Gold in the gray

橘士郎

Her

 春のおわりは夏の始まりを予感させるが、実際にその先に待っているのは梅雨の始まりである。そして梅雨の始まりを予感させるのは、湿った空気や重く鈍い頭痛や巻きあがるペトリコールでありペトリコールに包まれる新宿の街は晴れの日でも灰色を連想させる。排気ガスや、ガラス張りのビルや、サラリーマンのくすんだスーツの色が新宿の街に溶け込んで、一体となり一つの空気感を作り上げている。

 その重く鈍い頭痛とまとわりつく温い空気から逃れようとペットボトルの水を一気に流し込むが、温くなった水が体内に侵食してきて、体が余計に灰色に近づいた様な感じがする。


 新宿という街が、好きだ。なぜならそこは自由な気がするから。繁華街を抜けて少し路地に入るとそこには一面のグラフィティアートが広がっている。東口からでて右に進みさらに左に進んだところにあるラブホテル街には韓国料理の店が立ち並んでいるし、少し戻れば服屋、ダーツバー、居酒屋、靴屋、そのほかにも大量のカルチャーが存在している。そしてそれらが織りなすカオスが、灰色という一色の中で滔々と営まれている。まるでその街自体が生き物の様にうごめいている。人の流れは血液で、経済は代謝。町全体が大きな生物でその中で色々な臓器が俺はここにいるぞと自分を誇示している。しかしその輝きは全て新宿という街の灰色の部分にフィルターされて、個性というよりは新宿という灰色の一部として扱われてしまう。そんな中で営まれる人間の活動が、美しく見える。誰とも知らないあそこを歩くホームレスにも、あのサラリーマンにも、あの女子高生やギャルにも人生がある。そしてその人生が混ざり合いその最終的な色が減法混色的に、限りなく黒に近い灰色に収束していく。新宿はゲシュタルトである。そして自分もその灰色の一員になれる気がするから新宿と言う街が好きだ。自分が孤独じゃないという事を教えてくれる。


 ある時女に出会った。新宿の飲み屋で出会ったその女に一目ぼれした。きっと女も俺に一目ぼれしたのだろうと思う。名前を糸崎 莉愛という。彼女とは出会ったその日に連絡先を交換して終電を逃した事を理由に二人でホテルに泊まり、セックスをした。

 普通、生きている時はどの行為中もその空気感という物を覚えているものだ。例えば新宿は灰色だとか、あの時は楽しく鮮やかだったとか、要するにその行為や出来事に対する印象である。そしてそういう印象は心にしっかりと刻まれていて、ふとした時に思い出す。それは柔軟剤の匂いだったり、汗の匂いだったり、温度だったり、柔らかさだったり、そういうのは基本的に匂いであることが多いような気がする。しかし、彼女との一夜にはそういったという物が無かった。と言うより彼女を思い出すためのきっかけとなる印象をうまくつかめなかった。

 だが彼女の全てを思い出せないという訳ではなく、むしろ逆で彼女についてなら隅から隅まで思い出すことが出来る。例えば乳房の大きさ形、手の大きさ、唇の柔らかさ、シャネルの五番オードパルファムの香り。そして瞳に輝いた照明のゴールド。上から見下ろされた時に瞳に光るあのゴールドが、オードパルファムと一緒に鼻腔をくすぐる感覚。そういった感覚を全て思い出すことが出来た。当時それがなぜなのかは理解できなかった。何故彼女はきっかけ無くして脳内に直接像を結ぶのか、どうしてそこにいないのに五感をくすぐり弄ぶのか。その不思議な感覚と共に気が付くとどんどんと酔いしれていた。香水、汗、体温、柔らかさに酔わされていく。自分と他人の境界が曖昧になって、すぐそこに彼女がいる様に感じる。まるで感覚が同期したように。


 その後も彼女と肌を重ねるたびに、俺はその不思議な感覚に身を溶かされていった。


「なんて言っていいか分からないけれど、君はまるで一人で一つの街みたいだ。いろんなものを内包しているからカオスで、でもその美しい容姿が全部を統一して君を形作ってる感じがする」


 彼女は俺の上にまたがりながら微笑んだ。


「あなたは、一人が怖いんでしょう?」


 うなづく俺の頬から胸板までを指先でなぞっていく。


「だから、私と一つになりたいんでしょう」


 彼女が体を下ろしてキスをする。彼女が舌を吸い、俺が舌を吸う。舌先から垂れるお互いの唾液を舐めとって彼女はゆっくりと腰を動かし始める。


「私は、一人は怖くないけれどあなたといると自分を実感できる。ほかのセックスでは感じられない感覚、わかる? まるで水と油が共存しながらもお互いの境界線を意識して生きているみたいな」


「わかるよ。俺は油で君は水だ」


「そう。けど乳化剤は無いからこうして、偶にお互いを確かめ合うの」


 彼女は自分の中からペニスを抜いて、今度は自分が仰向けに寝転がる。俺は覆いかぶさるようにしてキスをして、乳首を舐め焦らす。もう一度彼女にキスを求められようやくペニスを挿入する。まるで一体化しているのに、まるで別物だという事を実感する。彼女と言う街の中に入っているが、彼女と言う街は俺を住人としては受け入れない。とりとめのない戯れの様に、お互いの体をまさぐり合い、俺は彼女の住人になろうと体を溶かそうとするが、そうすればそうするほどに彼女との境界は目に見えて分厚くなっていく。それはコンドーム分の距離ではなくて心の距離でも無くて肉体が別物であるという事を否応に実感させられる。どれだけ近くにあろうともパーソナルエリアは消えない。彼女が俺を拒んでいるのかあるいは、その逆か。


 セックスが終わると彼女はいつも音楽を流す。そしてその曲は決まって宇多田ヒカルである。まるで恋に恋をしている少女の様な目で、彼女は天井を見つめながら指でリズムをとる。


「一人は好きだけど、孤独がきらいなのね」


 何も言わない俺の手を握る。


「だから、孤独にならないように私と寝るのね。けど一人が好きだから自分を否定せずに一つになれる相手が欲しいんでしょう」


「都合いいひとね」と彼女は苦笑した。いつしか、灰色の街とそこを徘徊する理由を彼女に話したことがある。そして自分が居場所を求めていることに気が付いた。まるで自分専用の特注のソファみたいに座り心地のいい場所を求めていたのだと。


 そこまで分かっていても、彼女は決して最後まで心の距離を詰めてはくれなかった。それはただのセックス・フレンドだからではない。俺は彼女の事を愛していたし、彼女も俺の事を愛してくれていた。だからセックス・フレンド以上の関係だったことに違いはない。しかし、いや心の距離を詰めなかったのは俺の方なのかもしれない。


 彼女はずっと側にいた。しかし俺は彼女を追いかけていた。だから追いつくことが出来なかった。ずっとずっと側にあった幸せに気が付かず、ただ追うだけの恋をしていた。そしてその恋は愛ではなく、居場所への執着、依存なのかもしれない。しかし俺は彼女の側を離れることが出来なかった。それについて悩む俺の姿を見るたびに彼女は「本当に都合いいひとね」と笑った。


「もちろん、楽しいことばかりじゃないわ。けど孤独じゃなければそれはいつか思い出話の花になるから」


 そう言う彼女の手をつないで新宿の街を歩く。セックス以外の始めてのデート。ウィンドウショッピング。笑いながらグッチの鞄を指さす彼女の目にはゴールドが反射している。そのゴールドは次第に光を強めて、まばゆい光が視界を包んだ。かと思えば季節は夏になっていた。


 夏のセックスに彼女はあえて冷房を付けようとはしなかった。蒸される様な熱気の中で二人で体液にまみれる。覆いかぶさる俺の背中から汗があふれて抱きしめる彼女はその汗を舐めとる。お互いの体を隅々まで舐め合って、汗を飲み込み、気が付くと、俺は心の距離を感じなかった。夏の熱気にうなされて脱水症気味のふらつく頭で彼女を求め、彼女に求められる時、俺はそこに一切の壁を感じなかった。表現するならばナメクジの交尾の様な。お互いの体液でドロドロに溶けあって、熱気の中で二人は一つだった。そしてやはり彼女の瞳にはゴールドが輝いていた。どんどん膨張するゴールドが光り、俺の視界を奪った時に気が付くと俺は新宿の街の中にいた。


 灰色の空が街全体を覆っている。新宿は相変わらずの灰色である。脈々と人流が血流の様に流れていく。光る看板の経済が代謝している。ふと違和感を覚えた。ずっと感じていたはずの何かが自分の中に無いような欠けている様な感覚になる。彼女はあのセックスの後から音信不通になった。どうやら捨てられた様だった。


 俺は今日も新宿の街を散策する。しかし今までとは違う。灰色の一員になるためではなく、今の俺はゴールドを探している。灰色の中でも光り輝くゴールドがある事を知った俺は、ずっとずっとそのゴールドを探している。


 彼女の言葉を思い出す。


「私は私、貴方は貴方、自己は相対でも生き方は絶対だよ。だから自分を生きて、悲劇なんて存在しないの。私が私で、貴方が貴方である以上はね」


 つい、一人ごちる。


「また逢う日までは、」


 炎天下の新宿は、しかしまだ灰色である。夏も深まり灼熱がビルの谷間を焦がすようになっても、灰色はまだ全体を支配している。


 俺はまだ、ゴールドを探している。その輝きを忘れられないでいる。プラチナも、ダイヤモンドも天の川でさえ霞んで見えるほどのあの瞳に光るゴールドを。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Gold in the gray 橘士郎 @tukudaniyarou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ