第2話

 夜闇の静寂を遮る様に、どこかの家で犬が鳴く。愛らしいながらも勇ましい鳴き声に、思わず頬が綻んだ。

 ベッドから身を起こし、アイビーは窓の外に目を向けた。町で一番の高さを誇る鐘楼はどの家庭からでもよく見える。普段は月明りに照らされてぼんやりと輝いているように見えるのだが、今晩は天気が悪いのか、その姿は暗闇の中でひっそりとしていた。

 祭りの最中に思い出した景色はなんだったのか、考え込んでいるうちに眠れなくなってしまった。寝ようと努力はしたが、結局こうして外を眺めている。

 昼間の喧騒とは打って変わり、辺りには静けさが満ちている。夜が明ければいつも通りの日常に戻るに違いない。アイビーは普段、隣の家に住むパン屋の夫人が焼きたてのそれを売り歩く時に手伝いをしていた。

「でも明日は手伝えないかしら」

 隣町から馬車が出ているとはいえ、そこまでは歩いていかねばならない。夫人たちを手伝う暇はなさそうだ。

 聖都市では祭りに合わせてたくさんの露店が出ると聞いている。日頃の感謝を伝える為に、夫人たちに土産を買ってこよう。きっと喜んでくれるはずだ。

 ばしゃん、とどこからか何かが割れる音がした。寝つきが悪いと言っていたし、シェアトがまだ起きていて、部屋に置いてある花瓶でも落としてしまったのかもしれない。慌てるような声も聞こえてきた。

 ちょうどいい。いつごろに町を出るのか今のうちに聞いておこう。部屋の扉を開けようとしたが、

「……なに?」

 音が徐々に大きく騒がしいものになり、それに言い争うような声が加わる。間違いなくシェアトの声だ。

 祭りでは酒も振る舞われていた。酔っ払いでも入り込んできたのだろうか。尋常ではない様子に慌てて部屋を出ると、声はこの家で一番大きな部屋から聞こえてきた。シェアトのものではない、もう一人、男の声もする。

「シェアト? どうしたの?」

「来るなアイビ、」

 びしゃ、と。

 廊下から部屋を覗き込んだアイビーの顔に、生暖かい何かが降りかかった。

 入室を拒むように、眼前にはシェアトが立っている。その胸には大きな穴が開き、彼は何かを訴えながら床に崩れ落ちた。

「え……?」赤い海が足元に広がっていく。それがどういうことなのか分からないほど、アイビーは鈍感ではなかった。「シェアト、シェアト!」

 床に膝をつき、倒れたまま動かない彼の肩に手をかけ抱き起す。胸の傷口からどろりと零れ落ちた鮮血がアイビーの膝と手、寝間着を濡らした。

「ねえシェアト、起きて、起きてってば!」

 血が流れ出ないように、と傷口を手で塞ぐが、ほぼ意味を為していない。血に染まった手で触れた彼の頬は、急速に温度を失いつつあった。アイビーの視界はゆらゆらと歪み、喉の奥から呻きが漏れる。

 こんなひどいことを、一体誰が。シェアトの頭を抱きかかえたまま顔を上げると、ろうそくの灯りのみで薄ぼんやりとした部屋の中央に見知らぬ男がいた。

 窓から侵入したのだろうか。男は足元に散らばったガラスや窓枠の一部を踏みしめながら「あーあ」と残念そうに、そして楽しそうに歪んだ笑みらしきものを浮かべている。

 笑みだ、とはっきりと言えなかったのは、男の顔の大半は、白い仮面と長い前髪に覆われているからだった。

 腰のあたりで絞られた衣服は首元から足首まで覆い、純白の生地には細かな刺繍が施されているようだ。ともすれば聖職者にも見えるのに、まとう雰囲気がどす黒く淀んでいることと、べったりと血に汚れた右腕がそれを台無しにしていた。

「せっかく綺麗に殺してやろうと思っていたのに、ぼくの情けを無駄にしたわけだよ君は。とんだ恩知ら、ず……」

 腕の血振るいをし、乱れていた長い金髪を整えながら早口でまくし立てていた男は、不意に言葉を止めた。

 男の視線は、真っ直ぐにアイビーに注がれている。

「なんで、君が、ここに」躊躇いがちに発された声は、狼狽えたように揺れていた。男は何かを言おうとしては口をつぐみ、また開く。まるで酸欠の魚だ。「君は、死んで、いや、そんな、まさか……!」

 男がゆらりと腕を伸ばす。長い袖に隠されていた腕は病的なまでに細く、指先まで隙間なく包帯が巻き付けられていた。腕だけではない、よく見れば首にも巻かれている。

 ――何なの、この人。

 不審者の言動や出で立ちに恐怖と怒り、強い違和感を覚えた時、こんこんこん、と軽いノックの音が響いた。

「シェアト、アイビー?」それは隣家の夫人の声だった。「何かあったのかい、どうしたんだい」

 恐らく先ほどの音に目を覚まし、様子を見に来たのだろう。音は玄関にある木製の扉から聞こえていた。

「奥さっ――――!」

 奥様、と叫ぼうとしたアイビーの口が何かに塞がれる。恐る恐る目を落とすと、包帯まみれの手がそこにあった。

 知らないうちに男が間近に迫っていたのかと全身が震えたが、そうではないとすぐに気が付いた。奴は依然、自分とシェアトから少し離れた場所に立っている。さらに目に映った異常な光景に、ひゅっと息を呑んだ。

 およそ常人では考えられないほど異様に伸びた男の腕が、アイビーの口を塞いでいた。

「ちょっと、どうしたんだい。明かりはついてるし、起きてるんだろう?」

 心配そうな声に対し、アイビーはただ呻き声で訴えることしか出来ない。男は自分の唇に人差し指を立て、黙っていろと促してくる。やがて夫人の声は聞こえなくなった。

「悲鳴を上げられるのは少し困るんだ。『はい』でうなずく、『いいえ』は首を横に振る。分かった?」

 落ち着きを取り戻したのか、男は優しげな声で語り掛けてくる。手のひらを噛んでやろうとしたが、言ったこと以外の動きをするな、と男の指が頬に食いこんだ。

 夫人は異変に気が付いているようだった。男もその可能性を考えているのだろう。

「さすがに声を上げられたのはまずかったかあ、どうせならあいつらから殺した方が良かったかな」同意を求めるように視線を投げられ、アイビーは震えながらも、首を横に振った。「こんな状況でもはっきりと意思表示が出来るなんて! やっぱり君は、」

「ここか!」

 男の言葉を遮ったのは、年若い、別の誰かの声だった。

 シェアトを襲った男の仲間だろうか。姿を見ようとしたが、顔を掴む男の力が強すぎて顔を動かせない。

 仮面の男は窓の外に目を向ける。一瞬だけ、その瞳が黄金色に光った気がした。

「遅かったね」と嘲笑う男に対し、窓の外の誰かは大きく舌打ちを返した。

「今回も間に合わなかったよ、お前は」

「……もう止めてくれって言っただろ、それを、」

「忘れたのかって? そんなわけないさ、ちゃんと覚えてた。さっきまでは」

 にたりと仮面の男の唇が弧を描く。耳まで裂けたと錯覚してしまうほどに凶悪な笑みに、アイビーが悲鳴を上げかけた時だった。

 どんどん、と玄関を叩く乱暴な音と、シェアトとアイビーを呼ぶ複数の声が聞こえる。夫人が付近の住人を連れて戻ってきてくれたらしい。音は次第に大きくなっていき、アイビーの目元に安堵の涙が滲んだ。

「ああ、もう。お前が余計な口出しをするから人が戻ってきてしまった。やっぱり一掃しておけば」

「そんなこと、俺が許さない」

「別にお前の許しなんか欲しくないさ」

「……」

 外の誰かが息を飲んだように沈黙し、仮面の男は満足げにかすかに微笑む。かと思うと、ずいっとアイビーとの距離を瞬時に縮め、耳元で残念そうに囁いた。

「まだ準備が出来ていないから一緒に連れて行くことは出来ない。だから簡単に聞かせてもらうよ。そうだな、うん、返事は次に会った時でいい」

 アイビーはシェアトの頭を抱きしめ、怯えながらも男を睨みつける。それに動じることなく、むしろ薄らと笑みさえ浮かべた男は、

「君は、ぼくのことを、覚えているのかな?」

 と穏やかに、どこか愛おしげに問いかけてきた。

「それじゃあ、あとで迎えに来るから!」

 男はようやくアイビーから手を放し、外を凍てつくような目で睨んだ後、俊敏な動きで窓から飛び出していった。その数秒後、「待て!」ともう一人も遠ざかっていく音がする。

「う……」

 口を塞がれていた息苦しさと極度の緊張から解放され、アイビーは酸素をむさぼるように呼吸を繰り返した。目を落とすと、血の気のないシェアトの顔がそこにある。彼を抱き寄せる腕が震えた。

 ばきん、と破壊音と共に騒がしい足音が近づいてくる。斧か何かで扉をたたき割ったのだろう。駆けつけてきた夫人や付近の住人たちが、血の海に沈むシェアトと、大声で泣くアイビーを保護したのはそれから間もなくだった。



 ろうそくの火が揺れる。大丈夫かい、と肩を撫でてくれた夫人に対し、アイビーは何も答えることが出来なかった。

 町にはたった一人だけ医者が住み、診療所を開いている。手術を伴うような大病は治療できないが、応急処置や軽い病気であれば、人々はまずここを訪れる。アイビーが真っ先に頼ったのはその医者だった。

 夜分である申し訳なさを感じる暇もなく、アイビーはひたすら診療所の扉を叩いた。起きてきた医者はまずアイビーの服や手についた血に驚き、次いでシェアトの状態を聞き出すと、すぐに家まで走ってきてくれた。

 だが、彼の状態を見た医者は「私ではこれほどの傷の手当てをするのは難しい」と首を振った。

 ぴくりとも動かないシェアトの横顔を見つめ、アイビーは嗚咽を漏らす。隣家の夫人は先ほどまで、騒ぎに気付き始めた町の人々に事情の説明に回ってくれていた。真夜中の襲撃ということもあり、仮面の男たちの姿を目にした者はいなかったそうだ。

 シェアトの胸には包帯が巻かれているが、すぐに赤く染まってしまう。あまりに鮮烈なその色に、アイビーは絶望すら胸に抱いていた。

 奇跡的に、彼は生きている。胸を貫通するような大怪我を負っていながらだ。だが、このままでは助からないだろう。出血がひどすぎるのだ。心臓が傷ついているかは定かではないが、動脈が切れたのは確実だろうと聞いている。

 いやだ、と首を振る。祭りに行くって約束したじゃない、目を覚ましてよ。

 かたわらの夫人がアイビーの肩を抱き寄せ、優しく背をさすってくれる。彼女のふくよかな体に身を預けると、次第に気分が落ち着いていく。自分もかつてこんな風に母に身を委ねたことがあったのだろうかと考え、こんな時まで過去を思い出そうとする自分に辟易した。そんな場合じゃない、今は現実を何とかすべきじゃないの。

「突然シェアトを襲うだなんて、何者なんだろうね、そいつは」

「……分かりません。あたしはあの人に見覚えは無かったけど、でも」

 ――君は、ぼくのことを、覚えているのかな。

 一体どういうことなのだろう。仮面の男はアイビーを知っているような口ぶりだった。しかし、どれだけ考えても男の顔に心当たりはない。

 ――あんな男と知り合いだったなんて、ここに来るまでのあたしは一体どういう暮らしをしていたの。

「そうだ、あの人、腕が伸びて……鞭みたいに、しなって」

 常人では考えられない姿に、改めてぞっとする。身震いしていると、「普通の人間じゃあなさそうだね、そんな芸当が出来るのは〈幻操師げんそうし〉くらいだろう」と夫人が呟いた。

 聞き慣れない単語に、アイビーは首を傾げる。

「〈幻操師〉?」

「知らないかい? 祭りで讃えてた伝承の男みたいに、〈幻獣〉から授かった力を操る人の事を〈幻操師〉って呼ぶんだよ。そんなゴロゴロいるわけじゃないけどさ。この国じゃあ今は確か三十人くらいじゃなかったかね。万人に一人もいないよ」

「じゃああの変な人は、そのうちの一人ってことですか」

「多分」

 薄明りに照らされたシェアトの顔に血の気は無い。目を覚ましてほしい、声を聞かせてほしい。彼を助けたくても、自分に出来るのはこうして祈ることだけだ。無力さに怒りを覚え、手のひらを強く握りこむ。

「お祭りに行こうって……約束したのに」

「祭り?」それって、と夫人は少し考えるように目を閉じ、「あれかい、聖都市の」と小さく手を叩いた。

「知ってるんですか?」

 夫人はうなずき、「もとは別の女神さまを崇める祭りだったんだけどねえ」と話し出す。

「五年前に、〈幻獣〉が原因で大規模な被害が出てねえ、国民の多くが生死の境をさまよった。そんな人々を、文字通り命を懸けて救った聖女様がいたんだよ。それを機に聖女様を讃えるものに変わったのが今の祭り。行ったのは四年前の一回きりだけど、そりゃあ楽しかった」

 そこで何かを思い出したのか、夫人は悩ましげに唸った。

「どうかしたんですか」

「いや……その祭りじゃあね、訪れた人に一つ番号が与えられるんだよ」

 夫人は太い指で宙に四角を描いた。板か何かに書かれている、ということなのだろう。

「それを読み上げられた人には、『聖女の涙』ってやつが与えられるのさ。何百人、何千人って人の中から、たった一人だけにだよ」

「聖女の、涙……」

「あたしゃ聖女様に会ったことがないから人伝に聞いた話だけど、聖女様は涙一粒でどんな傷も病も癒していったそうだ」

 つまり夫人は、どんな傷も病も癒す奇跡の『涙』に縋るしかない、と言っているのだ。

 それさえあれば、シェアトは目を覚ましてくれるだろうか。

 ふと窓の外を見ると、いつの間にか町は夜明けを迎えていた。白んだ空を、鳥たちが悠々と飛び交っている。

 ――何としても、手に入れるしかない。

「……あたし、行きます」

 アイビーはシェアトの白い頬に、決心の眼差しを向けた。

「彼は身寄りのないあたしを助けてくれたんだもの。その恩に報いなきゃ」

「行くって、『涙』を手に入れに、かい? 無茶だよ、可能性は限りなく低い。それに、」

「でも、あたしに出来る方法がこれ以外に思いつかないんです!」

 行ってくるね、と彼の手をとり、握りこむ。少しでも自分の熱が移ればいいのに、と思いを込めながら。

「彼のことを、よろしくお願いします」

 アイビーの決意を感じ取ったに違いない。夫人は何も言わず、やがてふっと微笑んだ。

「任せときな。大丈夫さ、シェアトは案外丈夫だからね。きっとあんたが帰ってくるまで持ち堪える」

 夫人の温かな瞳に、アイビーはきゅっと唇を噛んで笑った。本当ならばシェアトに寄り添っていたいが、じっとしているわけにはいかない。このまま彼が死んでしまったら、自分は後悔するだろうから。

 お守り代わりに持ってお行き、と夫人は自分の髪を結っていた幅の広いリボンをアイビーに渡してくれた。中央部分には〈幻獣〉カラドリウスが刺繍されている。

「番号が読み上げられるのは祭りの最後だ。それまではやきもきするかも知れないけど、焦っちゃダメだよ」

 言い聞かせるような彼女の言葉にアイビーは力強くうなずき、受け取ったリボンで髪を結った。

「『涙』を手に入れたら、すぐに戻ってきます」

 壊れた家の修繕はうちの旦那たちに任せときな、と夫人が笑顔で送り出してくれる。『聖女の涙』だけでなく、協力してくれたお礼も都市から持ち帰ってこようと決めた。

 廊下を歩きながら、ふと違和感がよぎる。

 ――聖女が分け与えたものは、『涙』じゃない気がする。

 どうしてそう感じたのかは自分でも分からない。戸惑いながらもアイビーは旅支度を整え、家を飛び出した。

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