第102話 龍
街の中に希望が広まって行くのに時間は掛からなかった。統率の取れた魔物の集団に困惑する者は数多くいたが、それでも彼らに攻撃の意思がないと分かれば、自らに降りかかる危険が退けられたと喜ぶ者も多かった。
直接的に青年や彼に付き添う白狼の活躍を見ていた者は、それ以上の感情を抱いていた。遠目に見ても際立って見える彼らの活躍は、それだけで見ている者の心を動かす。一目見て直ぐに彼らが先日報道された魔王だと識別出来た者は少なかったが、「魔王」の躍進に対する話は目にも止まらぬ速さで広まって行き、次第に半数以上の人間が魔王について顔を輝かせながら何かを語っていた。
それが、現状尚数を増やし続けて続けている死傷者から目を逸らした結果だとは言うまでもない。何か希望を持てなければ正気を保てないような極限状態が、未だに続いていた。
そうして灯された希望の火が吹き消されたのは、その直後だった。
―――――羽音。
上空から聞こえる、翼が空を切り裂く鈍い音。視界を覆う巨大な影。着地の轟音。地響きのような重い振動。
その黒い巨体は全身が鱗に覆われていて、その一つ一つがガラスのように硬質な光を放ち、ソレが身動ぎをする度に甲高いガラス然とした音を発している。風鈴のような冷涼な音は重量感のある見た目にはそぐわず、見ている者に不協和音にも似た違和感を抱かせる。
足は太く、筋肉質で、歪曲した爪は地面にめり込んで周囲に亀裂を作り出している。体の細部を彩るように走る黄金の線は、血管のように全身へと走って、光を放ちながら脈動していた。
龍が、その頭を上空へと持ち上げる。
「―――――――――――ッ!!!!」
太い喉から発された咆哮は、全身が震えるような重低音となり、その轟音が周囲を揺らしながら衝撃波の波紋を広げていった。
残響が街を満たした数瞬後、龍は全身を武者震いのように振るわせ、そして周囲を緩慢な動きで睥睨する。
翼の付け根を支える筋肉は重厚で、触れれば破裂しそうな程に筋肉が詰まっていた。同じことが全身にも言え、特に首筋から前脚の付け根にかけては野性味のある身体美を体現している。
瞳は高濃度の魔力のように青白く光っていて、その上部から伸びる太い角は老骨な水牛のそれのようであった。全身から溢れ出るような魔力が、空間を
龍は無言で、四車線の狭い自動車道を進んで行く。
頭部は、高層ビルの半分程の高さにまで及んでいて、それを間近で見ている者達は息を殺して、気配を殺していることしかできなかった。高さ数十メートル――――――普段は人混みをそうと認識できない程に遠いはずの地面であるのに、龍がそこに立ってしまえば、あたかもこの都心全体がミニチュアであるかのようにさえ見えた。
街を進む龍の足音が、低い音で広く伝播して行く。それは何か大きな恐怖の前兆のようで、小国を踏み潰して回る強大な帝国の銅鑼のようだった。
龍が徐に片足を持ち上げる。息を呑む間もなく、悲劇は引き起こされた。
響き渡る悲鳴。それは、龍による攻撃の被害者の声ではなかった。一瞬で倒壊したビルの内部では、悲鳴を上げようにも上げる暇さえなかった。それは、悲劇を目撃してしまった者達が、無自覚の内に上げている悲鳴だった。
内部にいる者は、即死だ。崩れ行く建物の中で、全てを破壊せんとする衝撃の中で、現状を理解することも出来ずに、彼らは命を落としていった。
龍は、気にした様子もなく、倒壊したビルを踏み越えて、一つ隣の道路へと踏み込んで行く。
巨大な建造物を些事のように突き倒したのは、何も龍の体躯だけが問題ではなかった。通常、鉄筋コンクリート製の建造物を倒壊させるには、少し強く押した程度では倒れない。巨大な身体に、その容貌に見合うだけの膂力、そして─────その魔力の作用が、龍の力の根源だった。全身を巡る魔力を血液のように全身へと送り、そのエネルギーの奔流を制御する。魔物を大量に屠った人間が時間を掛けて習得するそれを、遥かに高いレベルで、まるで呼吸でもするうかのように扱う。それが龍という生物だった。
人間が龍に敵うことはない。
その身体構造、その魔力的性質、その巨躯────全ての要素が、龍の人間に対する優位鵜性を示している。
しかしそれでも、闘わなければならない者がいる。
巨大な龍へと迫る影が幾つもあった。影は全速力で龍の足元へと迫って行き、その身体を可能な限り昇って行っては、その硬質な鱗を剥がさんと牙を突き立てる。
直ぐに龍の足元は、大量の魔物によって囲まれた。高さだけ見ても龍の四分の一程しかない魔物達の抵抗は、それでも龍の注意を全て引くには足りなかった。龍は一瞥して、右足を一度薙ぐように振って魔物を吹き飛ばす。龍は更に進んで行く。
膠着状態とも呼べないような魔物の奮闘が数分の間続いて、龍の動きはついぞ止められないかのように思われた。
ふと、龍が足を止めて一方に視線を向ける。彼の視線の先では、白狼の上に乗る青年の姿があった。龍は、口の端を吊り上げる。
この地に降り立ってから、初めて浮かべる生気のある表情だった。
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