第5話
「女性の一人旅ですか」
彼の問いかけに、アイビーはこくりとうなずいた。
「どちらから来られたんです?」
「山の麓にある町から。川を上流に向かって歩いていった先にあるんだけど」
「ああ、ファザ町ですか」アイビーが暮らす町の名を知っているということは、この地域に詳しいのかもしれない。「確かにあそこから来たとなると、朝日が昇る頃には町を出なきゃいけませんよね。クレエに行くのは初めてですか、えーっと……」
そういえば互いに名乗っていなかった。アイビーが先に名乗ると、男は「トクスと言います」と微笑んだ。
「ええ。なかなか行く機会が無かったから」
「そうなんですね。俺は毎年行ってるんです」
「それなのに馬車の乗り場を知らなかったの?」
「あの町から乗るのは初めてだったんですよ」
彼の眼が少しだけ泳いだように見えたのは気のせいだろうか。アイビーは軽く首を傾げたが、追及するほどの事でもない。せっかくだし、クレエに何度も行っているという彼に、「ねえ、『聖女の涙』の事も知ってる?」と問いかけた。
「もちろん」彼はすぐに首を縦に振った。「アイビーはそれが目当てなんですか?」
「……ええ、そうね」自然と、膝の上で握った拳に力が入った。「ほら、なんだかありがたいものなんでしょう? 話に聞いただけだから見たことはないんだけど」
危うく「何としても手に入れるつもり」と言いかけ、咄嗟に理由を取り繕う。特に不審に思われなかったらしく、トクスは「へえ」と答えるだけだった。
「結構そういう方、多いんですよね。『聖女の涙』が目当てっていう」
「そうなの?」
「今仰っていたように、大変ありがたいものですから。病や傷の治癒を願って来られる方は大勢いますよ」
何気ない彼の言葉に、アイビーは目を見開き硬直した。
どうして気が付かなかったのだろう。自分がシェアトを助けるべく『聖女の涙』を求めるように、他にも同じ境遇の者がいるかもしれないということに。
――なんてこと。あたしは、『聖女の涙』が欲しくて。
――最悪は盗むしかないかも、なんて、考えていて。
冷静になって思い直すと、とんでもない事をしようとしていたと恐ろしくなる。
両頬を手で覆い、アイビーはうつむいた。無理を言ってでも馬車を止めてもらって、シェアトの元へ戻るべきだろうか。今頃は手術を行える医者が来ているかもしれない。『聖女の涙』以外にもシェアトを助ける方法だってあるかもしれない。
しかし、どうやってその方法を探せばいい。分からない。混乱の中、思考はまとまりにくかった。
「大丈夫ですか?」肩を揺さぶられ、アイビーはハッと顔を上げた。トクスだけでなく、他の乗客からも視線を向けられている。「やはり具合が悪そうですが」
「いえ、ちょっと考え事を」
していただけで、と言おうとしたが、アイビーは額に触れた熱い手に言葉を飲みこんだ。
「熱はなさそうですね」
トクスはアイビーに伸ばしていた手を引っ込め、心配そうにこちらを見遣ってくる。アイビーはしばらく何も言えず、「き、気にしないで」と呟くように発した一言は、自分でも驚くほどに揺れ、上擦っていた。
馬車の中は寒いはずなのに、頬が熱い。それを何とか誤魔化そうと、アイビーは手のひらで頬を覆った。
「ちょっと、そう。『聖女の涙』っていうか、五年前に国を救ったっていう聖女の事とか、あまり知らないなあって思って」
所々噛んだり声が裏返る。額に触れられた恥ずかしさから彼の顔を直視できない。ちらりと横目で見たトクスは意外そうに目を丸くし、「もし興味がおありでしたらお話しましょうか?」と提案してくれた。
「本当?」
その瞬間、先ほどまで感じていた恥ずかしさは吹き飛んだ。
もしかしたら、聖女が民を救ったという話の中でシェアトを助ける為に活かせるものがあるかも知れない。そう思ったのだ。
是非お願いと頼み、「あの、もし迷惑じゃなかったらでいいんだけど、あたし〈幻獣〉のこともよく知らなくて」と付け加える。ついでにそのあたりの事も教えてくれないかと尋ねてみると、彼は快くうなずいてくれた。
「まず、数百年前まで話は遡ります。この国には昔、魔術を生業とする人々が存在していました」
あまり心地の良い話ではないのか、トクスはいくらか声を低くした。
「魔術師と呼ばれる人々は徐々に数を増やし、全世界へ散らばったと言います。初めは『空を飛ぶ』だとか『不治の病を治す』だとか『怪物を召還する』だとか、吹聴するだけで大々的な行動に移すことは無い、少し怪しい連中だったようです。しかし時を経て実際に不可思議な方法で空を飛んでみせたり、病を癒して見せたり……そして彼らはついに『怪物を召還する』まで現実のものとして見せました。
この世には何百年、何千年も前から伝わる古の生物がいる、とされています。それらは人前には滅多に姿を現さず、人々に恩恵をもたらしたり、あるいは苦難を与えたり。魔術師たちはこれを召喚し、己の力を見せつけてやろうと考えたわけです。例えば『ドラゴン』と呼ばれる伝説の生物がいます。顔はトカゲに似て、鋭い爪や翼を持ち、炎を吐くと噂される恐ろしい怪物です。これを召喚しようと考えた魔術師たちは、あらゆる方法を試しました」
あらゆる方法、と反復した直後、ぴり、と頭がかすかに痺れた。それと同時にいくつかの言葉が脳内で揺れる。
「『ドラゴン』を作り出すに最も効率が良いのは、トカゲと牛の角、鷹の翼、羊の血、獅子の牙と、それと……」
「ご存知だったんですか?」
トクスが驚いたように目をみはる。アイビー自身もなぜ知っていたのか分からない。不思議と幼い頃に繰り返し聞かされたような、仰々しい単語の羅列ではあったが懐かしさを覚えた。だが、我に返ったと同時にその感覚はふっと消えてしまう。
「大昔に、誰かに聞いたのかも」
しかし誰に聞かされたのかが判然としない。胸に残ったわだかまりを解消したかったが、「詳しい方が周囲に居られたんですね」と続けたトクスの声に遮られてしまった。
「しかし、先ほどの材料には一つ足りないものが」彼は指を立て、一層声を潜めた。「生贄用とされた、幼い子どもたちです」
言いながら、彼はちらりと馬車に乗り込んでいる子どもに視線を向ける。ちょうどあれくらいの年代の子ども達が用意されたのだろうか。アイビーは見るともなしに彼らを見回し、「子どもである必要性はあるの?」とトクスに問いかけた。
「人間は大小関わらず、生きている間に、知らぬ間に罪を犯す。それによって身が穢れる、と魔術師たちは信じていたようで」
「長い間生きている大人に比べて子どもは穢れていない、ということ?」
彼は無言でうなずく。生贄がどうとかいうのは、そういえば町で見かけた男たちも話していたなと思う。彼らがアレと言っていたのは、魔術の儀式のことだったのか。
「さて、そうして集めた材料をどうしたか。これも様々な方法が伝えられています。三日三晩寝ずに踊り続けて祈るとか、生きたまま子どもの腹を捌いて流れ出た血を捧げるとか、材料を全て煮混むとか。大半は失敗に終わったようですが、ごく稀に本当に怪物が、伝説の生物に似たものが誕生しました」
「……それが、〈幻獣〉……」
「そうです。初めのうちはただ暴れ回るだけの危険な怪物だったようですが、技術の向上に伴い、人間を素材に使っているゆえか、中には人語を理解したり、知性を兼ね備えた優秀なものも生まれたそうです。初めは偉業として世界中が讃え、家を守る守護獣として活用したり、時には戦争にも用いられたそうですが……すぐに問題が起きた。
魔術で〈幻獣〉を生み出す際、先ほども言ったように子どもたちが用意され、時には子ども以外に女性たちや、買い付けた奴隷だとかが犠牲となっていきました。これらについては巧妙に隠していたようですが、やがて世間に露呈し、魔術師たちは糾弾された。さらに〈幻獣〉生成を推進する者たちとそうでない者たちの衝突も起きるなど争いが増え、最終的に魔術師たちは追い込まれて衰退し、その大半は一家もろとも処刑されました。やがて魔術は、特に〈幻獣〉の生成は『禁忌』として忌避されて廃れていった」
「ちょっと待って。〈幻獣〉を生み出した人たちは滅んでいったのに、とうの〈幻獣〉はまだこの世に存在している……のよね?」
「もちろん討伐も考えられたそうです。ただ、あまりにも数が多すぎた」
魔術師たちは己の技術を競うべく、次々と〈幻獣〉を作り出したらしい。討伐作戦が持ち上がった時、その数はすでに大小含めて五百を超えていた。
「討伐のためには費用が掛かります。人員や、彼らのための鎧や剣に弓矢。それに、元の伝説の生物がそうであるように〈幻獣〉もまた、人々に危害を加えるだけでなく恩恵をもたらすこともあったんです。そこで世界各国は『人類に害を為した』と判断した場合のみ、〈幻獣〉を討伐する方針を打ち出した」
アイビーが暮らしていた町の場合は〈幻獣〉カラドリウスが現れ、人々が救われた。世界的にもそういった類の話があるのだろう。トクスが例として出したドラゴンは危険な印象があるが、一概に〈幻獣〉全てがそうだとは言えないようだ。
「そして、俺たちが向かっているクレエで讃えられている聖女は、今説明した〈幻獣〉のとある一体から力を授かった〈幻操師〉です――ちなみに〈幻操師〉たちは〈幻獣〉由来の力を操ります」
ようやく話が本筋に入ってきたようだ。アイビーは背筋を正し、トクスに続きを促した。
「五年前、この国に〈幻獣〉が出現しました。九つの首を持ち、毒や炎を吐くヒュドラと呼ばれるものです。ヒュドラの毒は風に乗って国に蔓延し、炎は家々を焼き尽くしました。人々は傷つき倒れ、命を落とす者も少なくありませんでした。もちろん国もヒュドラの討伐に乗り出しましたが……強すぎたんです」
ぎゅ、とトクスが膝の上で指を組む。当時を実際に経験したのだろうか、指にはかなりの力が加わっているように見えた。
「ヒュドラは頑丈な鱗に覆われていました。砲弾は通じず、剣も矢も弾き返される。ならば生きたまま炎で焼いてしまえ、と作戦を決行するも、ヒュドラ自身が炎を吐くために耐性があった。水に沈める案も出たそうですが、巨大すぎて深さが足りない。沈めるには海までおびき寄せるしかなかったんですが、道中で出るであろう被害を考えてすぐに却下。不意打ちをしようにも首が九つありますし、隙が無い。このままむざむざとこの国は滅んでしまうのか――そこに現れたのが、〈幻獣〉フェニックスの癒しの力を持つ聖女だったんです」
聖女は傷ついた人々に自身の涙を振りかけた。その途端、死を待つしかなかった彼らから瞬時に毒が消え、逃げる際に出来た傷も完治した。軍人たちも同様に癒すと、彼らは再び剣を手に戦えるまでに復活した。そうやって聖女は一つ、また一つと都市や町村を渡り歩き、不眠不休で国民を癒していったという。
「けれど彼女の施しは追いつかなかったんです。例え一つの町の人々を全員癒しても、毒は風に乗って再び蔓延する。そんな状況だったんです」
「原因のヒュドラを倒してしまわない限り、聖女の奔走も永遠に終わらなかったのね」
「……どうしました?」
トクスに顔を覗き込まれる。どうやら知らぬ間に相当気難しい表情になっていたようだ。なんでもない、と首を振ると、彼は話を続けてくれた。
「王は国内にいる〈幻操師〉たちを集めてヒュドラと戦いました。しかし、やはり歯が立たない。〈核〉の位置も分からず、決定的な攻撃を出来ずにいたんです」
「〈核〉……ってなに。初めて聞いた」
「生物に心臓がある様に、〈幻獣〉の活動源は体内に埋め込まれた〈核〉なんです。形や大きさ、位置は個体によって異なり、それを完全に破壊しない限り〈幻獣〉は動き続ける。厄介なものです」せめて埋め込む場所くらい統一してくれたってよかったのに、と彼は小声で愚痴を吐いた。「その結果、先に力尽きたのは聖女の方だった」
決戦の地はクレエ――つまり聖都市だったという。軍はヒュドラを追い詰めたが、毒と炎を前に為すすべもなく倒れていった。〈幻操師〉たちも満身創痍となりながら戦い続けたが、敗北は火を見るより明らかだった。
そんな折、聖女が突然ヒュドラの前へと踊り出た。だが彼女の力は戦闘向きではなく、興奮状態にあったヒュドラは容赦なく毒を吐く。
「いくら自分自身も治癒できるとはいえ、国中を奔走して限界点はとっくに超えていたんでしょう。彼女は毒に全身を蝕まれて倒れ、安全な場所へ運ばれて治療を受けたものの、息を引き取ったんです。誰もが悲しみ、怒りました」彼の言葉の節々からは、聖女に対する尊敬と、ヒュドラに対する憎しみのようなものが滲み出ていた。「そして、その時は突然訪れました。ヒュドラが毒も炎も吐かなくなったんです」
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