アワナラ・マラワナ
mimiyaみみや
アワナラ・マラワナ
(一)
隆々とした筋肉を思わせる夏の雲を震わすように、ツェスカイ島から手打ちドラムの音が響いていた。
フラセア(竜が住む島)、ツェスカイ(歌う島)、ミュシ(人が住む島)の三島から成るマラワナ小国では、日々の仕事が終わってから太陽が沈むまで、ツェスカイ島で歌い踊るのが習わしとなっている。
《アワナラ・マラワナ・ノーマラァ・ハウハアッシ》
《アワナラ・マラワナ・ノーマラァ・ハウハアッシ》
ドラムのリズムに乗せて男たちが威勢よく歌うと女たちが負けじと歌い返す。大人たちの雑多な踊りを掻き分けるひとりの少女の姿があった。少女は服の下に何かを隠しているようで、大きく膨らんだお腹のあたりを両手で抱えて大人にぶつかりながらもどうにか歩いている。
「ようテグジャ、そんなにシケたツラしちゃ踊れねえぞ」
青っぽい匂いを漂わせた中年の男ダニが急に顔を近づけてきて、それに驚いた少女テグジャは思わず両手で口を覆い、服の下からバラバラとグルウィの実が転がり落ちた。
「テグジャはまだ子供だからね。この楽しさがわからないのさ」
島で一番背の高い女ラズナが小馬鹿にしたようにグルウィの実をひとつ拾って放ってくる。この島でグルウィの甘い実は子供の食べ物だと決まっていた。
テグジャはアサッテの方向に放られたグルウィを足でポンと蹴り上げて器用に取ると、照れ隠しに
「うるさいなあ!」
とむくれてみせた。ダニとラズナはそんなテグジャを見てまた笑うのだった。
「マラワナ人はマラワナの味がわかって一人前よ」
魔除けや香草にも使われ「竜草」とも呼ばれるマラワナの葉を、ダニとラズナは口に含んで少年少女のように目を輝かせ歌い始める。
《アワナラ・マラワナ・ノーマラァ・ハウハアッシ》
《アワナラ・マラワナ・ノーマラァ・ハウハアッシ》
──恐ろしいマラワナよ、愛すべきマラワナよ
ツェスカイ島とミュシ島をつなぐ橋をやっとのことで渡り、テグジャはお気に入りのハンモックへの元へと逃げ延びた。途中、シマネコがトカゲを虐めていたので、シマネコの首の皮を掴んで向こうへ放ってやる。
マラワナでトカゲは神聖な生き物として扱われている。しかしそれとは関係なしに虐められるトカゲを見過ごすことはテグジャには出来なかった。
「ほら、もう捕まるなよ」
トカゲを安全なところに逃がしてやろうとつまみ上げた途端にトカゲは尻尾を切って走り去ってしまった。
「まあ、いいけどね」
島に昔からある「尻尾を捧げても魂を捧げるな」という価値観に染まったトカゲがこの後どうなろうと知ったことではなかった。
テグジャはハンモックに寝そべりグルウィの実をかじりながら、木のウロに隠していた本を手に取りページをめくった。その本は、ポストゥリから流れ着いた船の積荷に混ざっていたもので、テグジャの宝物だ。「人気のバーガーショップ」だとか、「男子の目を惹くヘアアレンジ」だとか、何度も読み返したせいで写真は日に焼け色あせてしまっていたが、いつだってそれはテグジャの目に鮮やかに映った。働いて、歌い踊って眠るだけの退屈な毎日の繰り返しに飽き飽きしていたテグジャにとって、その本に書かれている外国の日常はおとぎ話のように思えた。
島の大人たちはポストゥリをはじめとする周囲の大国を憎んでいたが、長老すら生まれていないずっと昔に一時支配されていたからといって、いまだに根に持ち嫌う必要はないとテグジャは考えていた。そうやって過去に固執して生活を変えようとしないから、世界から取り残されるのだ。この髪型だってそうだ。マラワナで子供の髪型といえば、ちりちりとカールした髪を頭頂部で一つにくくり、そのくくり紐にはマラワナの茎をしごいて作った紐を使うと決まっていた。なぜならそれが習わしだから。馬鹿らしい。
テグジャは本の中の様々な髪型のモデルたちをうっとりと眺め、自分の顔より大きくなった頭頂の髪束を振ってまた溜息をついた。しかしこの鬱憤ももうすぐ解消される。習わしお化けの長老がついに、ポストゥリに吸収されることに同意したのだ。マラワナは今後、国ではなく一地域として観光地になるとのことだった。それは長老にとって苦渋の決断だったが、人口が減り、島に子供がテグジャしかいないこの現状では他にどうしようもなかった。
(時代遅れの文化をありがたがっているようじゃ、滅ぶに決まっている)
テグジャは相変わらずツェスカイから聞こえてくる大人たちの馬鹿騒ぎにうんざりし、ポストゥリの近代的な文化が流入してくるその日を待ち望んだ。もっともその前に、「習わし」でフラセア島での成人の儀を終えなければならないのだが。
(二)
波は穏やかで日差しは強い。ミュシ島とフラセア島の間に広がる浅瀬を一艘の木船が滑るように進んでいた。浅瀬の底に落ちた船の影に驚いた巻き貝が走り出すのが見えるほど水は澄み、オールが海面を掻くたびに白い砂が海中で舞い上がる。船に寝そべりオールを漕いでいたテグジャはふと手を止めると、立ち上がった。そして着ていたプケヤを脱いで裸になる。脱いだプケヤを二本のオールに結び付けた。
風の匂いがしていた。
木船の側面にオールを高く固定し待つ。ほどなくすると、プケヤが風を受けて広がり、船は自然に進み始めた。読み通り。あとは足元の舵ペダルを操るだけでいいから楽ちんだ。
周りは一面の海。さざ波の音と海鳥の声。一糸まとわぬ姿で全身に太陽の光を浴びる。無限にも思える時間と空間に身を委ね、テグジャは目を閉じていた。どれくらいそうしていただろうか。潮の香りに緑が混ざり始め、波の音がより細かく刻まれるのを感じて目を開いた。フラセア島は近い。
フラセア島には人の手が加わったものは持ち込めない決まりになっている。テグジャは降ろしたオールとプケヤはそのままに、裸で島に降り立った。長い時間船に揺られていたせいで平衡感覚が狂ったのか、テグジャはそのまま砂浜にすっ転んでしまった。空を見上げ、うるさい大人がいない、島に一人であることの解放感を十分に噛み締めると、大きく背伸びをして立ち上がる。船を砂浜に引き上げ、体の砂を払いながら木々が茂る森の中へ足を踏み入れた。森の不気味な威圧感には、気がつかないことにした。
フラセア島を覆う森の中心には竜がいるという。
大人になった自分の姿を竜に見せ、感謝を述べ、マラワナの発展を約束すること。これが成人の儀の内容である。
テグジャは足の裏に苔を感じながら進んでいた。成人の儀など面倒臭くて仕方がなかったが、どうせしなければいけないのならさっさと終わらせてしまいたかった。苔は最初乾いていてチクチクと足の裏を刺したが、森を進むにつれてフカフカと柔らかくなり、しだいにブヨブヨとしたゼリー状の何かが混じるようになる。そのゼリー状の何かを踏むと潰れ、足の指の間からぬるりと出てくる。それにも慣れてきたところで、森はさらに険しさを増し、辺りも暗くなってきていた。予定ではとっくに成人の儀を終えて森を抜けているはずだった。どこか木の上で休もうかと思ったが、フラセア島の木はミュシ島のそれと比べあまりに太く、簡単に登れる代物ではなかった。テグジャはすっかり道に迷っていることを自覚した。
テグジャの胸にだんだんと不安が込み上げてくる。森は多くの動物の息遣いに満ちていた。
外から見る森は、見慣れた木の集まりとしか映らなかったし、虫や動物もミュシ島でよく知ったものしかいないと聞いていて、成人の儀を甘く考えていたテグジャは、圧倒的な自然の中ですっかり萎縮していた。森の生き物はテグジャに対し排他的で、時に攻撃的に見えた。
闇が満ちてくると森の湿った香りが強くなる。テグジャは泣きそうになるのを必死で堪え、手探り半分で森の中を進んでいた。すれ違う木や虫は全くの無言であった。同じところをぐるぐる回っているかのように錯覚した。ようやくのこと、洞窟を探し当てると、疲れ切って座り込んでしまった。程なく森は一片の明かりもない闇に包まれる。
夜になって森はますます活発になり、葉の擦れる音、木の折れる音、何かの羽音、鳴き声。テグジャは眠れるはずもなく、息を潜めていた。
一際大きな生き物の気配には、ずいぶん前から気づいていた。鷹揚な動きで木々を掻き分け、近づいてくる。洞窟の入り口。ズルリ、ズルリと引きずる音とともにそれは洞窟に入ってくる。足音と呼吸音、おそらく体を引きずっているであろう音から、その生き物がテグジャよりも遥かに巨大であることがわかった。テグジャは音を立てず這うように洞窟の奥へと逃げた。ゆるく蛇行する洞窟を手探りで進むテグジャに対し、その生き物はズルリ、ズルリと迷いなく進んでくる。心臓が口から飛び出しそうだった。今すぐミュシ島に帰っていつものハンモックに揺られたかった。大声叫べばその生き物は逃げていくのではないかとも考えたが、声など出るはずもなかった。
と、向こうに明かりが見えた。それに縋るように前へ前へと進む。後ろの巨大な生物の鼻先を後頭部で感じていた。
「あっ」
なにかに足を取られ、テグジャは前に倒れた。とっさに後ろを振り返ると、洞窟の向こうの明かりに照らされたその生物の顔が浮かび上がる。
なんのことはない、それはただのオオトカゲだった。
オオトカゲはテグジャを一瞥するとズルリ、ズルリと明かりの方へ歩いていった。テグジャはしばらくその場から動けなかった。まだ心臓がドキドキしている。臆病な自分というものに初めて直面して戸惑っていた。しかしそれに負けるのは悔しくて、カラ元気で立ち上がると誰がみている訳でもないのに平気な顔をして明かりの方へ歩いていった。
急に開けた場所に出た。洞窟の天井にポッカリと穴が空き、青白い月明かりが差している。中央には泉があり、泉の回り一面に花をつけたマラワナが生い茂っていた。マラワナはミュシ島やフラセア島の至る所に生えていたが、月明かりを受けて咲くマラワナの花は特別なものに見えた。泉の縁にはシマネコやシュカ、パパウといった動物たちの姿が見える。彼らはちらりとテグジャを見ると、また水を飲み始める。先程のオオトカゲも泉に口をつけている。
静かだった。
テグジャはオオトカゲの横に並び、泉に口をつけた。泉を泳ぐ魚を見て、漁師の父や料理上手の母を想った。テグジャは自分がいかに世間知らずの子供であったかを実感していた。
マラワナは竜草とも呼ばれ、島のいたるところに自生している。マラワナの燃えるような赤い花は竜の目と呼ばれる。葉は竜の手。茎は竜の髭。竜が気まぐれに人々を助け、時に天災を起こすように、マラワナ国は竜草によって外貨がもたらされ、竜草によって侵略された。マラワナの歴史はいつでも竜と共にあった。
泉一面に咲くマラワナを眺めて、テグジャはいつまでも子供のままではいられないのだと、唐突に理解した。
マラワナの葉──竜の手をそっと摘み上げると、それを口に含んだ。青臭くて苦い。しかしどこか懐かしい。洞窟の澄んだ空気を鼻から胸いっぱいに吸い込むと、月を見上げた。月は洞窟の天井の穴いっぱいに広がっていた。その光は青や黄、橙など様々に変化しながら輝きを増し、テグジャは体が浮かび上がるような快感に酔いしれた。
いつも聞いていたあのドラムの音が新鮮な響きを伴って頭に流れ込んでくる。それに合わせてシマネコやシュカ、パパウ、オオトカゲが踊りだす。テグジャは月光と混じり洞窟の泉を満たしていた。森が歌い始める。
《アワナラ・マラワナ・ノーマラァ・ハウハアッシ》
《アワナラ・マラワナ・ノーマラァ・ハウハアッシ》
気がつくと朝になっていた。自分が眠ったのかどうかさえ思い出せない。ただ心地よく自然と混ざっていた感覚だけがあった。疲労はどこにもなかった。
マラワナの葉を再び口に含むと全能感に満ち溢れた。朝日はいつもより眩しく、昨日はあんなに排他的に見えた大樹の緑は鮮やかだった。森のすべての生物がテグジャのために歌っているようだった。視野が広い。どこまでも遠くを見渡せそうだった。森には昨日は気が付かなかった若木もチラホラと生えていて、テグジャはそのうちの一本を足がかりに、次に大樹へ飛び移り、高く高くに登って森から顔を出し、潮風を浴びる。地平線は弧を描き、周囲は海、海、世界のすべてがこの森に凝集していた。森の中心を確認すると木を降りテグジャは駆け出した。気分がすこぶる高揚していた。竜に会いに行くのだ。
「早く、早く」
と木々や虫や動物たちの急かす声がはっきりと聞こえる。大地を蹴り蔦の振り子で小川を飛び越え、マラワナの葉を摘み口に含んで山を登り谷を降りる途中で木の根に足を取られ、転がりながら一気に斜面を下った。一面に黒く柔らかい土が広がっていた。目を回したテグジャは頭を振りながら立ち上がった。ようやく視点が定まると、目の前に、竜はいた。
それはミュシ島にあるどの家よりも大きく、威厳に満ちていた。竜は目を閉じ腹を土につけて眠っていた。息を吸うたびその黄金色の体が大きく膨らみ、息を吐く。その穏やかな吐息は森に満ちる大気を循環させ、波を起こし、それが海流となって命を巡らせる。テグジャはしばらくの間、呆然とその姿に魅入っていた。
「竜よ」
テグジャはそのよく通る声で竜に語りかけた。
竜はゆっくりと目を開いた。燃えるような赤い目に圧倒されそうになる。
「竜よ、其方の加護を受け、私は十五になった」
竜がフッと笑うと強い風が谷を吹き抜ける。テグジャの髪のくくり紐が切れ、強くカールした黒髪が後ろになびく。テグジャは自分が竜に認められたのだと思った。髪を掻き上げ、大きく息を吸った。
「マラワナはもうじきなくなる!」
その言葉は「習わし」にはなかったが、テグジャは偉大な竜の前に嘘はつけなかった。これが竜とマラワナにとって、最後の成人の儀になるのだ。
「しかし……しかし、その魂は終わらない!」
竜は体を起こし、大きく伸びをするように天を見上げると、一声吠えた。そして再び腹をついて目を閉じた。竜の輪郭が朧に崩れるのを見て、テグジャは目をこすった。竜は骨になっていた。その骨は苔むしていた。
テグジャは、竜が数十年あるいは数百年前に死んでいたことを知った。そして、死してなおそこに宿る魂が、一時だけテグジャに竜の姿を見せたのだと思った。竜が生きていた時代から脈々と続いてきたマラワナの成人の儀が、たった今幕を閉じたのだ。
(三)
追い風は竜の息吹か。一艘の木船がプケヤの帆をいっぱいに張り、海面を裂いて進んでいく。西日が若く美しい女の横顔を照らしていた。テグジャだ。
彼女の胸にはずっと手打ちドラムの音が響いていた。それが遠くから響いてくるドラムと重なる。女が聞こえてくる歌に向かって舵を切ると、背中を押すように強く風が起き、船はさらに速度を増した。
《アワナラ・マラワナ・ノーマラァ・ハウハアッシ》
《アワナラ・マラワナ・ノーマラァ・ハウハアッシ》
次第に島の姿がはっきりとしてきて、島民たちが踊る姿が目に映る。
テグジャの心は弾んでいた。その高揚は次第に体に伝播し、知らず腰でリズムをとっていた。
踊りたくて仕方がなかった。表現したいものが体から溢れていた。待ち切れず、船を蹴り、海へ飛び込み泳いで島へと入った。
「テグジャ!」
「テグジャ!」
テグジャを迎える口笛がそこかしこから鳴り響く。
テグジャは父に、そして母に強く抱きしめられた。迎え入れてくれた島民に頭を撫でられスウァヤを着せられ、花の首飾りをかけられる。テグジャは用意された食事には目もくれず、ダニおじさんの手からマラワナの葉をかすめ取ると、ウインクひとつでそれを口に含んで、踊りの輪に加わった。フラセア島での出来事を全身で表現したかった。
すっかり日は落ちていたが、成人の儀を終えた者が帰った晩は、火を囲み朝まで踊り続ける習わしがこの国にはある。
マラワナの丘を吹き抜けるそよ風。
柔らかな日差しと山菜摘み。
強烈な日差しとスコールと虹。ハリケーン。
水々しい野菜。新鮮な魚たち。
荒れた波。オットドの群れ。転覆する船。
雷樹と火事。
果物を干す女たち。眠るオオトカゲ。
そよ風と漁の喜び。家族へ愛。竜の加護。
太古から変わらない優しく過酷なマラワナの自然、そしてそこに暮らす彼らの生活を、皆が思い思いに踊っていた。
人々は皆一様な笑みを浮かべている。マラワナの葉が火に焚べられると色とりどりの煙が幾重にも弾け人々を包む。個の概念は消え、国がひとつの音楽となる。
《アワナラ・マラワナ・ノーマラァ・ハウハアッシ》
《アワナラ・マラワナ・ノーマラァ・ハウハアッシ》
──恐ろしいマラワナよ、愛すべきマラワナよ。
──恐ろしいマラワナよ、愛すべきマラワナよ。
少し離れた木の上で、尻尾の切れたトカゲが火を囲む人々の様子を眩しそうに見つめていた。
(終)
アワナラ・マラワナ mimiyaみみや @mimiya03
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