第1話

 冬の空に、鐘の音が鳴り響く。色とりどりの石で緻密な絵が描かれた鐘楼の下では、澄んだ音に合わせて少女たちが鈴を鳴らし、声をそろえて歌いながら踊る。彼女たちがまとっている貫頭衣は揃って白く、手や足で揺れる鳥の羽根の装飾は陽の当たり方によって七色に輝いて見えた。

 厳かな空気に、鐘楼を取り囲むように集まった人々は誰もがうっとりと酔いしれる。そんな中、アイビーは隣に立つ同行者がうつらうつらとしている事に気付き「ちょっと」と声を潜めて肩を叩いた。

「シェアト、シェアトってば」名を呼ばれた男は、ハッとしたように周囲を見回した。「いつも眠れないとかなんとか言ってるくせに」

「ああ、うん、ごめん。なんか綺麗な音とか聞くと、つい」

 シェアトが申し訳なさそうに笑う。動きに合わせて茶色い髪がふわりと揺れた。まだ完全にまどろみから戻り切っていないのか、謝罪の声は安定していない。

 まったくもう。アイビーは彼の手に自分の手を重ねた。次に眠ったら、迷うことなく爪を立てて起こしてやるために、だ。

 少女たちの踊りは実に美しい。彼女たちはこの日のために、一年前から練習を繰り返してきたのだ。卵の表面のように滑らかな肌と、絹に似た艶やかな髪の手入れに至ってはそれ以上の時間を費やしてきたに違いない。

 いいなあ、と内心で呟く。彼女たちの姿のなんと美麗なことか。自分もあんな風に鈴を持ち、真っ新で綺麗な服を着て踊ってみたい。けれど、とアイビーは腰ほどまで伸びた癖のある朱い髪を指で梳き、小さく首を振ってため息をついた。

 鐘楼の周囲で舞う踊り子として選ばれるには、いくつか条件を満たさなければならない。

 その一、少女であること。その二、純潔、つまり処女であること。その三、美妙な歌声を持っていること。

 そしてその四。十五歳未満であること。

 傍目に見ても、アイビーの歳はそれを越えていると思われた。

 ――でも、自分の歳なんてちゃんと知らないし。

 ――覚えてないし。

「いたっ」ちくりと手の甲に痛みを感じた。何事かと顔を上げると、シェアトに「寝てたでしょ」と笑われる。そういう彼も、必死に眠気と戦っているようだった。

 自分のことは完全に棚に上げて何を言うか、こいつは。少しばかりムッとし、仕返しとばかりに彼の手に爪を立ててやった。

 しゃりん、と鈴の音が。ごぅん、と鐘の音が、それぞれ余韻を残して終わる。それが完全に消え去った頃、大空に純白の鳥が数十羽放たれた。

「三百年前、この地には病が蔓延した」朗々とした声がどこからともなく響く。見上げてみると、ひげを蓄えた老人が鐘の下に立っていた。「我々の先祖は為すすべもなく病に倒れ、家族を失った。そんな折、一人の男の元に輝きが訪れた」

 人々の視線は男に集中する。それに臆することも無く、男は詩歌を詠ずるように言葉を紡いでいく。

「輝きの名を〈幻獣〉カラドリウス――病を癒す救世主」

 アイビーは男から視線を外し、鐘楼の壁面に目を向けた。

 そこには眩い光と共に降臨した純白の鳥と、それに祈りを捧げる人々の姿が描かれていた。


 南北に広がる楕円形の国土を持つテュスト国の中で、ファザ町は最東端に位置している。隣国とも山を隔てて接しているため、古くから旅人が立ち寄る地として親しまれてきたという。安価な宿も多く、水も上手いし料理も絶品。かつては一日に二百人以上の旅人が訪れ、住人達も町のシンボルとも言うべき鐘楼の周囲に露店を出し、彼らを歓迎していたらしい。

 実感が持てないのは、四年前からここで暮らし始めたアイビーがそんな繁栄っぷりをこの目で見たことがないからだ。

 確かに旅人は訪れるが、多くてひと月に十人か二十人ほどだ。開いている宿より閉まっている宿の方が多いし、露店の数も全盛期に比べればかなり減ったと聞いている。

「でもまあ、以前よりは人が来るようになったよ」

 青空の下で串刺し肉を焼く露店から自分とアイビーの分を買い、実に美味そうにそれを頬張りながら、シェアトは苦笑した。

「今はほら、何人か旅装束の人がいるけど。五年前はこうじゃなかった」

「ふうん」

「……あんまり興味無さそうだね、アイビー」

「そんなことない」と返事をしつつ大きく口を開け、肉に齧り付いてみる。じゅわ、と甘く香ばしい肉汁が口内に広がった。「これ、すごく美味しい!」

 普段食べているような、いくら噛んでも噛みきれない肉とは違う。舌の上で蕩けたと錯覚してしまうほどに柔らかく、油っぽいしつこさも無い。愛用のワンピースに肉汁が落ちてしまわないよう気を払って食べ進めた。

 味を覚えるように何度も噛んでから肉を飲みこみ、「五年前……その頃、あたしは何をしてたのかしら」とアイビーは唇を尖らせる。

「やっぱり、まだ思い出せない?」

「全く、一切」

 そっかあ、と相槌を打った彼は、安堵と憐憫が入り混じった表情を浮かべていた。

「全部思い出したら、あたしがここを出て行くと思ってる?」

「そりゃあね。例えば君に大事な人がいたとすれば、その人のところに戻りたくなるんじゃないかな、とかさ」

「大事な人……家族とか?」

「恋人とか」

 まさか、と彼の予想を一蹴し、アイビーは肉に齧り付いた。


 シェアトと出会ったのは四年前の冬だ。彼の話によると、ある日、膝の下まで積もった雪をかき分けながら山道を進んでいたところ、ふと何かに躓いた。

 初めは岩かと思って無視しようとしたという。だが、何気なく雪をかき分けてみると、そこから現れたのは意識を失って倒れ、雪に埋もれていた女性――つまりアイビーだったというのだ。

 慌ててアイビーを背負って山を下った彼は、真っ先に医者の元へと駆けこんだ。幸い息はあり、しばらくすれば目を覚ますだろう、と診断されたらしい。

 ファザ町には山から続く太い一本道が通っている。家々はそれに沿うようにして立ち並んでおり、その中で一際目立つ緑色の三角屋根がシェアトの自宅だ。彼はアイビーをそこに運び、何日もの間、暖炉を焚いた部屋で看病をしてくれたという。

 結果的にアイビーは意識を取り戻したものの、問題があった。

『君、名前は?』

 そう問いかけてきた彼に、自分は何と答えたか。あの時のことは今でも覚えている。

『……なま、え?』

『そう。……もしかして、知らない?』

 じゃあ年齢は、と尋ねられた時は、きょとんと首を傾げたのだ。

 その他にも色々尋ねられたが、アイビーはたどたどしく「分からない」と答えるしかなかった。

 それから数日間、アイビーはシェアトの世話になりながら過ごしていた。しかしある晩、無性に不安に駆られて家を出ようとしたことがあった。

 自分の故郷も、家族も、何もかも覚えていない。自分がどんな人生を辿ってきたのかも。その全てが急に重みを増してのしかかってきたような気がした。それから逃れるように、アイビーは当てもなくふらついたのだ。

 それを止めてくれたのは、シェアトだった。

 気にするな、記憶が戻るまではここにいればいい、と。

 確かに町から出たところで、身寄りもなく、何も覚えていないアイビーが頼れる人はいない。初めは「これ以上甘えるわけにはいかない」と彼の提案に首を振ったのだが、シェアトと過ごす日々が心地よかったのも確かで、結局この地に留まったのだ。


 露店を見るともなしに見て回っていると、シェアトが鐘楼を見たいと言って足を止めた。そこに先ほどの少女たちや男の姿は無く、町の人々が思い思いに食事や歓談を楽しんでいる。

 ――輝きの名を〈幻獣〉カラドリウス。

 アイビーは鐘楼の壁に描かれた鳥に目を向け、先ほど男が語っていた話を思い出していた。

 ――〈幻獣〉は一人の男に、いかなる病も触れただけで癒す力を授けた。男はその力をもって人々を癒し、ついにこの町は救われた。

 ――我々の先祖は男を、そして〈幻獣〉を崇め奉り、その伝説を後世へ伝えるべく鐘楼を建設した。病が蔓延するたび、人々は鐘楼に祈りを捧げ、大空へ音を響かせた。その途端、病は瞬く間に消え去り、町には平穏が訪れるようになった。

 この町に住まう者ならば、毎年〈幻獣〉を讃える祭りで耳にする物語。アイビーが聞いたのは今年で四度目だが、どうにもその話がうさん臭く思えてならない。

「〈幻獣〉なんて、本当にいるのかしら」

 ぽつりと呟くと、そばで鐘楼を眺めていたシェアトに「もちろん」と即答された。

「シェアトはあの話、信じてるの?」

「そりゃあ小さい頃から何度も聞かされてるし、〈幻獣〉だって見たことあるし」

 彼は言葉を続けようとしていたが、アイビーはにわかには話を信じられず半眼でその横顔を見遣った。

 シェアトは生まれも育ちもこの町だと聞いているし、そこに嘘はないだろう。信じられなかったのは二言目だ。

「見たことあるの? カラドリウスを」

 そんなの初耳なんだけど、と尋ねると、シェアトは「ぼくが会ったのは別の〈幻獣〉だし、もう十何年も前だけどね」とへらりと笑った。

 アイビーの眼差しに疑いが込められている事に気付いたのだろう。彼は何度も本当だ、と繰り返した。

「じゃあ、それを証明してみせてと言ったら?」

「えっ」

 挑むように問いかけると、シェアトは急に困ったように唇を曲げ、目にかかるほど伸びた前髪をしきりに整える。本気で悩んでいるのか、声にならない声で唸る彼に、アイビーは「冗談だから」と笑みを向けた。

「あなたが嘘を言うとは思えないし。今の話は本当なんだなって信じてるから安心して」

 そういえば、とアイビーは手を打つ。〈幻獣〉と聞いて思い出したことがあったのだ。「ねえ、聖都市って行ったことある?」

「聖都市?」

 首を傾げた彼に、アイビーはこくりとうなずいた。

「この前、二つ隣の町に出掛けたでしょ。その時に、今度そこでお祭りをやるってお店の方から聞いたの」

 シェアトは畑を耕して穀物や野菜を育て、それを売買することで生計を立てている。採れたばかりの新鮮な野菜はファザ町をはじめ近隣の町村でも取引されており、アイビーは時折それについていくことがあった。

 聖都市と呼ばれる場所で祭りをやる、と教えてくれたのは、先日訪れた町で立ち寄った店の老婦人だ。シェアトについていった際には衣服やブーツなど身に着けるものを購入しているのだが、会計を済ませるまでの世間話に花を咲かせていた時、そう聞いたのだ。

「何だか興味ない? 立派な聖堂もあるって聞いたし、見てみたくなって」

 どう? とシェアトを見上げると、彼は難しい顔で倦んでいた。

「でも、あそこ遠いんだよ。何本も河を越えてようやく着けるような場所で……歩いて行くには遠いし、それに馬だって持ってない」

「大丈夫よ。隣町からは馬車が出てるって教えてもらったし」

 これも老婦人が教えてくれたことだ。胸を張って伝えると、シェアトは悩ましげに頭をかいた。

 畑の耕作もしなければならないし、彼が行きたがらないだろうというのは何となく承知していた。実際、シェアトは「人も多そうだし」だとか様々な理由を並べ立ててくる。しかしアイビーは事前に外堀を埋めていた。近隣住民に畑の事を頼んでおいたのだ。

「だから、ね? 安心して。たまには思いっきり羽を伸ばしてみるのもいいじゃない」

 説得を重ねると、シェアトはようやく「分かった」とうなずいてくれた。

 アイビーは喜びのあまり飛び跳ねたい衝動を堪え、満面の笑みで「約束だからね」と言って歩き出す。その足で近くの露店に向かい、店頭で売られていた魚の丸焼きを二本注文した。

 近くの川で獲れたものだろうか、かなり肥えた魚だ。注文を受けてから仕上げに焼き上げるらしく、徐々に表面に焦げ目がついていく。アイビーが店主から魚を刺した串を二本受け取った時、シェアトは胸をさすっていた。

「気を付けていれば大丈夫かな……」

「どうしたの?」

 何やらぶつぶつと呟いていた彼に魚を差し出すと、シェアトは一瞬目を丸くしてからそれを受け取ってくれる。自分の世界に閉じこもるあまり周りが見えていなかったらしい。

「美味しそうだから買ってきたの」と言いつつ、香ばしく焼き上げられた皮に歯を立てる。中に麦が詰め込まれていたのか、隙間からほろほろと零れ落ちてきた。さっぱりとした魚の身には少し塩気があり、生臭さは香草でかき消されていた。

 シェアトも同じように魚にかじりつくと、「他には何か聞いた?」と問いかけてくる。

 そうだ。どうして聖都市の事を思い出したのか、ということを彼に伝えていなかった。

「『そこの聖都市はあんたの町みたいに〈幻獣〉に深く関わっているんだよ』って仰ってたの。どういう風に、とかは教えてくれなかったけれど」

 というよりも、老婦人もあまり詳しくなかったのだろう。彼女とはそこまでしか話していない。

「ねえ、〈幻獣〉って何なの?」

 どうしてか、その言葉に無性に興味を惹かれる。シェアトはどこか諦めたように「まあいいか」と笑った。

「簡単に言ってしまうと、『いにしえから伝わる伝説の生物に似たもの』かな」

「……どういうこと?」

「ここで讃えているカラドリウスを例にすると、これと同名の生物が太古の神話で語られている地域があってさ。この町に降臨したとされているカラドリウスは、その神話上の生物に似せたものっていうか」

「……よく分からないわ」

「聖都市に行けばきっと分かるよ」

 シェアトの言葉には確信めいたものが込められていたが、アイビーがそれに気付くことは無かった。

「でも、深く関わっているってどんな風になのかしら。ここみたいに讃えてるとか」

「残念だけど微妙に違う」アイビーの予想に、シェアトは指を振って応えてきた。「聖都市の祭りは〈幻獣〉を打ち倒したっていう趣旨のものだよ。この町みたいに讃えられている対象はいるけど、それは人間であって〈幻獣〉じゃない」

「ずいぶん詳しいのね?」

「他の人の受け売りだよ」

 ふうん、とうなずいて手元を見ると、魚は最後の一口になっていた。もぐ、と噛みしめると、胸中にじわじわと懐かしさのようなものが広がっていく。過去にも同じものを食べたことがあるのかもしれない。

 かすかに頭が痛む。こめかみの辺りを指で押さえると、

 ――何だろう、これ。

 アイビーは戸惑って眉を顰めた。見覚えのない光景が脳裏に浮かび上がっては消え、再び鮮明になったかと思うと、また水に滲むように消えていく。

 失くしてしまった記憶の一部なのだろうか。大きなバラ窓と、そこから差し込む色とりどりの光。照らし出された数多の椅子の一つに座ってそれを浴び、まるで虹みたいだと言って笑っていたのは誰だったか。

「アイビー?」自分を呼ぶ声に肩が跳ねる。現実に戻った途端、先ほどまでの光景はざわりと霧散した。「どうした? 体調悪い?」

 心配そうに顔を覗き込んでくる彼に、アイビーは首を振って「大丈夫」と答えた。

 ――あの光景を一緒に見ていたのは、シェアトだったのかな。

 なんとかして断片を手繰り寄せようとしても、記憶の影は徐々に薄れていく。

 笑っていたのが誰だったのか、再び思い出せることは無かった。

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