第91話 背凭れと肩の荷

 薄暗い部屋の中、まばゆい光を放つ画面を前にして一人座る男がいた。


 画面の中では、若い四人が目に火を灯らせて計画の必要性を熱弁している。年を経てしまった彼には、その火を宿すだけでも一苦労だというのに。


 こんな気軽に決別されるような関係性だと、想定していなかったのが間違いだったのだろう。大したことでもない、ただただ話し合えば済むような出来事を、ここまでの大事にしたのは何が目的なのだろうか。彼の疲労感に塗れた思考ではそれすらも思いつかない。

 彼の手には報告書と題された書類が握られていた。一つの懸念として、少なくとも無視する訳には行かない案件だった。…………ただ、何も中止にしなくとも良い。せめて規模を縮小するだけでも、ここに言われている通りの危険性は少なくなるだろう。そう言えれば良かった。彼らがこうして公に行動を始める前であれば、根回しなどいくらでもできただろう。

 例え危険が明確に立証されたものでなくとも、出来る限りの危険を避けてこその為政者だろうに。


 あぁ、彼らは為政者ではなかったか。


 …………何よりも想定外だったのは、ここまでの微妙な立ち位置に現状を落とし込んだことだろう。彼自身だけではなく、彼ら四人をも。

 どちらかが悪だと断じてしまえるような状況であれば、人というものは付いて来やすいものだ。特にこうした限界状況に於いては、全ての人を導けるだけの明るい光が必要だった。選択肢が増えれば、それだけ人は迷うのだから。


 これから先の行動を、彼は脳内で作り上げて行く。自らを悪人として仕立て上げるのか、それとも彼ら四人を反逆者として人類共通の敵だとするのか、それとも和解の道を探すか。

 和解? 本格的に宣戦布告をされている訳でもない状況では、そう名付けることすらできないだろうに。

 …………彼らの行動の本質は、ただの命令違反だ。それを、影響力を持った者が、公の行動として行ったのが波乱の原因だった。一度や二度命令に従わなかった程度、それ相応の理由があるのであれば度を越して咎められるようなことでもないだろうに。


 まぁ、ただ、彼らの行動原理は理解できないでもなかった。


 人の命がかかっている事態において、新たな懸念がふと湧いて出て来たからと言って、行動を止めるべきではないだろう。

 加えて、より観念的な話にはなるが、人間が常に正確な判断をすることなど不可能に等しい。例え如何に優れた人間がいたとしても、一度たりとも誤りを起こさずに生きて行くことはできない。それが人というものだ。そう、彼自身の判断が間違っているとも知れない。だからこそ、彼ら四人の若さ故の行動を表立って咎めるような気にはどうしてもなれなかった。


 視線も向けずに、冷めかかった紅茶へと手を伸ばす。彼の瞳に移る者は、失望でも落胆でもなかった。ただただ冷たい瞳だけが現状を見つめている。


 再度、手元の資料へと視線を落とした。意識をそちらに集中させるに連れて、画面から飛び出してくる音が段々と遠ざかって行くような気がした。一度瞬きをする。


 ……………彼がこうして真剣に取り合っていたのは、偏にその研究所の態度が真面だったからに他ならなかった。

 懸念事項を発見したから、本来であればもう少し時間を掛けて情報を集めてから世間に公表するものを、仮の状態で送信することに決めた。そう語る文面は整合性が取れていて、むやみやたらと混乱を齎したいがために行ったようなものにも見えなかった。研究資料として扱われている事例が――――主に数値的な点で――――異様である訳も、詳細は口外しないで欲しいという文面と共に丁寧に語られていた。


 昨日、一度だけ電話でこの資料の作成者と話をした。その時の声音が未だ耳の奥へと染み付いているような気がする。緊張のような、憧憬のような、恐れのような、何ともつかない少し上擦った声だった。


 申し訳ないと、不意にそんなことを思う。一瞬自らの感情に疑問を抱いた後、それがの研究所の面々に対してであることを自覚して、思わず苦笑した。

 世間一般に気軽に公表しない方が良いだろうという忠告も、思わぬ形で守れなくなってしまった。彼らの努力の成果をも活かせなくなってしまうかもしれない。


 背凭れへと全ての体重をかけて、大きく一つ息を吐く。何か肩から荷が下りたような気がした。自らの立場が軋みを見せたためにそう感じるというのも不思議なものだが。

 最後に背もたれに背中を触れさせたのは何時だっただろうか。まだ自らを信じられなかったときに、せめて姿形だけでも整えなければと決意して、それからはずっと椅子に深く腰掛けるようなことはしなかったように思う。


 妻のことを思い出す。彼女の笑顔を。


 腐っている場合ではない。自らにできることを探さなければ。まだ、何も全てが終わったわけではない。

 自らの地位など気にしなくても良い。何なら今回の出来事で何ら傷付かない可能性もあろう。彼ら四人は、彼のことをいたずらに悪し様に言っている訳ではないのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る