第9話

 操られていた人達が目の前から消えると、リードさんは相手に焦点を置く。その相手の足元には楓がいる。


 けれど、妹を気に留める余裕もない速度でリードさんは距離を詰めていく。相手はその勢いに気圧されてる様子はなく、落ち着いた佇まいで照準を定めていた。


 加速していくこの状況下、僕が懸念するのはいつ放たれてもおかしくないあの銃弾の恐怖と楓の無事。


 それでも、至近距離からの銃撃を避けたリードさんのことを思うと、彼女なら僕の心配を払拭してくれるんじゃないかと……そう淡い期待を抱いてしまう。


 委縮しそうにな気持ちを、僕はリードさんに信頼を寄せることで和らげた。彼女から言われていた息を絶やさないということを、まるで現実逃避でもするように意識を集中させる。


 もう銃口は目前まで迫ってる。だが、相手は一向にその引き金を引こうとしない……と内心不審に思った矢先、リードさんが相手の間合いに入った直後、こちらが拳を突き出そうとしたその瞬間に相手の指が動く。


 明らかに同時攻撃を狙った発砲。しかしリードさんは構えていた右腕を打撃ではなく、振り抜く直前で右半身を軸に回転しながら、弾道から体を外した。


 銃弾は僕たちの左側を流れていき、しかしリードさんはそのまま回転の勢いを止めず、むしろその力をめいっぱい載せた右足の蹴りを相手のこめかみにぶつけにいった。


「コマンドとやらで身体強化したようだが、それでも未熟な青年の体。今の私の体で対応できる範疇。しかし、まさかさっきの銃撃を避けられるとは思わなかったよ」


 残念ながらリードさんの攻撃は、相手の左腕と右手で受け止められてしまう。ただ幸い、相手の手から拳銃が落ちていた。


「拳銃を、手放してまで……私の攻撃を止めて……よく、余裕でいられますね……」


「君と人間の体を使ってやり合うことになっただけの話じゃないか。何も気に止むことは……ない!」


 相手は勢いよく僕の足を押し返し、こちらがバランスを崩した瞬間にすかさず鋭い足先を左側から弧を描いて放ってくる。


 しかしリードさんはその攻撃が当たる直前に片足一本で退き、相手との距離を取る。


 その素早い後退は鮮やかで軽やかで、背に翼でもあるのかと錯覚するほど下半身に負荷を感じなかった。


 相手の蹴りは辛くも当たらなかったけど、右頬に突き刺すような風圧を受けてその一撃の重たさを想う。


 相手の手にはあの黒い立方体が握りしめられている。あれには近付いてはいけない……と思っていても、相手の方からすかさず距離を詰めてきた。


「そちらの土俵にわざわざ上がったんだ。君の力の全て、見せてもらいたいものだな」


 思いの外、相手の詰めてくる速度が速い。こちらが体勢を立て直す前に、もうあと一歩というところまで迫ってきてる。


 しかし……こんな焦燥を、僕は彼女に欺かれてきた。


 相手の右脚が振りぬかれる直前、リードさんは瞬時に腰を深く落とすと、一気に上へと跳び上がる。


 疲労で重たく鈍い体だというのに、それでも、二度も相手の鋭い攻撃を躱してみせた。その反応速度に、思わず僕は口も目も見開いてしまう。


 反面、それを目の当たりにしていた相手の表情に驚きの色はなく、むしろ笑みを浮かべながらこちらを見上げている。


「まさか空以外を仰ぐ時が来るなんてね……」


 相手の背は僕よりも高い。なのに、それを悠々と飛び越えてしまう跳躍力。こんなの、驚かずにいられる訳がない……。


 ストンっと着地した位置は相手の後ろ。刹那、左半身から感じる突き刺すような殺気と圧力。


 その正体を視認することなく、リードさんは再び、今度は軽く膝を曲げて跳び上がると、空中でぐっと体をひねって右脚を背後へまわす。


 僕は未だ何が起きてるか把握できないまま、視界にはリードさんの放った蹴りが相手の左腕で防がれている光景が映る。


 よく見ると、相手の右脚が横に伸びていた。さっき感じた圧力の正体は、おそらくあの脚。


 リードさんは渾身の蹴りを防がれるや否やすぐさま足を引き、即座に体勢を立て直す。


「良い蹴りだったが、動きの線が単純すぎる。もっと君らしさを感じさせてもらいたいなぁ!」


 さっきまで遠巻きに援護射撃をしていた相手が銃を捨てた途端、前へ前へと攻めてくる。


 いちいち攻撃が重たい……。今の疲労困憊の体じゃ躱すこともままならない。リードさんでも、受け流すので精一杯といった具合だ。


「どうした、さっきまでの勢いは……どうした!」


「っかぁ……!」


 受け流すと言っても、それは拳の時のみの対応策で、脚での攻撃は大きく身を反らすかしなければ今の僕の体ではもたない。


 だが、そんな反応速度を出せるだけの体力は残ってない。相手の脚が放つ鋭く重い攻撃は、受けることはできても耐え切ることができない。


「ん、はぁっ……はぁっ!」


 今、相手の蹴りが僕の体を揺らした瞬間、心臓が止まった気がした。思わず両膝が地面につく。頭と目がジンジンしてる……。ヤバい、もう体力が……。


「だ、だいじょ、うぶ……です、か……」


「……だ、……」


 リードさんの声……まるでノイズが走ってるみたいだ。


 うっ……立てない。膝が……上がらない。片膝までしか、上がらない……。空気が冷たくて……呼吸したら、肺の中が痛くなる。


「仮想世界とは言え、体力という上限値の重荷はどうしても無視できない。やはりれつじゃくだな、そのアイズの人間の体は」


 ダメだ。苦しくて……頭を上げられない。呼吸が……辛い。痛くて、吸えない……。静かに地面を踏み鳴らす相手の足音が徐々に近付いてきている。


「君が機能不全にした私の分体。その借りも一緒に返してもらうよ」


 どうしよ、どうする……。息と思考が……整わない。このままじゃ、もう……。


「介、さま……一瞬……大きく、深呼吸、を……」


 ノイズの入ったリードさんの声は、さっきより幾分か言葉が聞き取れる。彼女の言う通り、僕は一度大きく息を吸って、一気に吐く。


 そしてもう一度大きく息を吸って、息を吐く。吸うたびに意識が朦朧もうろうとして、吐くと頭が冴えてくる。


「安心しろ。体と命は取らない。奪うのはその中にある意識体だけだ」


「……させません」


 突如、片膝をついた姿勢から僕の右拳が相手のこめかみに向けて放たれる。僕の呼吸が安定した一瞬を見計らって、リードさんが放った渾身の一撃。


 けれど相手は、まるで飛んできたボールをキャッチするかのように、軽々と僕の手首を掴んだ。こちらの拳は相手のこめかみにぎりぎり届いていない。


「なんとも滑稽だな。アイ・リードとはいえ、やはり人間の疲労には手も足も出まい」


「……節穴ですか? その眼は。少なくとも……腕は、突き出ていますよ」


「……その反骨精神だけは認めてやる」


 相手のもう片方の手にあるのは黒い立方体。気付けばそれが、僕の左耳まで近付いていた。


「今から二つの選択肢を与える。ひとつは、大人しくアイズの人間を引き渡す。もうひとつは……アイ・リード、君がその体から退出することだ」


 もう今の僕の体にはこの手を振り解く余力はない。呼吸が荒いのはまだ息が整わないだけなのか、それとも心を蝕んでくる恐怖からなのか。


 今はただただ腕を伸ばしているだけで精一杯。さっきまで機敏に動いてたリードさんも、さすがにこんな鈍重な体では無理だと察したのか、全身に力が入っていない。


「……分かりました」


 少しの間を置いた後、リードさんが徐に応える。すると、ずっと握り締めていた右の拳を力なく開いた。


「キャプチャー」


 手中に収まっていた白い立方体が風船のように大きくなって……そして突然、白く輝き始めた。


「なっ……いつのまに、どうしてそれが!?」


「私は……言いました。ブラックボックスとは、似て非なるもの……だと」


 白い立方体が発光すると、今度は相手の耳から白い粒子のようなものが出てくる。それは僕の手にある白い立方体の方へ引き寄せられていく。


「確か、ブラックボックスは……伸縮性能を、備えてなかったですね……」


 途端、相手の体が小刻みに震え出す。すると相手は最後の力を振り絞らんと、唇を震わせながらその口を徐々に開く。


「……スイッ──」


 だがその努力も虚しく、掴んでいた僕の手首を放すことはできても振り払うことはできず、耳から白い粒子が出てこなくなると、相手は微動だにしなくなった。


 やがて、警官の体が力なく僕の方にゆっくりともたれかかってくる。


 その体を受け止めようにも余力のない今の僕の体では受け止めきれるはずもなく、倒れてくる警官の体と共に地面に倒れ込んだ。


「はぁ……、はぁ……」


 まだ息遣いは荒いままで、耳は空気で栓をされてる感覚がある。ふと首をゆっくり起こすと、操られていた八人はまだ地面に倒れていた。


 あの時、リードさんが何かを口走って駆け抜けた一瞬の出来事を僕は視認できなかった。


 景色が高速に乱れたかと思うと、次に見たのは僕たちに銃口を向けて佇む相手の姿だけ。あれは……一体なにが起きてたんだ。


「か、楓……」


 呼吸が少し落ち着きを見せ始めたところで僕は上体も起こし、後ろに目線を捻る。


 僕の制鞄を枕代わりにして寝そべっている楓の姿は、相手が来た時から特に変わらないままだ。とにかく……立たないと。楓を、家に……。


『介様。それ以上はもう無理をなさらないでください』


「で、でも……楓が……」


 体はもうとっくに限界を超えていた。酷使した脚と腕には上手く力が入らない。


 赤ちゃんのように膝をついて移動することが精一杯の自分に内心苛立ちすら覚えてしまう。


『とりあえず、目的の敵AIを確保できたと思います。もう無理をなさらないでください』


 無理なんかじゃない。目的が達成できたからとか関係ない。倒れてる家族を前にして、ただいても立ってもいられないんだ……。


「かえ……、で……」


 しばらくして、もう僕の体には地を這いずるだけの気力すら無くなってしまった。誰の声も、周りの音も、風の音すら聞こえてこない。


 ダメだ。ここで横になったら……。せめて……楓の、近く、に……。

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