちらの拳は相手のこめかみにも届かず、左頬の横で止められてしまう。


 相手のもう片方の手にあるのは黒い立方体。気付けばそれが、僕の左耳まで近付いていた。


「大人しくアイズの人間は引き渡すか。もしくは……アイ・リード。君がその体から退出するかだ」


 もう今の僕の体じゃこの手を振り払う余力もない。呼吸が荒いのはまだ息が整わないだけか、それとも恐怖心を煽る焦燥感か。腕を伸ばしているだけでも精一杯だ。


 さっきまで機敏に動いてたリードさんも、さすがにこんな鈍重な体では無理だと察したのかつぐんでいる。


「……分かりました」


 僅かな間を置いた後、リードさんが徐に口を割った。すると、ずっと握り締めていた右の拳を力なく開く。


「キャプチャー」


 手中に収まっていた白い立方体が風船のように大きくなって、そして突然、白く輝き始めた。


「なっ……! いつのまに……どうしてそれが!?」


「私は……言いました。ブラックボックスとは……似て、非なるもの……だと」


 白い立方体が発光したかと思えば、今度は相手の耳から謎の粒子が噴き出てくる。


 けれどそれは湧いて出てきているというよりも、白い立方体によって吸い出されているようにも見える。


 途端、相手の体が異常に震え出すと、相手は最後の力を振り絞らんとでもするようにもがき始める。


「確か……ブラックボックスは……伸縮性能を、備えていませんでしたね……」


「……スイッ──」


 しかし、その努力もむなしく、掴んでいた僕の手首を放すことはできても振り払うことはできず、相手の手から黒い立方体が零れ落ちる。


 やがて微動だにしなくなった相手の耳から白い粒子が出てこなくなると、そっと警官の体が力なく僕の方にもたれかかってきた。


 だが、その体を受け止めようにも今の自分の力だけでは受け止めきれず、倒れてくる体をそのまま地面に横たえて、ようやく僕も回復体位に落ち着く。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 まだ、胸が苦しい。息遣いは依然荒いままだし、耳の中は空気で栓をされてる感じだ……。


 ふと首を上に傾けると、操られていた八人はまだ地面に倒れていた。


 あの時、リードさんが何かを口走って駆け抜けた一瞬の出来事を僕は視認できなかった。


 景色が高速に乱れたかと思うと、次に見たのは僕たちに銃口を向けて佇む相手の姿だけだった。あれは、一体……。


「か、かえ、で……」


 息遣いが少し落ち着きを見せ始めたところで体を起こすと、僕の制鞄を枕代わりにして横たわる楓の姿は、相手が来た時から変わらないままだった。


 とにかく……立たないと。とりあえず……楓を、家に……。


『介様。それ以上はもう無理をなさらないでください』


「で……でも、楓……楓、が……」


 体はもうとっくに限界を超えていた。酷使した脚と腕には当然力も入ってこない。


 赤ちゃんのように膝をついて移動することが精一杯の自分に内心いらちすら覚えてしまう。


『とりあえず、目的の敵AIを確保できたと思います。もう無理をなさらないでください』


 無理なんかじゃない。目的が達成できたからとか関係ない。倒れてる家族を前にして、ただいても立ってもいられないんだ……。


「か……かえ、で……」


 しばらくして、もう僕の体には這いずるだけの気力すらもなくなった。誰の声も、風の音すら聞こえてこない。


 ……ダメだ。ここで横になったら……。せめて……楓の、近く、に……。

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