第98話 勝鬨

 画面の先では混沌が広がっていた。撤退が始まっていた探索者シーカーキャンプは、対応に追われて駆け回りながらも、互いに連絡事項を叫び合っている。

 彼らを襲っているのは、予想していた通りの大量の魔物だった。並べられていた車は魔物によって悉く横倒しにされていて、テントは破られ、大量の物資が地にぶちまけられている。


 悲鳴とも、怒号ともつかないような声が飛び交っている。


 日和は一人、部屋の中でスマートフォンを眺めていた。付近に淳介の姿はない。彼は既に家を発っていた。そして彼女は誰とも顔を合わせる気になれなかった。

 だから彼女は、一人でベッドに座り込んでいる。


 本当は、街へと向かう淳介のことを止めたかった。先ほどから、画面を眺めながら同じことを延々と考えている。

 彼は早朝に、彩羽と橘に何かを伝えて家を出て行ってしまった。日和は制止の言葉を口に出そうとして、それでも何も言わずに口を閉じた。彼は日和の頬に一度だけ触れて、何も言わずに出発した。


 ……………例え人々に被害が出るとしても、それを止めなければならないのは淳介ではない。少なくとも、彼女はそう思っている。誰かを見殺しにしたとしても、許されるだけの扱いを彼は受けているのだから。

 恩を仇で返すという言葉ではこの状況には見合わないが、誰かの為を思って行動しようとした矢先に顔面を殴られるような行為を、彼はされているのだから。


 ただ、それでも助けると決めた彼を止めることは出来なかった。


 少し諦めたように笑った淳介の顔が、彼女の脳裏に張り付いている。

 少し前までは笑うことすらしなかったというのに、この地獄のような状況になってやっとのことで笑顔を見せるようになったのは、彼自身に何か変化が起きたというよりも周囲を安心させるためなのだろう。

 笑顔の裏に何かを隠されるのならば、ずっと表情を見せないでいてくれる方が良かった。例え彼が何を考えて居ようとも、日和には何とはなしに察することができるのだから。彼が何を求めているのかを、彼が何に苦しんでいるのかを。それならば、痛ましい微笑みでそれを覆い隠そうとする彼を見ている方が辛い。


 ただ、感情を表にすることが得意でないのは、何も淳介だけではなかったが。

 「私の為に、貴方自身の為に、他の人を捨てでもここに留まってほしい」と叫ぶには、日和は余りにも不器用すぎた。燻るような悔しさと、耐えがたいような焦燥感が胸を急かすというのに、それを上手く文字に起こすこともできないで彼女は藻掻き苦しんでいる。自分の頭の中でさえ、自分の感情について上手く把握できていない。彼が横にいないときの消失感が、たった一文字、恋という文字で置き換えらえることに、どうしても思い至らない。


 もどかしい。胸の奥が掴まれて、ずっと彼の顔が頭の中から離れて行かない。どこにも行かないで欲しい。彼女のもとを離れなどしないで、どこにも。


 思考は堂々巡りを続ける。


 …………このまま溢れ出した魔物が、彼が考えていたように街の方に雪崩れ込んだとして、それは淳介一人で対処できるような規模ではない。例え彼がどれだけ力を尽くしたところで、被害は出る。

 そして被害が出たとして、それを彼のせいにするものがいないとどうして断言できる? 誰かを助けようとした行動が責め立てられる原因にならないとどうして断言できる?

 下手に行動を起こしたせいで、また彼に人々の視線が集められることが恐ろしかった。




―――――――――――――――




 淳介はフードで顔を隠しながら道を歩いていた。実際に魔物の発生が起きたことは既に兵吾から知らされていて、彼は段々と街に異様な空気感が広がって行くのが分かるような気がした。

 向かう先は、南部と中心部の境の付近だった。もしそこから先に魔物が進むことを許してしまえば、多大な被害がでかねない場所。殿だと気取るつもりは彼にはなかったが、せめて被害を減らせる場所に、とは考えていた。


 普段使っていた黒剣は拠点の方に置いてきてしまったのだが、気を利かせた研究員が剣を一つ淳介に持たせてくれていた。少し細身ではあるが頑丈な細剣レイピアで、今は気休め程度の隠蔽のために傘のカバーに入れられていて、不格好ながらも彼の手に握られている。


 また一つ足を踏み出す。


 彼の内側を巡る感情は、一つの言葉で表せるようなものではなかった。感受性の豊かではない彼にとってはキャパオーバーな程に、様々な感情が彼の中を渦巻いている。

 ただそれも、時を経るにつれて段々と薄れ始めていた。


 守らねばならないものがある。


 待ち続けた彼の視線の先に、段々と魔物の姿が現れ始めた。小さな粒のようだった黒い影は、段々と大きくなり次第に魔物の概形が見えて来るようになる。


 深く息を吸い込む。吸い込んだ息が肺のその先まで染み込んで行く感触がする。


 脳内は段々と冴えて渡って行った。余計な思考が削ぎ落され、感情が削ぎ落され、眼前の魔物だけが脳を支配する。

 既に魔物は、一般人の目で見ても顔の表情が分かるほどにまで近づいていた。その数は、見える範囲にいるだけでも優に数百を超えている。


 淳介は剣を手にして、前へと駆け出した。






 冴えわたる彼の思考に呼応するように、周囲の魔力が揺れ動かされる。彼の心臓の奥を蠢く感情が、魔力を伴って徐々に加速して行く。

 突き動かされた魔力は、次第に大地を伝い、空を舞い、巨大な津波のようにして四方八方へと広がって行った。


 魔力によって伝播されて行く彼の思いに、反応する者達があった。全ての場所で、魔物達が顔を上げた。食事をしていた魔物が、迷宮ダンジョンを襲っていた魔物が、休眠を取っていた魔物が、弾かれるように上を向いた。

 彼らは顔を見合わせて、まるで口角を吊り上げるように口を開く。そしてそのまま、喜びを示すかのように叫び声を上げた。


 今までは、見上げるだけだった存在。彼らは今、その存在に必要とされている。この世に誕生してから初めて、何かに必要とされている。


 彼らは、叫び声を、勝鬨を上げながら、一つの場所へと向かって走り出した。

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