第100話 「魔王」の躍進

 少年は、果敢にも魔物に立ち向かっていた。


「逃げて、お願い…………」


 母親が後ろで小さく呟く。彼女の足は既に血に塗れていて、その近くでは少女が彼女の母親のことを支えるようにして座っていた。


 少年は小さな手を精一杯に広げて立つ。足は震えていて、恐怖に上手く呼吸ができない。背筋を流れる冷汗が気持ち悪かった。


 魔物が低い唸り声を上げながら口の端を吊り上げる。魔物の口の周りには既に血痕が付着していて、鉄のような血の匂いが辺りへと充満していた。

 人を食べる喜びを覚えたからか、それとも真性の残虐性が表に出たのか。魔物は唇で渇いた血液を舐め取るように、口の端から舌の先端を覗かせた。少年が生唾を呑み込む。


 母親の目には、痛みだけではない涙が溢れていてた。


 ゆったりと、魔物が足を踏み出す。その表情は醜悪で、その息遣いは荒い。



 ―――――――轟音。



 唐突に響いた破裂音のような鈍い音に、少年は思わず目を瞑る。続いて聞こえて来たのは潰れた喉から逃げ出て来たような呻きと、更なる打撃音だった。


 一瞬辺りが静まり返って、少年はやっと瞼を持ち上げる。咄嗟に顔を覆った両手の隙間から覗いたのは、細長い身体をした青年だった。


 母親が信じられない思いで、「あ…………」とかすかな声を漏らす。


 彼の手に握った剣には鮮やかな鮮血が張り付いていて、その冷えた視線を下ろした先には首筋が叩き潰された魔物が斃れていた。

 先程までの、恐怖を体現したような魔物の姿と、今の死骸との様子があまりにも一致せず、彼女は静かに瞬きをする。眼前の危険が去ったという実感が、少しの間待っても出てこない。どこか茫然としたまま、頭部があらぬ方向にれた魔物を、ただただ呼吸も忘れて見つめ続ける。


 青年が静かに顔を上げた。その視線の動きに合わせて、少年もまた青年を見つめ返した。青年は、魔物を見下ろしていた感情のない視線とは打って変わって、僅かな笑みを浮かべて三人の事を見る。


 その柔和な表情を見て、母親の胸の奥から湧き上がってきたのは安堵だった。張り詰められていた緊張、思考を支配していた絶望、それらが全て一挙に消えて行ったせいで、全身から力が抜けて、安心したように涙が溢れ出て来る。

 未だに思考は状況に追いついていない。何が何だか、少しも理解する事が出来ない。それでも、目の前に迫っていた危険が過ぎ去ったことだけは分かった。


 母親自身も、我が子二人も、死んでしまうと思っていた。何もかもを諦めていた。どうしようもないほどの理不尽に、全てを奪われて終わるのだと思っていた。


 少しの間さめざめと泣き続けてから、彼女は「ありがとうございます…………」と、涙につかえながら、頭を下げて礼を伝えた。痛む足にも構わずに何度も頭を下げ続ける。「ありがとうございます、ありがとうございます……………」と、そう呟く声は涙声で、弱々しかった。

 少年は未だに茫然としている様子で、立ち止まったまま動かない青年の事を見つめている。青年は困ったような表情をしていた。


「…………あの、これを」


 ぼそり、と一言呟いた彼は、腰に掛けていた小さなポーチから何かを取り出して、母親へと手渡す。「ないよりは良いと思うので」と慌てたように付け足して、青年はそれを彼女に押し付ける。


 実感が戻って来た少年が、その場にへたり込む。足には既に力が入らず、少年は気が抜けたように口を開いたまま彼の事を見つめていた。

 青年はその視線に気が付いて、少年の頭を軽く撫でる。


「良く頑張った」


 小さくそれだけ呟いた彼は、左手に持っていた剣を握り直して、姿勢を正す。


「まだ母さんのことは守っていられる?」


 青年は、そう少年に問う。瞳に生気を取り戻し始めた少年は、その質問の意味を理解して何度も勢い良く、強く頷いた。


「…………偉いな。ここは危ないから先ずは上に連れてってあげて」


 彼は、そのまま破壊された窓から部屋を出て行った。小さく「頑張れ」とだけ言い残して。

 現実に理解が追い付かない三人が見つめた先、窓枠の奥に見えたのは、白く巨大な魔物と、その横に立つ先程の青年だった。彼らは何かを頷き合った後、直ぐに駆け出す。

 一陣の風のように、彼らの姿は一瞬で窓枠から外へと消えて行った。


 そうして幾らかの間、外を呆けたように眺めていた少年が、はっと気が付いたかのように彼の母親へと視線を戻す。

 少年が「お母さん、それ、多分回復薬ポーションだと思う」と言えば、彼女は慌てたように手にしたガラスの容器を見分した。市販で販売されているようなものとは似ても似つかないが、そうだと言われれば何故この場で渡されたのかも確かに納得が行く。


 今更、何か重要なものを渡されてしまったような気がして、母親は申し訳なさそうな顔をした。彼が今、何かと闘っているのであれば、回復薬は何にもまして必要だろうに。

 そんな彼女に取り合わないで、少年はガラス瓶の蓋を開けて、それを母親の足の傷へとかけて行く。母親は液体が染みた痛みに身を固くした。


「上に行かなきゃ。ここだとアブナイから」

「………翔太、支えてくれる?」

「うん。できるよ」


 母親は少女にも弱々しい笑みを向けて、彼女が「お母さん………」と切なげに言うのを、頭を撫でて慰める。精一杯小さな体を使って母親を支えながら、少年は建物の上を目指して進み始めた。


 階段の踊り場には小さな窓が付いている。少し休憩をしている母親が手すりに捕まっている間に、少年が一瞬だけ視線をその窓へと向ければ、外の遥か遠くの道路で小さな影が動いていた。

 それは確かに、あの青年と、白い魔物の姿だった。

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