第103話 上空
至近距離の龍を前にして、淳介は表情を歪めた。
普段実験の度に目にしていたような龍とは個体が異なるようで、想定していたよりも遥かに巨大な胴体だった。発している空気感は予期していたよりも遥かに重いもので、彼が齎した被害は信じられない程に甚大だった。
眼前の倒壊したビルに淳介が息を浅くする。胸が潰えんばかりの痛みが走って、思わず
先の一撃で、どれだけの命が奪われただろうか。
こうして街を走っていれば自覚することではあるが、この都心に住んでいる人々はそれぞれが、それぞれの生活を営んでいる。……………何を当たり前のことを、と淳介は自嘲した。
通常の人間よりも性能を遥かに引き上げられた視力に映し出される人々の表情はあまりに鮮明で、どこかで悲鳴が聞こえる度に彼らの顔が脳裏に浮かんでくる。そのたびに心臓が破裂する程の勢いで早鐘を打って、何かが引き裂かれるような痛みが胸を穿った。
例え彼の身体が規格外であるとしても、彼の精神は通常の人間と何ら変わりないものだった。人死にが出ればそれだけ精神的動揺を受け、誰かが死にかけて居ればそれを助けようと思わず動いてしまう。何か急に判断を迫られれば、思わずそれを先延ばしにしてしまう。人並みに正義感を感じ、人並みに理不尽への怒りを覚える。
だからこそ、彼が此処までの力を得てしまったのはある意味では不運だった。
「必要とされていないのだから」と、「相手が自ら断って来たのだから」と誰かの命を見逃せるような性格であれば、また話は変わっただろう。もし何を言われようとも、自らの力を盾に自己弁護が出来るような人間であれば良かったのだろう。
しかし彼は思考が回る人間だった。誰かの感情を想像できるほどには、客観的な視点で物事を観測できる者であった。
淳介は、
彼らを見た龍は満足げな表情をして、上空へと炎を吐き出した。その熱が、離れた距離に立っている筈の淳介の頬にまで届いて、肉が焼かれるような鋭い痛みが皮膚を覆う。
淳介と柚餅子が共だって走り出したのはその直後のことだった。龍が悠然と待ち受けるその中で二人は瞬く間に彼の許へと辿り着き、その足に噛みつこうとしている魔物の集団の中に飛び込んで行く。
柚餅子が選んだのは、牙ではなく頭突きだった。頭部を軽く下げて、全身に力を込め、そのままの勢いで龍へと体重をぶつける。巨大な質量同士が衝突した衝撃波が、その場の空気を一度支配してその直後に鈍い音が広がって行った。
軍団の魔物よりも更に一回り大きい柚餅子の一撃は、流石の龍を以てしても厳しいものがあったのか、龍は体勢を崩して後退る。そこに大量の魔物が飛び掛かる。足に牙を突き立てるものが居れば、跳ね上がって頭部に飛び掛かろうとするものもいる。
文字通り死力の限りを尽くしたその攻撃一つ一つは龍へとは届かねども、全てが合わさって一度に押し寄せられるとなれば、それを全て無視する訳にも行かなかった。淳介の登場によって攻撃を加速させた魔物達は、龍が対応させる間を与えないようとしているかのように次々と飛び掛かって行く。
ところで、大量の大型の魔物が飛び交っている状況では、たかが力が強いだけの人間は、視界にも留まらない。龍は既に彼からは視線を離していて、淳介の影は魔物の波に呑まれて陽炎のように消えていた。
――――――耳を刺すような甲高い音が響く。
龍が痙攣でもしたのかのように足を持ち上げた。そしてそこに、更に魔物が跳んで行く。煩わしそうにした龍はそれを素早く振って魔物を羽虫のように付近のビルへと叩き付ける。
露になった龍の足では、鱗の一つが砕けて一部が剥がれていた。
あれだけの魔物の攻撃を以てしても破壊されなかった鱗が、今になってやっと突き崩された。それも、小柄な人間の手によって。
龍が慌てたように態勢を整える。
もう一度甲高い音が響く。更にもう一度。そして更にもう一度。
龍が目に見えて苦しみ始めたのは、それから直ぐの事だった。剥がされた鱗の下の皮膚は、ガラス質の鱗よりは格段に柔らかく、魔物の牙がかろうじて通る。飛び掛かる魔物の勢いを時を経るにつれて増して行くようで、群がる者共を叩き潰さんと振り回される前脚や長い首を避けながら、彼らは龍に着実なダメージを与えて行った。
龍が口を開き炎を吐き出そうとする度、それを柚餅子が噛み付いて阻止する。開こうとする顎の部分に直接的に噛み付くことで、周囲に焼死体が広がることを防いでいる。
淳介は、暴れ回る龍に振り回されながらも、その全身に傷を増やして行くことを怠らなかった。
魔物よりも更に理不尽な存在である龍が、目に見えて苦し気にしている。その情景は人々の心臓に火をつけるのに十分だった。
軍団により路上から魔物が減ったのを良いことに、避難を先導しようとする者がいる。魔王へと何かを叫ぶ者がいる。龍に相対する彼らに歓声を上げる者がいる。
いつの間にか、その付近全体が信じられない程の熱気に包まれていた。龍の視線を掻い潜りながら、大量の人員が遠くへと逃げて行く―――――――人類に救いを齎そうとする魔王へと快哉を叫びながら、龍による恐怖を吹き飛ばそうとする勇者たちへの称賛の文句を叫びながら。
龍が翼を広げた。その薄い皮膜のような部分に、ここぞとばかりに魔物達が飛び掛かって行く。一瞬で大量の魔物をぶら提げる形になった龍は、それを強引に振り払って翼を一振りした。
太さだけで人の胴体の数十倍もある大腿部に剣を差し込んでいた淳介は、それに気が付いて必死にその剣を握り締める。彼の体は既に宙に浮いていて、龍が全身を動かす度に乱雑に周囲に振り回されていた。
龍が、更にもう一度翼を羽ばたかせる。
吹き付ける暴風に恐怖を感じながらも、淳介は剣を握った手を離さなかった。
龍の巨躯は、轟音と呼べよう羽音を響かせながら、宙へと浮かび上がった。その体にしがみ付いたままの淳介を残して。
誰かが、龍の退散を見て叫ぶ。
その被害が多大なるものであったとしても、その勝利がたった一人の青年からもたらされたものであったとしても、それは人類にとって、正真正銘の初の一歩だった。
魔物の軍団は茫然としたように上空を見つめていた。龍が去って行く方向を。柚餅子が、腹立たし気に強く地面に足を叩き付けて、そのまま顔を高く突き上げて遠吠えを上げた。
龍の方向に劣らない程の轟音が、周囲へと広がる。それは人類の勝利宣言のようで、彼の声を耳にした者達は揃いも揃って両手を上空に突き上げた。
龍は羽ばたく。遠くへ、そして遠くへ。
後には、諸所が破壊された街だけが残った。
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