第4話

「あ、楓! え、楓? 楓か?」


「何言ってんの……。それよりちょっと、とりあえずこの荷物持ってー」


「あ、うん……分かった」


 楓が両手に持っているふくらんだ二つのエコバックも見慣れた単色のもので、特に目を見張るものではないはずなのになぜだか疑ってしまう。


 というか楓、セーラー服で買い物行ってたのか。


 言われて僕はそそくさと携帯をポケットにしまい込み、楓からエコバックを一つ受け取る。


「おっ……結っ構、買ったんだなぁ……」


 ひ弱な腕にのしかかるズシッとした重量感。右手だけで持つのは不味いと思い、すぐさま僕は両手でエコバックの紐を握りしめる。


 右肩に制鞄を掛けている分、危うく右半身の肉ががれるところだった……。


「あー、そっちペットボトルしか入れてないよ」


「なるほど。どうりで重……って、絶対お兄ちゃんに持たせるつもりで詰めただろ」


「別にいいじゃーん。言っても二本だよ? それくらい持てるでしょ」


 袋の中を覗きこんでみれば、確かに楓の言う通り、2Lのペットボトルが二本入っていた。


 しかし、これは明らかにアンバランス。僕のバッグには飲料しか入ってない分、おそらく楓の方は食品類だけだろう。


 エコバックが複数あるなら大きくて重たいペットボトルは均等に分けて入れた方がいいって言ったのに……。


「それより、どうしたの?」


「え?」


「え? じゃなくて。さっき、なんで自分に向かって人差し指向けてたの」


「あーいや、それは……」


 まあ、さすがに見られてましたよね……。


「もしかして、受験勉強のしすぎで頭おかしくなった?」


「いや、別にそういうわけじゃ……」


 というか、ウインドウ画面が邪魔で楓の表情があまり見えない……。これどうやって消すんだ?


『すみません。今はウインドウ画面を最小化しておきます』


「あ、ありがとう」


「え?」


「え?」


「いや、今楓に、ありがとうって言った?」


「あぁ、えっと……」


 これって……言っていいのかな? と、ちらっと彼女の方に視線を向ける。


『話しても大丈夫ですよ』


 まるで僕の思考を読んでいたような的確な言葉。いや、言わなくても話の流れとかで分かるかこれ。


『ただ、信じてもらえるかは介様の説明力次第ですが。とりあえず、私は邪魔になりそうなので視覚野から退出します。断っておきますが、決して体の中から消えるわけではないので安心してください。もし何かあれば、私の名前を呼んでいただければ大丈夫です』


 一方的にそう告げると、彼女は電気みたいな速さでパッと視界から消えてしまった。いや、安心してくださいと言われても……。


「お兄ちゃん?」


「え、あ……ううん。ごめん、なんでもない。ちょっと……まあ、今日は七時間授業だったから。それで頭痛いというか……」


「あー今朝、帰り遅くなるかもって言ってたの、七時間授業のこと?」


「……まあ、ね」


 僕は今、上手に笑えただろうか。楓に気を遣わせるような顔つきに、なってなかっただろうか……。


「そ。じゃ帰ろ。早く夕ご飯作らないと。たかさんの分も作らなきゃだもん」


 そんな小さな不安をよそに、楓は僕に笑い返すでもなく心配そうに眉尻を落とすでもなく、あっけらかんとしている。


「そー……だな。今日は楓が当番だもんな」


「うん!」


 元気に歩き出す楓の少し後ろを、遅れて僕も付いていく。


 彼女が何者なのか、この世界が仮想世界だとか僕を狙ってる人がいるだとか、まだ何も整理がつかないことだらけでどうもむずがゆい。


 しかし、そうだとしても、これ以上考えても仕方がないと踏ん切りをつけ、僕はひとまず大人になる決意を固めようと思考を切り替えた。



######



 さっき瓢太と渡ってきた横断歩道を今度は楓と渡り直す。


 そして降りてきたバス停がある方とは逆に向かって歩いていき、その先にある小さなカフェ、小さなコインパーキングを突っ切って角を曲がると、僕と楓の家がある閑静な住宅街に繋がる道が現れる。


 この道はあの日本一大きい古墳、大仙だいせん古墳の近くだ。道なりに進むと、その古墳を囲む黒い柵がやがて見えてくる。


 あとはその柵に沿って歩いていけば、僕たちの住むマンションに着く。


「今日はねぇ、水曜日だからスープ餃子とかでもいいかなーとか思って買ったんだよねー」


「いや、水曜だからって……水と結び付けた感じのメニューってこと?」


「そうそう! オニオンスープとかー、コンソメスープとかー……あ! シチューでも良かったかなー……ビーフシチューとか。あー、ビーフシチューでも良かったかなぁー」


 意見も表情もコロコロ変えながら、楓は頭を小さく左右に振っていた。その仕草は幼い頃からまったく変わってない。


 そういえば、メトロノームなんてあだ名を付けられたとか楓が小学生の時に文句を垂れていたことがあった。


 今思うと……うん、確かに見えなくもない。今ならダブルメトロノームなんて言われても仕方ないと思う。


「ねぇ、お兄ちゃん。そういえば最近、成績どう? 大学の方は行けそうなの?」


 楓はちらりと背後にいる僕の方を向くや、なんの脈絡もなく唐突にそう訊いてきた。


 一瞬だけ、道なりに並ぶ街灯で、楓の陽に照らされていた頬が淡い白色に染まる。


 僕は、その緩やかな歩みを静かに止めた。


「あの、さ……ちょっと……楓に、言っておこうと思って……」


「え……なに、怖いんだけど」


 楓も少し遅れて足を止めると、かすかに青白い表情を浮かべる。


「あ、いや、その……」


 いつかこの事を、自分の口で楓に話すと決めていた。卒業を迎えるまでには必ずと。それが今だと思った。


 でも……それでもまだ、躊躇ちゅうちょしている自分がいた。どうやら振り絞ったその勇気はもういくらか足りなかったらしい。


 だから僕はひと呼吸置いて、そしてようやく、うつむきがちになっていた視線を持ち上げることができた。


「お兄ちゃん……進学じゃなくて、就職することにしたんだ。もう採用試験も受けて、就職先も……今日、決まった。卒業したら……介護士として、働くことになる」


 今までのこと、そしてこれからのことを楓に打ち明けた。なに一ついつわりのない事実を、僕は話した。


 けれど楓は、ぽかんと口を開けて呆気に取られている様子だった。


「え、なにそれ。全然聞いてないんだけど……」


 楓は肩に掛けてたエコバックを力なく落とすや、そう言い放った。


 僕はそのバッグの中身が少し気になったけど、今は自分の覚悟の決まった姿勢を楓に示すことでただただ精一杯だった。


「ごめん。でも……奨学金とか、教育ローンを取ってまで……進学する勇気、出なかった」


 借金をしてまで勉強をするのか、進学せずに就職するか。残念ながら現状、僕には前者の選択をする勇気が無かった。


 できるだけ家族にもお金の負担を掛けたくなかったし、抱えた借金を自力で返せる金額だとは思えなかった。


「相談してくれたら、楓も考えたよ。言ってくれたら、楓も……考えたのに」


「ごめん。でもこれは、楓のことも考えての決断だから」


「……え?」


「ほら。僕が就職すれば、楓が進学したい時にお金の負担も軽くな」


「無理。行きづらい」


 僕が言い終わる前に、楓に容赦なく遮られた。


「とてもじゃないけど……それは行きづらいよ。お兄ちゃんが行かないなら、私も大学には行かない。行きたくないよ」


「な、なんで!? せめて進学費用は一人分くらいなら、孝子さんも……」


「だったらお兄ちゃんが使ってよ! 孝子さんがどうとかじゃない! お兄ちゃんがそのお金を使って!」


「そんなこと……できない。楓の……将来の選択肢を、減らしたくない……」


「お兄ちゃんの将来の選択を削らないと開けない私の未来なんて……そんなのいらない! 私にお兄ちゃんの分まで頑張れる自信なんかないもん! お兄ちゃんは私のためじゃなくて、自分のためだけに頑張ってよ! そんな選択……無理だよ。楓には重たい。とてもじゃないけど……選べない」


「……でも、……」


 その後に続く言葉が口から出てこない。何を言ってもただの押し付けになってしまう気がするから。


 けれど口も塞げず後にも引けず、そんな息が詰まりそうな沈黙の中、楓がぽつりと呟く。


「言って欲しかった。せめて……一言くらい、欲しかった……」


 悲しげな楓を目の当たりにして、なおさら僕は何も言い出せない。


 この話をするまで僕は何も後悔してなかった。ただちょっとの勇気と大人になる覚悟が必要なんだと思ってた。


 きっと楓なら納得してくれると思った。進学したいとは言ってたし、楓は楓なりにちゃんと夢を持っていたから。


 それに……楓は今までも、僕の選択を拒まず応援してくれた。小学校の時も、高校受験の時だって、楓は僕を気にかけてくれていた。


「他にも理由……あるんでしょ? 多分……お母さんと、お父さんの事も……」


 虚をつかれて思わず息を飲む。それはまるで僕の心を見透かしたようだった。


 僕が就職を選んだ理由は、確かに楓のことだけじゃない。

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