第11話

 川をさかのぼって丘を越えると、町のシンボルである鐘楼が見えてくる。アイビーは逸る気持ちを抑えながら、馬の脇腹を蹴った。

 徒歩や馬車で帰っていたのでは、ここまで早く戻れなかっただろう。ポケットにしまい込んだ小袋の存在を確かめる。これでシェアトは助かるだろうか。「聖女が人々を癒していたのは涙ではない」という違和感はまだ胸中に燻っている。

「変ね、町の様子がおかしい」

 空では星が瞬いている。それと同じように、この時間であれば家々に灯った明かりがちらちらと揺れているだろうと思っていた。だが、どれだけ町に近づいても一向にそれが見受けられない。月明りに照らされた鐘楼だけが白く輝いて見え、普段ならば美しく感じるはずなのに、今はどこか恐ろしい。

 胸騒ぎを覚えつつ、さらに町に近づく。やがてアイビーの目に映ったのは、

「なに、これ……」

 見慣れた家々は、まるで嵐の直撃を受けたかのように崩れ落ちている。家畜として育てられていた羊や牛は、見るに堪えない姿でことごとく息絶えていた。あまりの変貌ぶりに夢かと疑うほどだ。

 誰かいないのか、と目を凝らす。人影が見当たらないのだ。動いている気配もしない。

 馬から降り、町中を走り回った。一言で表せばどこもかしこも壊滅状態だ。声をかけても返事が一切ない。どれだけ歩き回っても、状況は変わらなかった。

「どういうこと……」当惑しながら呟いた時、爪先が何かを蹴った。「ひっ……!」

 腕だ。血に塗れ、生気を失った人の腕が、崩れ落ちた家の隙間からぞろりと伸びていた。

 腕だけではない。暗闇に紛れて分かりにくかっただけで、瓦礫の陰から色々なものが覗いている。

 腹の奥底から何かがせり上がってくる。口元を抑えて吐き出しはしなかったものの、喉元には不快感が残った。

 一体何があったのか。アイビーは胸を掴み、はっとした。「シェアトは……!」

 弾かれるようにして走り、彼の家を目指す。

 やがて目にしたのは、かつて家を作り上げていた瓦礫の山だった。

 四年の時を過ごした家は、見る影もなく潰れてしまっている。

 信じたくなかった。それでも、考えるのは容易だった。

 彼は、シェアトは、まさか――

「う……」

 風に乗り、呻き声らしきものが耳に届いた。誰か生きているのか。よくよく耳を澄ますと、声は間近から聞こえてきていた。ひょっとして、とアイビーは隣家を、つまり夫人の自宅に駆けつけた。こちらも同様に潰れ、破片が方々に飛び散っている。

 瓦礫の隙間からは小麦の粉末を詰め込んだ袋が見える。それらが緩衝材になったのか、呻き声は袋のそばから聞こえている。手が切れるのも構わずに瓦礫を除けていくと、

「奥様!」

「アイ、ビー?」

 額を切っているのか、夫人の顔は血と土でぐしゃぐしゃになっていた。アイビーは彼女の体を押し潰している瓦礫を無我夢中で取り除いていき、夫人の体を抱えようとした。しかし予想以上に重い。見れば彼女の脚は崩れた壁に押し潰されている。とてもアイビーの力では持ち上げることは出来ない大きさだ。それに、これでは瓦礫を除いたところで歩くことは出来ないだろう。

 アイビーは彼女の上半身を支えながら起こし、「あたしがいない間、何が起こったんですか」と努めて穏やかに問いかけた。

「……かめ……男が……」

「仮面の男……?」か細く訴えた夫人の言葉に、アイビーは愕然とした。

 あの男は、宣言通りアイビーを迎えに町に戻ってきたということか。

「あいつが、町をこんな風にしたんですか」

 自分でもぞっとするほどの憎しみが声に宿る。しかし夫人はゆるゆると首を振って否定した。

「……シェアト、が……」

「え?」

「う……」

 げほ、と夫人が血を吐く。まずい、このままでは命が危ない。アイビーは咄嗟にポケットにしまい込んでいた小袋を取り出した。

「あたし『聖女の涙』、手に入れたんです」微量しかないだろうが、きっと夫人を助けるには十分のはずだ。そうであってくれ、とアイビーは小瓶を出し、蓋を開けた。「これを飲んで――――えっ?」

 目に映ったものに、自分でも驚くほど場にそぐわない間の抜けた声が出る。

 小瓶を振ると、かろん、と無機質な音が鳴った。そんな馬鹿な、と恐る恐る小瓶をひっくり返し、中身を手のひらで受け止める。

 自分の手に乗っているそれは、どこからどう見ても涙に見えた。

 滑らかに磨き上げられた表面は月明りを反射し、薄らと水色に光る。その様はまさしく涙そのものだ。

 あまりにも美しい、涙型の宝石だ。

 ――『聖女の涙』は、あなたが思っているような代物ではありません。

 トクスの言葉が、呆然とするアイビーの耳に蘇る。

 あの時彼は、何と言おうとしていたのだろう。

 頬を撫でられる感覚に、驚倒しそうになっていたアイビーは我に返る。夫人が震える手を必死に伸ばしていた。

「悪いね……もう、だめ……」

「奥様……!」

「シェアト、は……――――」

 力を失った夫人の手が、とん、とアイビーの膝に落ちる。

 いやだ、そんな。アイビーは彼女の手を握り、掠れた声で何度も夫人を呼んだ。だが、どれだけ叫んでも、彼女の固く閉じられたまぶたが持ち上がることは無い。

「あ、ああ……!」

 星月夜にアイビーの啼泣が響き渡る。涙は頬を伝い、温度を失くしていく夫人の顔を濡らした。

 どれだけそうしていただろう。少しでも夫人を綺麗にしてあげよう、とアイビーはワンピースの端で彼女を拭った。

 夫人は最後、何を訴えようとしていたのか。

「シェアト……?」

 仮面の男が町に現れた。彼の手によってこの地は荒らされたのかと訊ねたアイビーに、夫人は確かにこう答えた。

 シェアトが、と。

 信じられない、とアイビーは目を見開く。彼は生死の境をさまようほどの重体だったのだ。とても自力で歩けるとは思えない。

 夫人を地面に横たえ、シェアトの自宅があった場所に足を向ける。四年を過ごした思い出の家は、跡形も無く崩れ落ちていた。

 町を出る前、シェアトが寝ていたのはこの辺りだったと見当を付けて瓦礫を取り除いていく。だが、見つかったのは愛用していたベッドだけで、どれだけ探しても彼の姿は見当たらない。

 じゃあ、彼は一体どこに? よろめく脚で立ち上がり、アイビーは呆然と町を歩いて回った。

 この町で何が起こったのだろう。それを知る人はどこにいるのか。何も分からない。

 ――そうだ、隣町。

 遠回りになる、とトクスが言っていたため、町へ戻る途中に馬車の発着地でもあったエウス町は経由しなかった。今にして思えば、夜更けに起こったという〈幻操師〉殺害事件も素早く耳に入れるほど噂も流布しやすいようだったし、隣町でもある。ファザ町に起こった惨状の事情を知っている者がいたかもしれない。立ち寄っておけばよかったと後悔した。

 アイビーは前を見据えた。悔いるのはまだ早い。今からでも遅くはないはずだ。

 馬の元まで戻り、再び鞍に跨る。シェアトがどこへ行ったのか、まずはそれを探るべきだろう。

 一縷の望みをかけて馬を走らせてしばらく。アイビーは正面から音を感じ取った。何だろう、と首を傾げていると、月明りに二頭の馬が照らされた。

「そこの君、停まりなさい」

 どうやら馬を繰っているのはそれぞれ男らしい。情報を得るためにも、ここは従った方が良さそうだ。アイビーが馬を停めると、男たちはアイビーの隣に揃って停まった。

 月光を鈍く反射する鎧から判断する限り、彼らは軍人のようだった。

「君、どこから来たんだね」

「ファザ町です。川を上った先の」

 答えながら、脚をむき出しにしていたことに気が付く。今更体勢を変えるわけにもいかず、アイビーは出来るだけ脚を隠そうとワンピースの裾を下へ引いた。

「ということは、そちらの町は何事もないのか」

「え? どういうことですか?」

「ああ、失礼」思案顔になっていた男の一人は咳払いをし、自分たちが走ってきた道の先を指差した。「この先のエウス町が今、壊滅状態になっていてな」

 まさか、とアイビーは息をのんだ。「それって、建物が崩れ落ちてて……?」

「なんだ、知っていたのか」

「……ファザ町も、同じ状況ですから」

「なんだって?」

 彼らは戸惑ったように顔を見合わせた。

 詳しく聞くと、彼らとは別の軍人の一部隊は、依然行方の分からない王子の手がかりを掴み、町を訪れていたそうだ。だが、町に着くや否や彼らは何者か――恐らく〈幻操師〉だろうということだが――によって氷漬けにされたという。一瞬の事だったため、その姿を見たものは誰一人としていなかったらしい。

 その後、遅れて到着した彼らたち部隊が目にしたのは、崩れ落ちた家屋などと、それらの下敷きになった人々。同士の多くは首から下を氷漬けにされたまま逃げることも出来ず、大半は命を落としてしまったという。

 現在も救命活動は続いていると言いながら、男は「ファザにも調査に向かおうと思っていたんだが……」と続けた。

「あちらに生存者はいるのか? 助かったのは君だけか?」

「あたしは出かけていて、さっき町に戻ったばかりだから何が起こったのかは……生存者は、もしかしたらいるかも知れない」

 証言が得られると踏んでいたのだろう。彼らはあからさまに肩を落とした。

 こっちだって何が起こったのか分からないのだ。露骨にがっかりされると多少はいらつく。アイビーは顔を顰めたが、二人が気付く様子はない。

「エウス町の生存者には何も聞いていないんですか?」

「詳しいことははっきりしていないんだ」

「分かっているのは、部隊が氷漬けにされたあと、酷い怪我をした男が一人ふらりとやってきた、ということくらいか」

「確か胸の辺りと言っていたよな。髪は茶色くて、細身だったとも」

 外見の様子が自分の記憶と一致し、愕然とした。恐らくシェアトだ。

「我々はその男は、氷を操る〈幻操師〉ではないかと考えている。男があの惨状に関連しているかまだ判断は出来ないが」

「あ、君!」

 彼らの話を聞き終えるより先に、アイビーは再び駆け出していた。

 ――シェアトが、故郷も、隣町も、あんな風にしたかもしれない?

 夜道を疾走するアイビーの中で、あらゆる考えが交差する。

 隣町に大怪我をしたシェアトと思しき男が現れた。しかも、一人でふらりと。仮面の男に連れ去られていたわけではないようだが、あの状態で動いているだなんて信じられない。

 ファザ町とエウス町の共通点は二つ。町が壊滅状態であることと、どちらの地にもシェアトがいたということ。結果、導き出された答えが先ほどの仮説だ。

 でも、どうして? 理由が分からない。

 焦燥気味の問いに答えてくれる者はいない。

 ――とにかく、誰かに助けを求めないと。

 自分一人で彼を捜すのは難しい。そこで思い浮かんだのは、聖都市で行動を共にした男の顔だった。

 彼ならきっと、助けてくれるはず。

 時おり軍人たちとすれ違いながら、アイビーは聖都市への道をひた走った。

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