第10話

「トクス? あなた聖堂に残って、それで、」

 驚きのあまり立ち上がりかけたアイビーを制し、トクスは周囲を警戒するように何度も付近を見回す。やがて「こちらへ」と人目の少ない暗がりにアイビーを引きこんだ。

「無事だったのね、良かった」

「ひとまずは。それよりも」と彼はごそごそと懐をあさり、小さな袋を取り出した。「この中に、あなたの求めていた『聖女の涙』が入っています」

「……は?」

「助けたい人がいると言っていたでしょう。確かファザ町から来たんでしたよね。馬車で戻っていたのでは時間もかかります。馬を用意したので、それを使ってください」

「ちょ、ちょっと待って」

 手を取られ、しっかりと袋を包み込まされる。アイビーは動揺しながらトクスを制し、もう一度「ちょっと待って」と彼を見据えた。

「なんであなたがこれを持ってるの? さっき『聖女の涙』は持ち去られたって……あなたが、盗んだの?」

「はい」

 てっきり否定するかと思ったのだが、やけにあっさりと認められる。アイビーは思わず『聖女の涙』が入った小瓶の小袋を取り落しそうになった。

「盗んだって……あなた自分が何をしたか!」

「重々承知です」

 馬はこちらです、と彼に手を引かれそうになったが、「待ってよ」とアイビーは小袋を突き出した。

「あたしの他にもこれを求める人がいるって、あなたが言ったのよ? それをこんな風に盗んでしまうなんて……とてもじゃないけど受け取れない」

「恐らく祭りは行われません。つまり、あなたの手にこれが渡る可能性は完全に潰えるということです」トクスの口調に苛立ちが混じる。彼は小袋をアイビーへ押し戻し、「受け取れなくても、受け取ってください」とぎこちなく笑った。

 アイビーは小袋に目を落とし、困惑気味に握りこんだ。確かに祭りが行われなければ『聖女の涙』を手に入れられる可能性はゼロになる。だが、今それは自分の手の中にある。

 ――これがあれば、シェアトは助かるかも知れない。

 どれだけ悩んだだろう。考え抜いた末、アイビーは小袋をポケットにしまい込んだ。それを見て安堵したのか、トクスは小さく息をつき、「行きましょう」と歩き出した。

 都市に訪れていた人々の多くは宿へ入ったのか、それとも騒ぎに怖くなって地元に帰ったのか。賑やかだった通りはひっそりと人気がなく、露店も大半が閉じていた。

 まるでシェアトが襲われた夜と同じだ。嫌な寒気がする。

「……ねえ、聖堂で言っていたことだけど」

 ――あなたの身に危険が迫っているというのに!

 トクスは確かに、そう言った。あの言葉の意味を聞こうとアイビーは彼の背中に視線を投げる。トクスはしばらく何も答えなかったが、やがて、

「必ず説明します」

 とだけ答えた。

「先ほども言いましたが、全て話すには時間を要します。歩きながら話すには向きません」

「……そう」

 ひとまずは彼の「必ず説明する」を信じてみよう。不安は残ったが、トクスが決してこの場では話さないだろうという空気も感じ取っていた。

「あの男は、どこへ行ったの」

「追いかけたのですが、空中に逃げられてしまいまして」

 彼の話に、意識せず眉間に皺が寄った。

「ちょっと思ったんだけど、能力っていくつも持てるものなの?」

 シェアトが襲われたあの時、仮面の男の腕は異常に伸びていた。あれも能力の一種だろう。それに加え、トクスの話を信じるのであれば空中浮遊の力も有しているように思う。

「通常、能力を使う際、かなり体力を消耗してしまうんですよ。能力の複数持ちは可能なんでしょうが、相当体力が無ければ使いこなすのは難しいでしょう。現に〈幻操師〉のほとんどは一つしか能力を保有していません。そもそも〈幻獣〉に遭遇するのも、力を授けられるのも稀ですしね」

 二人は初めに馬車を下りた場所まで戻ってきていた。待機している馬車は数台あるが、今日の運行は終了したのだろう。御者たちの姿は見当たらない。そんな中一頭だけ、馬車に繋がれていない青毛の牡馬がいた。

「あの馬です。安心してください、賢くて大人しい良い子です。振り落とされるようなことは無いかと」

「そ、そう」

 馬に乗ったことなんて一度もないんだけど、と打ち明ける間もなく、彼に支えられながら馬の鞍に跨った。彼の言う通り、確かに大人しい馬だ。

「すみません、あなたを送っていくまで出来ればよかったんですが……」

「ねえ、あなたはどうして、ここまでしてくれるの?」

 ずっと疑問だったことを尋ねる。やたらと気に掛けてくれることといい、『聖女の涙』を盗んでまで手渡してくれたことといい、彼の行動には不可解さを覚えずにはいられなかったのだ。

 それに、

「あたしと、以前に会ったことがある?」

「……どうでしょうね」

 彼は感情の窺えない口調で囁くように答え、アイビーを支えていた手を離し、手綱を持たせてきた。

「途中のエウス町を通っていたのでは少し遠回りです。丘を越えて行けば時間が短縮できますよ」

 トクスが馬の尻を叩く。馬はぶるりと鳴き声を上げ、アイビーを乗せて夜の道を駆けだした。



 愛馬の姿と、それに乗った女の背中が夜の闇に消えていく。完全に見えなくなってしまうまで、トクスはその場に立ち尽くしていた。

 ――あたしと、以前に会ったことがある?

 どう答えればいいのか、分からなかった。アイビーと名乗った彼女が、果たして自分のよく知る人物と同じなのか、他人の空似なのか、結局判断が出来なかったからだ。

 何も言えないまま、彼女を帰してしまった。

 舌の上に、去ったはずの甘みが広がっていく気がする。

 彼女と祭りの時間を過ごした中で、最後に口にした青い花弁の菓子。黄色い花弁を苦手だと言ったトクスに、アイビーは「何となく」青い花弁を交換に渡してきた。何気ないやり取りだったのに、あの瞬間、トクスは言いようのない懐かしさと哀感に見舞われた。

 黄色い花弁と青い花弁を交換したのは、あれが初めてではない。恐らく彼女にとってもそうだろうと思っていたのに、アイビーにそんな様子は見受けられなかった。

 兄は「彼女だ」と言っていた。けれど自分は、「あれは彼女ではない」とほぼ確信している。だが、まだ頭のどこかで疑ってもいる。

 夕焼けに似た朱く長い髪に、濡れた宝石のような緋色の瞳。優美な曲線を描く鼻梁と滑らかそうな白い肌。薄紅色の唇も、何もかも、アイビーと「彼女」は限りなく似ている。しかし何かが決定的に違う。その正体を掴めぬまま、トクスは聖都市からアイビーを送り出した。

 アイビーには助けたい人がいるらしい。その人を傷つけたのは、間違いなく自分の兄だ。

 兄を止めようとした。けれど間に合わなかった。それを知ったら、彼女はどれだけ怒るだろう。

 多分、彼女の願いは成就しない。『聖女の涙』を飲ませると言っていたから、治癒の効果があると信じているに違いない。あれにそんな効果はないとはっきり伝えるべきだった。

 町に戻った彼女は、どんな反応をするだろう。『聖女の涙』を与えられても、目を閉じたまま動かない人を前に何を思うのだろう。

 彼女の嘆き、悲しみを思うと居た堪れない。

 このまま立ち尽くしていても意味はない。今の自分に出来る事を――一刻も早く姿を消した兄を捜さなければ。

 聖堂から人が去ったあと、今度こそ兄を止めようと全力で挑んだ。なぜか兄は傷だらけだったし、この機を逃すわけにはいかないと感じたからだ。しかし兄は、棺の中から抱き上げた聖女の遺体と共に行方を晦ませた。

 そう遠くへ行っていないだろう、と踵を返した時だった。

「なんなの、お前」

 嘆声の直後、頬に鈍く重い痛みを感じた。殴られたのだと理解したのは、みっともなく地面に尻をついてからだった。

「またお前はぼくの邪魔をする」

 顔を上げると、拳を突き出したままの兄と目が合った。仮面と前髪で隠されているためにはっきりとは分からないが、怒りのあまり凄まじい形相をしているようだった。

「兵を差し向けたのもお前の仕業だろう? みんな凍らせてやったけどさ。そのあとのアレもお前か?」

「は……?」

 言われている意味が分からない。トクスが困惑を顔に浮かべるのと、兄が「なんだ」と腕を組んだのは同時だった。

「本気で分からないって顔をしてるな、全く。予想外だったよ。迎えに行ったらいないし、それどころか殺したはずの奴は死んでないし。おかげでぼくは傷だらけになった」

 それにしても、と兄は大仰に肩を落とした。

「お前とぼくの目的は同じだったはずなのにな。どうして邪魔をするんだ?」

「っ……」

 立ち上がろうと脚に力を込めたが、視界がぐらついた。まさか、と地面に手をついて体を支えると、「気が付いた?」と嘲られる。

「そう、毒だよ! 儀式の邪魔をされると困るからね。ああ大丈夫、死なない程度だから安心していい」

「儀式……?」まさか、とトクスの頬に汗が伝う。「あれをやろうとしているんじゃないだろうな!」

「あれ? どれだっけ」本気で分からないというように、兄は首を傾げていた。しかしやがて「ああ!」と口の端を吊り上げる。

「そのつもりだったんだけど? 何か問題でも?」

「彼女は本人じゃない、別人の可能性がある!」

 馬車の中で会話していた時、アイビーは「〈幻獣〉を見たことが無い」と言っていた。

 そんなこと、「彼女」ならば有り得ない。

「無関係かも知れないんだ、そんな人を」

 巻き込むな、と訴えようとしたトクスの頤が、兄の骨ばんだ手に掴まれる。

「本人であれ別人であれ、ぼくたち・・の目的を達成するには必要な人物じゃないか。そんなことも分からないのか」

 冷え冷えとした目はどこか蛇に似て、自分が丸のみにされているかのような錯覚に襲われる。兄の手は力強く、これ以上反論しようものなら顎を砕かれる可能性もあった。

「それに、今言ったな。あの女は別人だって。そんなこと、もう分かってるさ」

 そこで、ふと気が付いた。

 ――あんなに傷だらけだったはずなのに、今の兄には傷一つついていない。

 どういうことかと驚愕していると、兄の視線がトクスの背後に向けられる。ようやく兄の手から解放され、恐る恐る振り返ってみると、

「シャガ」

 そこにいた人物が、柔らかい声音で兄の名を呼んだ。

「虐めてはいけないわ。兄弟なのだから」

 芯のある凛とした声に、トクスは思わず息を飲む。

 こちらを見下ろすのは、楚々とした佇まいの女性だ。

 丸い緋色の瞳には憂いがたっぷりと含まれている。全身の大半は衣服で覆い隠されており、露出しているのは地面につきそうなほど伸びた癖のない朱い髪と顔だけだ。

 その面影は、先ほど見送ったアイビーのそれによく似ていた。

「虐めてなんかいないさ。少し注意をしていただけだから」

 兄は女性ににっこりと笑いかけ、同意を求めるようにこちらにも目を向けてくる。トクスに向けられたそれは怒気に満ちていた。

「まあいいさ」兄は慄然とするような笑みを浮かべ、アイビーが去っていった方向を睨みつけた。「計画は変わらない。あの女を追いかけたいのはやまやまだけど、今は、彼女と一緒に居たいからね」

 邪魔するなよ、と兄に睨みつけられ、トクスは浅い呼吸を繰り返す。

 ひどい倦怠感だ、腕に力を込める事すらできない。

 アイビーを一人で帰したのは間違いだったと、今更ながら気が付いた。

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