第9話
談笑しながら、あるいは食事を摘まみながら聖堂へ向かう人々の合間をすり抜け、アイビーはトクスを捜した。祭りに訪れた人々以外に、元からこの地に暮らす住人たちを合わせるとどれだけの人数になるのだろう。この中から彼の姿を見つけ出すのは困難だ。
ふと顔を上げると、聖堂は目前に迫っていた。
ドーム型の屋根が幾重にも重なって出来たような石造りのそこは、間近で見るとより迫力がある。中央には人々を迎え入れるアーチ状の入り口があり、その上には聖女に力を与えたという〈幻獣〉フェニックスらしき鳥の彫刻があった。対になって建てられた二つの鐘楼は天を貫きそうなほどに高く、そこにも動物や人間の彫刻が見受けられる。聖女や、元から祀っていた女神の尊さや清らかさを表しているのか、聖堂の外観は全て白で統一されていた。
「トクス! トクス、どこ!」彼の姿を必死に探す。しかし聖堂前には大勢の人々が詰めかけており、特定の一人を探し出すのは困難だ。どうしよう、と顔を上げ、アイビーはハッと目を見開いた。「……あ、あれ」
入り口の上部にはめ込まれた、見覚えのある大きなバラ窓が目に入る。光と共に地上に降臨した豊穣の女神と、彼女が従える表情豊かな天使たちの図が、絢爛豪華に描かれている。
以前と変わらない美しさに、やはり自分はここに来たことがあると強く実感した。
いや、そんな事をしている場合ではない。彼はきっとあの中にいるはずだ。アイビーは人々の波を押し分けるようにして内部に足を踏み入れた。
聖堂内部はあまりにも広く、円天井は首が痛くなりそうなほど高い。側面の壁には入り口上部にあったものに比べれば小さいものの、よく似た窓が等間隔で並んでいた。人が二人並んで歩けるほどの幅しかない身廊の脇には木製の椅子があり、入り口から奥へとずらりと配置されている。何人かは座り、静かに祈りを捧げていた。
あまりの荘厳さに、アイビーは一瞬言葉を忘れ、全てに見惚れた。
集まってくる人々は皆、真っ先に祭壇へ歩いていく。恐らく聖女を収めた棺が安置されていて、まずはそこへ挨拶に向かうが暗黙のルールなのだろう。もしかするとトクスも、祈りを捧げる人たちの中にいるかもしれない。声を荒げるわけにもいかず、アイビーは忙しなく首を動かしながら彼を捜した。
「……昔はこんなに立派じゃなかったのに」
豊穣の女神の面影は壁画や天井の装飾にしっかりと残されているが、ここを訪れる人々の大半は聖女を目的に足を運んでいるように思う。そんな彼らの歩みに流されるように、アイビーは聖女が眠っているであろう棺を望める位置まで来ていた。
一、二段高い床の上に置かれた棺の手前には『食事』らしき果物や作物が置かれ、棺を見下ろす位置には聖女を象った石像がある。きりりとした眉に、涼やかな目元と長い髪。微笑みを浮かべた唇は聖女の人となりを感じさせる。
中でも目を引くのは、背中から大きく広げられた一対の翼だ。恐らく〈幻獣〉フェニックスの力を持っていたということを示すための誇張だろう。いや、苦境にあえいでいた当時の人々の眼には、実際に翼が生えたように見えていたのかもしれない。
「なんだか恥ずかしい気分だわ」
自分で呟いてから、どうして恥ずかしいなどと感じたのか分からずに首をひねった。
その答えが出ないまま、とある一点に目を寄せる。
「あれが『聖女の涙』……」
石像の瞳は宙を見つめ、それを辿った先にアイビーの求める物がぶら下がっていた。
細長い小瓶に入れられた、透明な『聖女の涙』だ。はっきりと中身を窺えるわけではないが、石像の背後にある窓から差し込む光が時折きらりと反射する。
間違いなく入っている。あれが明日の夕方、誰かの手に渡るのだ。
アイビーは周囲の人々の見よう見まねで聖女に祈りを捧げてからその場を離れ、周囲を見回した。
人の入れ替わりはあるものの、聖堂内には常に何十人、いや何百人以上もの人がいる。トクスもこの中にいるはずなのだが、見当たらない。全身黒い服という特徴はあったものの、似たような背格好の人々は大勢いた。
「すっごい! あれって頭だよね?」
どこからか無邪気な声が聞こえた。そちらに目を向けると、側廊の一角に人だかりが出来ている。そういえば聖堂の何ヵ所かにヒュドラの姿を覗ける場所があるのだったか。
声に引き寄せられるように、アイビーもそちらへ足を進める。人々の隙間から見えたのは、「すごーい」と感嘆の声を上げてはしゃぎ、ガラスの上に乗っている子どもたちだ。ガラスにはそれなりの強度があるらしく、跳ねてみてもびくともせず、ひびも入っていないことが窺える。
「しかし立派な爪だな。先だけで大人の顔くらいあるんじゃないか」
「あっちには尾があったわよ。そばに尾と同じ太さだっていう丸い柱があったから腕を回してみたんだけれど、全く抱えきれなくて。三人でようやく一周囲めたわ」
「おれたちさっき、頭見たんだ! 角が生えてね、ちょっと黄色かった! 牙も見えたよ!」
ヒュドラの頭を再現しているのか、子どもの一人が母親の前で大きく口を開け、指で角を作ってみせる。人々の話から考えると、どうやらかなり大きいらしい。恐らく聖堂の下に無理やり収めているのだろう。
いつの間にか、アイビーはガラスの板の前まで来ていた。
――ちょっとくらい、なら。
彼を探し出し、言葉の意味を探りたくはある。ただ、この下に眠るものにも興味を惹かれた。恐る恐る覗いてみると、地中の奥深くに乳白色の鋭い何かが見える。ヒュドラの爪だろう。数えてみると三本ある。
不思議と、怖さよりも勇ましさを感じる。ヒュドラによる被害を受けていない、あるいは受けたが覚えていないゆえに抱いた感想だろうか。撫でるときっと滑らかなのだろうな、とついまじまじと見てしまった。
「アイビー……?」
聞き覚えのある声が群衆の中から届いた。トクス、と声の主と思しき人影を探してみると、すぐに見つかった。彼は人の波をかき分けて進み出てくるなり、
「なぜここに? あの場にいてくれと言いましたよね、俺!」
「そのまま大人しく待っていられるわけないじゃない!」
思わずお互いに声を荒げてしまい、周囲から咎めるような目を向けられた。ここで言い争っているのはまずい。こちらへ、と案内され、アイビーはヒュドラの元から離れた。むくれた顔のまま付いていくと、彼は聖堂内でも人の少ない場所で足を止めた。
「なぜ来たんです、あなたの身に危険が迫っているというのに!」
「だってあなたが本当の事を言っているか分からな……待って、あたしの身に危険が迫ってる?」
そんなことは初耳だ。アイビーの目つきが自然と険しいものになる。
仮面の男が「迎えに行く」と言っていたことを指しているのだろうか。しかしトクスがその事を知っているとは思えない。ではそれ以外か。だが心当たりはない。
どういうことなの、とトクスを問い詰めるが、彼は渋面のままため息をつくだけだ。
「ちゃんと答えて!」
「ここでは言えません。全てを話すには時間がかかる」
「それで納得すると思ってるの?」
「……とにかく、来てしまった以上は仕方がない。いいですか、俺から離れないように……」
「おい、あれなんだ?」
不意に祭壇近くからどよめきが上がる。それにつられて視線を向けると、窓の向こうで黒い影が揺れていた。正体を確かめるべくもっと間近で見ようと、大勢の人々がそちらへと集まっていく。
聖堂の周囲には何本か木があったし、その枝か何かが揺れているだけだろうと思っていたのだが、
「……どうしたの?」
ちょっと、とトクスの顔を覗き込む。彼は目を見開き、唇を噛みしめていた。怒っているようにも、怖がっているようにも見える。彼の尋常ではない様子に、アイビーが不安を覚えた時だった。
がしゃん!
ガラスが砕け散る音と、人々の悲鳴が重なった。もう一度見遣ると、砕け散った窓が光を受けながらバラバラと降り注いでいるのが見えた。混乱した人々は我先にと通路を走り、外に飛び出して行く。
一体何が起こったのか。その答えを目にした途端、アイビーの頬がカッと熱くなった。
聖女の棺の上に、見覚えのある姿があったのだ。
仮面に隠された顔と、乱れのない金の髪。ひどく汚れた衣服にはガラスの破片がついているようで、人影は面倒くさそうに袖を振って破片を落とした。
――あの、男。
忘れるはずもない。シェアトを襲った仮面の男だ。
男は棺を覗き込み、高らかな笑い声をあげた。逃げ出さずに留まっていた人々も、異常さを感じ取ったらしく悲鳴を上げながら外へと走っていく。
アイビーは怒りに打ち震えた。今すぐにでもあいつを殴って、シェアトの仇を取ってやりたい。なのに、脚が動かない。がくがくと情けなく震え、それでも座り込んでしまわないのはトクスに支えられているからだ。
男はひとしきり笑ったあと、棺から降り、ゆっくりとその蓋に手をかけた。
「逃げろ!」
トクスの叫びが耳にキンと響き、背を押された。言われるがまま走り出そうとしたが、トクスは男の様子を窺うようにその場に立ち尽くしたままだ。
「あなたは!」
「いいから、早く!」
先ほどの怒っているような、それでいて怯えていたような表情といい、彼もあの男に因縁があるのだろうか。アイビーの様に身近な人が傷つけられ、その報復を今ここで果たそうとしているのではないか。
再び「逃げろって言ってるだろ!」と怒鳴られる。あまりの剣幕に、アイビーは今度こそ聖堂を出るべく、大勢の人々と共に通路を駆けた。
外へと飛び出す間際に振り返る。アイビーが目にしたのは、棺の中で眠っていたであろう華奢な体を愛おしそうに抱きかかえる仮面の男と、それに駆け寄っていくトクスの後ろ姿だった。
星空がちかちかと瞬く下で、聖堂の周辺は物々しくなっていた。騒動から数時間が経過し、ガラスで肌を切っただとか、逃げる際に転倒して擦りむいたと治療を受ける人の数は徐々に増えていく。幸い大怪我を負っている者は誰もいなかった。
アイビーは呆然と聖堂を見上げ、震えを抑えようと肩を抱いた。仮面の男への怒りと恐怖が、全身に絡みついている気がした。
トクスはどうなったのだろう。治療を受けている人の中にはいなかった。何度も探し回っているのだが、あたりが暗いせいもあって見つけられない。そもそもこの地に留まっているかすら定かではない。果たして無事でいるのだろうか。
「聞いたか、聖女様の遺体が見つからねえんだと」
聖堂内部はすでに封鎖され、調査のために立ち入りが出来ないようになっている。しかし中を覗き見ることはまだ規制されていない。そのせいで聖堂の手前には民衆たちが押し寄せ、軍人たちは先程、何があったのか大雑把ながら説明を繰り返していた。それを聞きに行ったのだろう、妻と思しき女性に語り掛けているのは、ガラス板のところでも見かけた男だった。
「棺が開けっ放しらしくてよ。俺は窓から飛び込んできた変な男が連れ去ったんじゃねえかと思うね」
彼の話は事実だ。アイビーは仮面の男が棺から聖女の遺体を持ち出すのを見た。
「なんて物騒な……どうして聖女様を……」
「さあな。しかも、どうも『聖女の涙』も持ち去られたって話だ」
「えっ?」
「ん?」男の話に、思わず戸惑った声を上げてしまった。「どうしたんだい、お嬢ちゃん」
何でもないです、と男とその妻から離れ、アイビーは呆然としていた。
「どうして……」
力なく呟き、アイビーはしゃがみ込んで頭を抱えた。
これではシェアトを助けることが出来ないではないか。『聖女の涙』に効力があるかどうかは分からないが、このまま何の収穫も無いまま帰ることは出来ない。
祭りの最後に譲渡される予定だった『聖女の涙』も、崇め奉るはずだった聖女の遺体も無い上に、この騒ぎだ。恐らく祭りは中止となってしまうだろう。
どうしたものか、と深いため息をつく。他にシェアトを助ける手段はないか。疲れた頭ではまともな考えも浮かばない。
「……魔術……とか」
馬車の中で〈幻獣〉を生成したという魔術師たちの話を聞いた。確か彼らには他にも逸話があったように思う。不可思議な方法で空を飛んだり、あとは。
「不治の病を癒すって、言ってたような」
彼らがどのように病を治したのかは知らない。だが、〈幻獣〉生成が伝わっているように、その方法もどこかに残されているのではないか。しかし、今から探す時間があるのか。難しいだろう。
じゃあ他に何かないか、と膝に顔を埋めるのと、「アイビー」と誰かに肩を叩かれたのは同時だった。
緩慢に顔を上げ、ハッとする。アイビーの目の高さに合わせてしゃがみこんでいたのは、まぎれもなくトクスだった。
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