第6話

「ヒュドラが毒も炎も吐かなくなったんです」と一旦締めくくったトクスに、アイビーは唇をへの字に曲げながら「どうして?」と問うた。

「理由は今でも分かっていません。一切の動きを止めたため、当然軍や〈幻操師〉はそれを狙います。何度も攻撃を重ねるうちに深い傷は負わせる事は出来ましたが、ヒュドラには高速再生能力があってあまり意味を為さない。いつ活動を再開するか分からないし〈核〉の位置も依然判然としない。聖女がいない今、このままでは兵士が疲弊していくだけだと考えた国は、魂と体を分離させて封じる策を打ち出しました。

 幸いこの国には『体から魂を抜き出す』、『魂を体内に封じ込める』それぞれの〈幻操師〉が存在していました。結果、抜かれた魂は後者の体内で管理されることになり、抜け殻となった体は、地中深くに埋められました」

 なぜ焼いてしまわなかったの、と聞きかけたが、ヒュドラには耐性があるのだった。それでも細切れにしたりだとか、鱗を剥いだうえで焼却するという手段がありそうだったが、

「見事〈幻獣〉に打ち勝ったと周辺国や後世に伝えるため、国は埋めてしまった体の一部を目にすることが出来るようにしたんですよ。ガラスを敷いて、そこから覗くと尾が、頭が、脚が見える、という風に」

 あとは大地の神がヒュドラを鎮めてくれるはず、という考えがあったのではとトクスは説明してくれた。

「そして、聖女。彼女の遺体は、ヒュドラを埋めた上に建つ聖堂へと安置されることとなりました。翌年には、人々は彼女の功績を讃えて祭りを行うようになったんです」

 以上、長々と失礼しました。そう言ってトクスはにっこりと笑った。

 馬車の乗降口からは外の様子がうかがえる。穏やかそうな一帯は町の中心部からは程遠い場所なのだろう。民家の数は少なく、人も多くはない。たまに見かける子どもが、無邪気に馬車に向かって手を振っていた。

 この辺りもヒュドラによる被害を受けたのだろうか。そしてアイビーも、それを経験していたのだろうか。

「ありがとう。とても興味深かった」

 しかし、と思う。夫人に話を聞いた時と同じような違和感が胸にわだかまる。

 間違いなく初めて聞いた話だった。なのに、なぜかそうは思えないのだ。

 ――まるで、初めから知っていた……じゃないな。なんだろう、この気持ち悪さは。

 自分でも答えが導き出せない。それに、

「なんでヒュドラは突然攻撃を止めたの? 不思議ね」

「俺もそこが疑問なんです」腕を組み、トクスは考え込むように目を閉じた。「なぜヒュドラは突然動きを止めたのか。明確な理由が今も解明されていない。それまでは暴れ回っていたというのに、本当に急に……おかしいと思いませんか?」

 一通り話を聞き終えたアイビーは、ううん、と密かに唸った。

 シェアトを助ける為に活かせるような事はないかと考えていたのだが、実現しそうなことが二つしか思い浮かばなかったのだ。

「ねえ、〈幻獣〉フェニックスって今もいるの?」

 実現しそうだと思った方法――聖女と同じ力を手に入れればよいのでは、と思ったのだ。そうすれば手に入る確率の低い『聖女の涙』に頼らなくても、自分の手でシェアトを救うことが出来るはずだ。あるいは〈幻獣〉フェニックスに直接シェアトを癒してもらう。アイビーが思いついたのはたったこれだけだった。

 だが、トクスは至極残念そうに「分かりません」と首を振った。

「〈幻獣〉はあまり人前に姿を現しません。中でもフェニックスは特に目撃例が少ないんです。……見てみたかったんですか?」

「ええ、まあ、そんなところ」聖女と同じ力が欲しかった、とは言えない。「あたし、〈幻獣〉を見たことなくって」

〈幻獣〉フェニックスは文字通り幻の存在らしい。『聖女の涙』を手に入れる事と、フェニックスを見つけるのとではどちらの確率が高いか。考えるまでもない。

 アイビーの動揺に気が付いているのかいないのか、トクスは訝しげに続けた。

「〈幻獣〉を見たことが無い? あなたが?」

「ええ。……それがなにか」

 この国では〈幻獣〉を見たことが無い人の方が少数派なのだろうか。彼は驚いたように一瞬目を丸くしていたが、やがて「いいえ、何でもありません」と首を振る。

「まあ仮に〈幻獣〉に会ったとしても、〈幻操師〉にはならないことをお勧めしますよ。今は特に。巷では〈幻操師〉殺しが発生していますから」

「ああ、そういえばさっきの町でもそんな事を話している人がいた気がする」

 丘の向こうの集落で一人殺された。これで六、七人目だと。

「……少し、聞いてもいい?」

「何です?」

「〈幻操師〉って、見かけは普通の人と変わらないのよね」

 シェアトが〈幻操師〉だとは思えない。もしかすると彼は別の誰かと間違われて襲われたのではとアイビーは考えていた。

「一見すれば何の変哲もありませんが」例えば、と彼は自分の頬を指さした。「場所は個人によって異なりますが、〈幻操師〉には等しく体のどこかに刻印が刻まれています。〈幻獣〉から力を授かったと同時に浮き出し、擦っても皮膚を削っても消えないものが。さすがに衣服に隠してしまえば見えませんがね」

 何度かシェアトの裸を見たことがある。思い返してみるが、彼の体にそのような刻印があった記憶はない。やはり彼は〈幻操師〉殺しとは無関係に、あるいは誰かと間違われて襲撃された可能性がありそうだ。

「あとは、そうですね」とトクスは両手で三角形を作った。「〈幻操師〉はその貴重性ゆえ国から金銭面などで援助を受ける代わりに、国の有事の際には優先的に駆り出されます。その前後には軍人が家を訪れるんですが、一目見て〈幻操師〉の家だと分かる様に、彼らの自宅の屋根は全て緑色に統一されているんですよ」

 ファザ町の様子を思い出す。町の中央を通る太い一本道と、それに沿って立ち並ぶ民家。アイビーは目を見開き、「そんな」とか細い声で繰り返した。

 黒や茶色など数ある屋根の色の中で、緑色だったのはシェアトの家のものだけだった。



 クレエが「聖都市」と呼ばれ始めたのは聖女の遺体が安置されてからだそうだ。遠目からでもはっきりと分かる聖堂には、毎朝多くの民が集まって祈りを捧げているという。今では聖女はすっかり神聖視されている、とトクスに説明され、アイビーはなぜか微妙な居心地の悪さを感じずにはいられなかった。

 馬車はすでに聖都市に入り、広場に停車している。各地から続々と似たような馬車が集まって混雑してくるため、長くはいられないらしい。乗客を全て下ろした馬車から順に聖都市を後にしていった。

 アイビーとトクスは現在、人混みの中で埋もれていた。広場があるのは祭りの開催地から遠く離れた場所であり、聖堂へ辿り着くにはまず門を抜ける必要がある。どうやら危険物を持ち込んでいないか確認してから、一人一人に番号の書かれた木札を渡しているようだ。

「こんなにたくさん人が集まってるのね」とアイビーはつま先立ちになり、人混みの向こうにある門を眺めていた。

「年々増えているような気はしますね。賑やかになるのは良い事です」

 陽が照ってはいるものの、やはり寒い。会話をするたびに、白い息が空気に溶け込んでいく。

「木札は忘れずに貰ってくださいね。明日の夕方頃に『聖女の涙』を譲り受ける者の番号が発表されますから」

「そうなのね」やはり今日ではないのか。アイビーは眉間に皺を寄せ、唇を噛んだ。「少し気になることがあるんだけど、聞いてもいい?」

 なんでしょう、と気さくに応えてくれたトクスに、アイビーは恐る恐る尋ねる。

「『聖女の涙』って、過去に盗まれたりってしたの?」

「未遂ですけれど、一、二回ほど」と彼は指を二本立てた。「どちらの犯人もすぐに捕まりましたし、収監されましたけど」

「収監?」

「ええ。『聖女の涙』は貴重ですし、単純に金銭価値がある。普通の宝物を盗むのとはわけが違います。先ほどの二件は未遂に留まったのでそこまで重い刑を科せられたわけではありませんが、もし見事盗み出して売買していたとなれば、最悪は死刑です」

 ぞ、と鳥肌が立った。

 ますます盗もうなどと言う馬鹿げた考えは薄れていく。アイビーは何度も腕をさすり、馬鹿なことを考えてはいけないと自身を戒めた。

「先ほどから思っていたんですが、よほど『聖女の涙』が必要なんですね」

 どきりと肩が跳ねる。さすがに見抜かれていたか。彼は馬鹿にしているわけではなさそうで、何気なく聞いてみたといった雰囲気だが、アイビーは内心激しく動揺していた。

「まあ、そうね。……どうしても、飲ませたい人がいる、から」

「え?」

 きょとんとトクスが小首を傾げる。語尾はあえて小声で言ったのだが、もしかすると聞こえていたかもしれない。どうにか別の言い訳を考えようと顔を上げると、気が付けば門の前まで来ていた。

 門には軍人と思しき屈強な男が二人いた。そのうちの一人に呼ばれ、両腕を上げるよう指示される。不審物を持っていないかと脇腹を武骨な手に撫でられ、不快感と言うよりもくすぐったさがあった。

「最後にこれを持っていけ」

 男が差し出したものは例の木札だった。手のひらほどの大きさのそれに書かれた数字は一四〇〇番。すでにそれだけの人数が聖都市に集まっているのだろう。アイビーは数字をじっと見つめ、木札を強く握りこんだ。なんとかシェアトのために『聖女の涙』を持って帰らなければ、とより一層感じる。

 トクスも同じように確認をされていたようだが、男と何やら話している。ここで待っていては後続に迷惑だろうと、アイビーは一足先に門を通り抜けた。

 そこに広がっていたのは、ファザ町やエウス町とは全く違う、賑やかな光景だった。

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