第99話 希望の行進

 人々の間に最初に広がったのは困惑だった。「ほら、あそこに…………」と誰かが呟く。その人物がどこか遠慮がちに指さした先では、遥か遠くに何か動物のようなものが動いていた。

 最初は小さかった陰も、少しの間もしないで段々と姿が大きくなって行く。近付くにつれて、それが何かであるかは明白になっていった。


「どうしてこんなところに…………?」


 高層ビルに囲まれた道の最中さなかで、魔物が足を止める。


 困惑しながらも、住民たちは窓越しに見守っていることしかできなかった。

 迷宮ダンジョン、ひいては魔物が発生してからの十年間、この都心に魔物が入り込んでくるような事態など一度もなかった。それでは何が起きているのかも、何をすればいいのかも分からない。静かな狂騒パニックが人々の間を走り抜けて行く。


 魔物が周囲を探りながら、ゆったりと前に進んで行く。しかしその表情は、ビルの上から眺めている者達からしてもはっきりと分かるほどに歪んでいた。

 魔物がこの世界へと産み落とされてから、既に二時間近くが経っている。その発生機構メカニズム上、胃の中に何も含まれていない状態で発生する魔物は、既に空腹に苦しんでいた。だからこそ、彼らはこの街の中心部にまで繰り出してきたのであり、だからこそ彼らの表情は歪んでいる。


 あぁ、「彼」ではない。「彼ら」だ。


 魔物が増えた、と誰かが呟いた言葉を皮切りに、人々が各々の部屋の中で騒ぎ立て始める。

 何かを繋ぎとめるかのように抱き合いながら外を眺める家族達。絶望したかのように窓に張り付く独り暮らしの若い男。互いを身を寄せ合う恋人達。誰も彼もが、何かしらの異常事態が発生したことを察していた。

 魔物が建物の狭間を闊歩し始めてから既に十数分が経っている。今では既に付近で暮らしている全員が、ふらふらと彷徨する魔物達を注視していた。


 魔物は時を経るにつれて数を増やして行く。様々な動物を混ぜ合わせたような歪な姿をした魔物達が、腹立たしい様子で周囲を嗅ぎ回って行く。

 死体に飢えた食肉目のように、魔物達は徒党を組みながら獲物を探し続けた。


 そして、彼らが周囲を威嚇して回っているのは、ただ単に空腹であるからではない。魔物達が威嚇しているのは、明らかに、、、、餌の匂、、、いがする、、、、というのに、彼らが姿を見せないことに腹を立てていたためだった。


 彼らは、獲物を探して街中を這いずり回る。






 どれだけの間、彼らを眺めているだけの時間が過ぎだろうか。


 ―――――――悲鳴。


 どこかからか聞こえて来たつんざくような金切り声に、住民たちは身をすくませる。

 現状を知るために騒ぎ立てる間もなく、悲鳴の理由は直ぐに判明した。分からないわけがない。何せ、周囲にて同じような悲鳴が上がり始めたのだから。


 彼らが見ているのは、建物の中へと窓を突き破って飛び込み始めた魔物達の姿だった。建物に張り付くようにして上へと昇って行く個体もある。

 上に逃げることはできない。建物から逃げることなどできるはずもない。彼らが出来るのは、人の匂いを嗅いで空腹に涎を垂らす魔物が訪れないことを祈りながら、部屋の影で縮こまることだけだった。


 地獄のような時間だった。どこかで何かが壊れる音がする。そしてその後を追うように悲鳴が聞こえて来る。耳を澄ませば、魔物の足音でさえも聞こえるようだった。


 涙を流す者がいる。顔面蒼白で、泣き出そうとする赤子の口を塞ぐ母がいる。誰も彼もが、突然身近に訪れた死という存在に恐れおののいている。


 時は遅々として進んで行かない。一つ一つの呼吸の合間が、数分にも、数十分にも、数時間のようにも感じられる。今にも魔物が跳び出して、自らの頭を掻っ攫ってゆくような恐怖が、辺りに立ち込めている。


 一つ、一つ、命が失われて行く。品定めなど行われる訳もない。ただ、そこにいたから。それだけで命は奪われて行く。ただ、一人一人の命は等価値で、無差別に弑されて行く。


 そこに希望などなかった。突然始まった殺戮劇は、慈悲もなく絶望だけを撒き散らしていった。






 どれだけの間、そうしていただろうか。どれだけの間、都会生活で見知りもしなかった隣人の断末魔を聞かせ続けられていただろうか。


 ―――――――ふと、誰かが歓声を上げた気がした。誰ともなく、互いに顔を見合わせる。


 と、それを打ち消すように、どこかで魔物が遠吠えを上げた。芯のある、よく響く声だった。

 人々は顔を上げる。勇気を持って窓から外を除いた者が見たのは、明らかに体躯の大きな、洗練された筋肉を持つ魔物達だった。彼らは、新たな敵――――――更に絶望的な敵を前にして、次なる恐怖に、ただただその魔物を見つめることしかできなかった。


 しかし彼らが取った行動は、絶望した住民が想像していたものとは異なっていた。


 小柄な魔物を蹴散らすようにして、建物を駆け抜けて行く。建造物の外部に備え付けられた階段を駆け上がり、そこで建物の中に入って行こうとする魔物に噛み付き、剥ぎ取るようにして魔物を壁から引きはがし、ビルの上から突き落とす。

 統率された軍隊のように、彼らは淡々と大量の魔物の命を奪いながら街の中を駆けて行った。


 人々を纏う空気は変わり始めた。彼らを襲っていた魔物達は、今は人を襲うことよりも新出の敵から逃げることに必死で、彼ら住民に視線を向けている暇はないように見える。住民は未だに魔物から隠れるようにしながら、軍団が魔物達を制圧して行くのを希望を込めた瞳で見ていた。


 道路に溢れんばかりにいた魔物達は、直ぐにその姿を減らした。大量の死体と、その死体から流れたであろう大量の流血だけがその痕跡を残していた。


 魔物の軍団が足を止めることはない。

 『彼』に求められているのだから。人々を救え、と。




―――――――――――




「餃子! 胡麻! 二人とも来てたの!?」


 日和は、窓に張り付きながら街を見つめていた。彼女の視線の先では、黒と茶色の魔物が、凄まじい速度で魔物へと迫り、その喉笛を噛み千切っていた。彼らはたった今殺した魔物を気にすることもせず、次の標的へと視線を向ける。

 周囲よりの軍団よりも一回り体躯の大きな二匹は、数百メートル先からでもはっきりと見分けられる程に突出していた。


「小豆も豆板醤も苺もお茶も筋子もいる…………」


 ……………彼女の視線の先には、見知った魔物達が躍るように魔物を蹴散らして回っている。彼女と淳介が暮らす拠点の周囲の魔物達だった。

 しかし、いつの間に名付けていたのだろうか。淳介が聞けば頭を抱えそうな名前ではあるが。


 彼女は視線を更に遠くへと向けて、動きを止めた。


「…………淳介」


 彼は柚餅子と共にいた。美麗な白の魔物は、誰の目にも明らかなほど巨大で、一度飛び跳ねる度にその質量が周囲へと伝わるようだった。


 その横で、淳介は剣を振り回している。


 彼らが日和の目の前に辿り着くまでに長い時間は掛からなかった。広い道路を、流れるように魔物を薙ぎ倒しながら進んで行く。その表情は、日和を以てして今までに見たことがない程に真剣だった。


 軍団は、破竹の勢いで魔物達を潰して行く。人間の数倍もある体躯で暴れ回る魔物達の姿は、例え距離が離れていても圧巻だった。

 しかしそれ以上に目を引くのは、やはり淳介の姿だ。


 その動きは俊敏で、信じられない程に滑らかだ。周囲に集まる魔物達を翻弄しながら、跳躍し、魔物を叩き潰し、上体を切り裂き、正面から殴り付け…………。

 彼はあまりに人間離れしていた。蔓延る魔物達が次々と彼に弾き飛ばされて行って、周囲に死体の山が積み上げられて行く。


 食い入るように、彼の姿を見つめた。

 嚙み締めた唇からは薄く血の味がした。

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