哀惜の幻獣
小野寺かける
プロローグ
「聞いてもいいかな。君が以前訪れたっていう、北の国での暮らしについてなんだけど」
彼と自分以外誰もいない、深閑とした聖堂の中で、彼は物憂げにそう切り出した。バラ窓から降り注ぐ光に照らされた秀麗な横顔は、大人びていながらも子どもっぽさが残っている。
「いいけれど、どうして?」
「ヴァールっていう土地を知ってるかな? あそこは土地が痩せていてさ。そういう環境下でも育つ作物があれば、あの土地で暮らす人たちの生活が少しは潤うのにと思って」
「ああ、あそこね。一度だけしかまだ足を運べていないけれど……」
思い出しながらうつむくと、朱く長い髪が顔にかかる。彼はその一房を拾い上げ、耳にかけ直してくれた。
「確かに実りの少ないところではあったわ」
「だろう? それで、環境が似た北の国を参考にしたいと思って」
心の底から民の生活を案じていることが窺える表情は、将来王の座に就く者としては相応しい。自分より年下なのに、精神面ではきっと彼の方がいくらも上なのだろう。
自分がかつて訪れた国の様子を改めて語ると、彼は真摯にそれを聞き、しきりにうなずいていた。
「帰ったら、父に提案してみるよ」
時間はかかるかも知れないけどね、と付け足した後で、彼は紅色の目を細めて笑った。
自然とこちらも笑顔になれるような、不思議な魅力がそこには詰まっている。
目を離せないまま、いつしか二人は見つめ合っていた。しかしすぐに照れくさくなったのか、彼は頬を染めて目を逸らし、「に、虹みたいだよね」とバラ窓を見上げた。
「え?」
「ほら、あそこから差し込む光はただの白じゃなくて、虹みたいに色とりどりだろう? それがなんだかとても素敵だと思って」
そう説明した彼の頬は、まだ赤かった。
名前を呼ぶと、ぎこちなく目を合わせてくれる。
彼に惹かれているとはっきり自覚したのは、彼に助けられた時かも知れない。
先日、彼や彼の弟、彼らの護衛と出かける機会があった。一人で行くと言ったのに、あの地域一帯は危険だからと、いつの間にか大所帯になっていた。
目的の地は数年前に荒廃してしまっていたが、それでも多少人がいた。ただそれはずっとここで暮らしていた住人ではなく、この辺りを支配しているという荒くれ者たちだ。彼らは突然やってきた一行の中から狙うべき人物を定め、襲い掛かってきた。標的にされたのは、唯一の女性であった自分である。
護衛たちが守ったのは尊ぶべき身分である彼と、彼の弟だ。当然だ、自分は名こそ知れ渡っていようと、一介の一般人に過ぎない。
喉に刃物が付きつけられる。少し死を覚悟した時、助けてくれたのは他ならぬ彼だった。護衛たちの制止を振り切り、携えていた剣を果敢に振るいながら荒くれ者たちを撃退してくれた。
どうして助けてくれたのかと聞くと、「無我夢中だったんだ」と耳を染め、照れくさそうに可愛らしく笑った。
彼の隠れた魅力に気付けたことに、ほんのりと胸が熱くなる。だが同時に芽生えたのは、どうしようもない後ろめたさだ。
きっと彼も愛してくれている。言葉にされたことはないが、日に日に近くなっていく距離がそれを物語っている。
――恐らく私は、あなたの愛に応える事は出来ないでしょう。
「どうしたんだい?」心配そうにこちらを覗き込む彼と目が合う。何でもない、と首を振ると、彼の手が頬を撫でた。「顔色が悪いよ。疲れているんじゃないかな」
彼のぬくもりが全身に沁み渡るようで、ゆっくりとまぶたを閉じる。
このまま時が止まってしまえばいいのに、と願っていると、唇に柔らかな感触があった。驚きのあまりわずかに身を引くと、そこには彼の顔がある。
「ご、ごめん。つい」
嫌だったかな、と彼は雨に濡れた犬のように見るからにしょんぼりとした。
「……いいえ、全然」
彼の頬に手を伸ばし、輪郭を指でなぞる。今度は自分から唇を重ねた。彼は目玉が零れ落ちんばかりに目を見開いていたが、すぐに全身から力を抜いた。
戻りの遅い二人を呼びに彼の弟がやってくるまで、二人はいつまでも互いを求めあっていた。
――あの日が今は、懐かしい。
澱のように黒く淀んだ雲に覆われた空から、綿に似た白い雪がはらはらと舞い落ちる。その一片が目元に触れ、溶けたそれはまるで涙のように滑り落ちていった。
「目を閉じちゃ、だめだ」
震える声と共に、肩をきつく抱きしめられる。逞しいその手は、間違いなく彼の手だ。視界の端で揺れた彼の髪は、元が金色だったと分からないほどに泥と埃で汚れている。
自分も彼を抱きしめたいのに、全身に力が入らない。目を開けている事すら億劫で、このまま眠ってしまいたい。
「ぼくを置いていくつもりなのか。ぼくから離れていくのか?」
ぎち、と彼が奥歯を噛みしめる音が間近から聞こえるのに、どこか遠いところから響いてきたようにも感じる。
置いていくつもりなんかない。離れるつもりなんてさらさらない。そう言いたいのに、口が動いてくれなかった。
周囲からはすすり泣く声が聞こえる。恐らく彼も、涙を流しているのだろう。
――そんな顔を、させたいわけじゃないのに。
――私はあなたの笑顔が見たいのに。
そう訴えようとした時、川の向こうから天地を揺るがすような咆哮が轟いた。疲弊しきった悲鳴の中で、肩を抱く彼の力が強くなる。きっと守ろうとしてくれているのだろう。
民を、そして愛しい人を。
そのことを嬉しく思いつつ、まぶたを落とす。
「ヘデラ――――――」
彼に名を呼ばれたのを最後に、彼女は意識を手放した。
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