第7話

 人が六人ほど手を繋いで横に広がってもなお余裕のありそうな道と、隙間なく敷き詰められた艶のある石。道の両脇には家や宿が立ち並び、屋根と屋根を繋ぐように頭上に糸が渡され、そこからは来訪者を歓迎する色とりどりの三角の旗がぶら下がっていた。どうやら道の正面に臨む聖堂まで続いているようだ。

 通りのいたる所には露店が出ていた。豚の丸焼きに、砂糖漬けにした果物の盛り合わせ。ほくほくと茹でられた芋や、野菜を液体状にした飲み物。甘いものから辛いものまで、あらゆるものが揃っている。周囲から漂う美味しそうな香りはどれも魅力的だが、そんな事をしている場合じゃないと首を振る。

 数分遅れて、トクスも門を通り抜けてきた。彼の手にも同じように木札が握られている。

「やけに話し込んでいたわね」

「いえ、今年は人が多いですね、と話していただけで」それよりも、と彼は道の先を指差した。「今から聖堂に向かわれるつもりですか?」

「ええ。そうしようかと思っていたけど」

「でしたら今はまだ入れませんよ。この時間はいつも『食事』の時間なんです」

 詳しく聞けば、聖都市では古くから大地の神の娘である豊穣の女神を祀っている。女神には毎日二回『食事』を捧げているそうで、今はちょうどその時間なのだという。どうやら聖女は、豊穣の女神を祀っている聖堂に安置されているらしい。

 そんな決まりごとがあったのか。ひとまず『聖女の涙』がどんなものか確認するだけして、シェアトを助ける方法を考え直さねばと思っていたのだが、計画を変更せざるを得ない。聞けば聖堂へ立ち入れるのは食事終了の鐘が三度鳴ってからだという。それまではまだ時間がありそうで、どうしたものかとアイビーは思案した。

「よろしければ、街を案内しましょうか?」

 思いがけない提案に、アイビーは何度も目を瞬いた。

「幸い俺も一人ですし、どうせなら二人で回ってみませんか」

 彼の提案はありがたかったが、今は一人で考える時間が欲しい。しかし初めて来る土地だし、当然どこに何があるのか分からない。目的地だった聖堂には当分入れないし、どうしたものか。

 シェアトの事は心配だ。遅れれば遅れるほど彼が助かる確率はそれだけ低くなる。もう二度と笑顔を見る事も、声を聞くことも叶わないかも知れないと考えると恐ろしいし、焦る。ただ明日の番号発表までどうしようもないのも確かだ。

「……じゃあ、お言葉に甘えてもいい?」

 逡巡したのちに答えると、彼は嬉しそうに「もちろん」とうなずいて歩き出した。

 もとより夫人たちへの礼の品を買うつもりではあったのだ。彼と露店を巡っている間に目ぼしいものを見つけられると良いのだが。

 祭りの開催は明日だが、すでに町には多くの人がいる。時間が経てばもっと増えるに違いない。聞き慣れない言葉も耳に入ることから、異国からやってきた人もいるのだろう。人々は思い思いに露店に立ち寄り、食べ物を買ったり、名産品らしい装飾品を身に付けて楽しんだりしている。

 時折トクスは、何かを警戒するように周囲を見回す。どうしたのかと問いかけると、「人ごみに紛れて何か盗られるといけませんから」と返された。ファザ町ではそんな物騒な話は無かったが、聖都市ほどになると犯罪の確率が上がるようだ。

 ぐう、と腹が鳴る。音の出どころはアイビーだ。

 そういえば焦っていたのと急いでいたのとで、朝食を口にしていなかった。

「何か食べましょうか。俺も腹が空いていますし」

 音が聞こえていたことへの恥ずかしさと、気遣ってくれたことへの照れくささにアイビーの頬が少しだけ紅潮する。

「ええ」しかし、食べ物の露店だけでいくつもの種類がある。どれもが美味しそうで興味を惹かれるが、手持ちの金はそう多くない。安いものも高いものもあるが、アイビーが目を引かれたのは見覚えのある料理だった。「あれ食べましょう! 美味しくて好きなの!」

 アイビーが指差したのは、昨日の祭りでも見かけた魚の丸焼きだ。

 使われている魚の種類が違うのか、昨日見たものより一回りも二回りも大きい。その分値段は張るが、他よりは安いし、十分腹には溜まりそうだった。二人は一本ずつ買い、人混みを避けて道の脇に寄った。付近には座って飲食を楽しめるように椅子や机も出ていたが、それらはすでに先客がいた。

「いいですよね、これ。俺も好きですよ」

 トクスが魚の腹に歯を立てる。そういえばシェアトも腹から食べていたな、と思い出し、アイビーは背中からゆっくりと噛んだ。味付けが異なるのか、それとも心境のせいか、昨日食したものよりどこか味気なく感じる。

「海に近い地域と、そうでない地域とではやはり魚の種類が違いますね」とトクスに話しかけられたのに気付くのも、一瞬遅れた。

「え? あ、ああ、そうなのね」

 彼に動揺を悟られないよう、思い切り魚に齧りつく。香ばしく焼き上げられた皮が口内でぱりぱりと音を立てた。

 ほのかに甘味のある身を咀嚼しつつ、横目で聖堂を見遣る。まだ鐘は鳴っていない。

「……昔は、もう少し小さかったような気がするんだけど」

 あの聖堂自体は昔からこの地にあったが、今ほど大きくはなかったはずだ。所々古びてしまっていたし、外壁は風雨にさらされているせいで黒ずんでいた覚えがある。それでも聖堂の入り口の上にあったバラ窓はいつでも美しく、中から見上げれば、色のついたガラスを通して虹に似た光が差し込んできたのだ。

『あそこから差し込む光はただの白じゃなくて、虹みたいに色とりどりだろう? それがなんだかとても素敵だと思って』

 ずきりと頭が痺れる。どうして自分は聖堂の姿が以前と違うことを知っているのだろう。

 ――ここに来たの、初めてじゃないのかな。

 しかし、いつ頃ここに訪れたのかなど全く分からない。

 そういえば昨日は、バラ窓から差し込む光を誰かと見ていた光景を思い出した。あれはここの聖堂で見たものだろうか。では、微笑んだのは誰か。相変わらず肝心な部分は靄にかかった様にはっきりしない。

 魚の丸焼きを食べたのも、これが初めてではないような気がした。確かに昨日口にしたが、それよりも前に、この地で食した記憶がぼんやりと浮かび上がってくる。とろりと溶ける麦の甘みと、魚の塩気と香ばしさ。初めはぎょろりとした魚の目が恐ろしくて食べるのを躊躇したが、思い切って食べてみればいいと勧められたのだ。

 必死に思い出す。そうだ、あの時勧めてくれたのは――

「……トクス?」

「なんでしょう?」

 返ってきた声に、アイビーは現実へと引き戻された。トクスはすっかりと魚を食べ終え、口の周りについた汚れを指で拭っていた。

「なんでも、ないの。気にしないで」

 脳裏で揺れる、黒い髪と白い肌、ゆらりと輝く深緑色の瞳。断片的に思い出した外見の特徴は、隣に立つ男のものと酷似しているように思う。

 そんな馬鹿な、とアイビーは最後の一口を飲み込む。初対面でないのだとしたら、トクスだってそれに気が付いているはずだろう。お互いの名前だって知らなかったのだ。彼と以前に会ったとは思えない。

 次はどこへ行こうかと話しながらトクスと二人で通りを歩いていると、小さな菓子を摘まんでいる子どもたちとすれ違う。あれを食べてみたい、と提案し、共に店に向かう。提示されていた値段に気後れしたが、トクスがアイビーの分まで購入してくれた。払うと言ったのに、気にしないでくれと制されてしまう。折角なのでそのまま甘える事にした。

 器に盛りつけられたそれを口に放り込むと、口内に爽やかな香りが広がり、舌にすっきりとした甘さが伝わる。彼の話によると、花弁を長時間砂糖漬けにしたものらしい。

「地方ではあまり出回らないんですよ。砂糖も、使われている花も決して安価ではないので」

「高級品ということ?」

 それをすんなりと二人分も買えてしまうなんて、彼の財力はどうなっているのだろう。少しだけトクスの素性が気になった。

 花弁には何種類かあり、その中でも特に黄色い花弁は甘味が強く、それでいて後味はほんのり苦い。その感じが嫌いではなく、アイビーは黙々と黄色い花弁を摘まんだ。

「どうぞ」隣から大きな手が差し出される。そこには、アイビーが好んで食べていた花弁が何枚も乗っていた。「お好きなんでしょう? 俺は苦いのがあまり得意ではなくて」

「いいの?」

 トクスはうなずき、花弁をアイビーの器に入れてくれる。

「ねえ、じゃああたしからもあげる。交換ね」

 これなんてどう? と器から青い花弁を摘まみあげると、トクスはなぜか懐かしそうに目を細めた。かと思うと唇を引き結び、ぴくりと眉を上げる。

「なぜそれを?」

「え? いえ、何となく。苦いのが嫌なのなら、こっちはどうかなと思っただけで」

 青い花弁は体に染みていくような、優しく奥深い甘味があった。もしかしてこれも苦手だっただろうかと思った時、トクスの指がひょいと花弁を摘まみあげていく。

「ではありがたく」と口に花弁を放り込んだ彼の顔に、先ほどまでの表情はかけらも残っていなかった。

 菓子を食べ終え、器を店に返して空を見上げると、太陽は南から西に傾ぎ始めていた。

 聖堂の鐘はなかなか鳴らない。いつまで待てばいいの、というアイビーの疑問に答えるかのごとく、大空に重厚な音が響き渡った。それを待ちわびていたように、通りにいた人々が徐々に聖堂へ向かって歩き始める。

「もう入れるのね」

 早速行ってみましょう、と踏み出したアイビーだが、すぐに足を止めた。トクスがついてこなかったからだ。

 何となくこのまま共に行動するのかと思っていたが、そうではないのか。振り返って見た彼は渋面を浮かべたまま立ち尽くしており、「一つ、確かめたいことがあるのですが」と口を開いた。

「なに?」

「ここに着いたばかりの時、言っていましたよね。『聖女の涙』を飲ませる、と」

「……ええ」やはり聞こえていたのか。狼狽しているのを感づかれないよう平静を装いながら、アイビーはそれがどうかしたかと言わんばかりに首を傾げた。

「あなたは誤解している」彼の眼は、どこか哀れみが感じられる。「『聖女の涙』は、あなたが思っているような代物ではありません」

「どういうこと?」

 突然何を言い出すのだろう。初めは冗談を言っているのかと思ったが、彼は至極真摯な顔つきだ。アイビーは正面から彼と向き合い、もう一度「どういうこと」と発問した。

「『聖女の涙』は人々の傷や病を癒すものって聞いたけど」

「あなたは、それを信じているんですか?」

 彼の眉間に皺が寄る。まさか、トクスも――

「あなたも、あたしと同じ違和感があるの?」

「はい?」

「初めて話を聞いた時に、思ったことがあって」

『聖女の涙』について教えてくれたのは夫人だ。あれ以来、アイビーにはずっと棘のように引っかかっていることがある。

「聖女が人々を癒したのは涙ではないんじゃないかってって、ずっと不思議で」

 だからアイビーは『聖女の涙』を求めつつも、果たして本当に効力はあるのかと疑問で仕方が無かった。しかし今縋れるものはそれしかなく、自分の不確かな考えは胸の奥底にしまい込んだ。

「……あなたは、五年前の騒動を目にしていたわけではないんですよね」

「聖女にだって会ったことはない、と思うけど」

 いや、だとすればなぜ聖女が人々を癒すために使ったのが涙ではないと思うのだろう。会ったことがあるからこそ、そう強く感じるのかも知れないのに。自分の曖昧な記憶がひどく腹立たしい。

「失礼ですが、あなたのお歳は?」

「分からないけど、多分十七とか十八とかじゃないかしら」

 どうして歳なんて聞くのだろう。トクスは考え込むように何度も顎を撫で、こちらには聞こえない小さな声で何やらぶつぶつと呟いた。

「……あたしには、どうしても助けたい人がいるの。他に方法も思いつかないし、道が残されていない」

 アイビーは自身の胸を強く掴んでうつむく。シェアトが味わっているであろう痛みを思い、視界がぐらりと滲んだ。

 彼の言う通り、『聖女の涙』は自分が思っているものとは違うかも知れない。けれど、トクスの言い分が間違っている可能性だって十分にあるのだ。もちろん、自分の違和感も。

「たとえわずかな可能性でも、あたしは縋るしかないの」

 お願いだから、分かって。

 トクスの瞳を見上げると、彼は何かを言いかけ、しかし掠れた声を出すだけで何も言わない。やがて意を決したように「分かりました」とアイビーの肩を掴み、露店脇の陰へと連れ込んだ。

「あなたはここにいてください」そう訴える彼の眼は、どこまでも真剣そのものだった。「『聖女の涙』なら、俺が取ってきますから」

 彼に掴まれている部分がやけに熱い。焼けるような痛みを感じてアイビーが顔を顰めると、トクスは小さく謝りながら手を放した。

「取って来るって……盗むつもりなの?」

 肩をさすりながら問いかけると、トクスは何も言わずアイビーの脇を抜けて歩いて行こうとする。慌てて腕を掴んで引き留めると、彼はゆっくりと振り返った。

「確かにあたしは『聖女の涙』が欲しい。だけどあなたにそんなことをしてほしいわけじゃない! トクスが言ったんじゃない、『普通の宝物を盗み出すのとはわけが違う』『最悪は死刑だ』って!」

「あなたが盗むのと俺が盗むのとではわけが違うんです。とにかく、ここにいてください」

 それだけ言うと、彼は通りへと飛び出して行ってしまった。

「待っ……!」

「うおっ!」

 慌てて後を追おうとして陰から身を出すと、近くの露店へ食材を運んでいた男とぶつかった。丸い果物がいくつも路上に転がり、アイビーは慌てていくつか拾い上げる。男に果物を渡して謝罪し、改めて通りを見回した時には、すでにトクスの姿はなかった。

 ――わけが違うって、なに?

 顔を上げると、例の聖堂が目に入った。『聖女の涙』を取ってくると言ったのだ、トクスもあそこに行ったに違いない。アイビーは彼を捜そうと走り出しかけたが、繰り返し言われた「ここにいてください」を思い出して足が止まる。

 トクスとは今日初めて会ったばかりだ。完全に信用しているわけではないが、彼が嘘をついているようには見えなかったのも事実だ。

 ――でも、ただ待っているだけなんて無理。

『聖女の涙』を求めているのは他ならぬ自分自身だ。待っていろと言われて、大人しくしていられるわけがない。それに彼が実は嘘をついていて、『聖女の涙』を持ち去ってしまう可能性だってある。

 アイビーは大きく息を吸い込み、今度こそ走り出した。

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