第96話 深い海底で

 研究員たちは、揃いも揃って意気消沈していた。橘兵吾はその重たい光景を眺めながら、脳の片隅で今後の事を考える。


 ネット上に広まってしまった淳介の情報は酷いものだった。何が本当で何が嘘か分からない程に情報が錯綜しており、過去にまで遡って淳介の個人情報を拡散しようとする者までいた。

 何が作用してなのかは分からない。ただ、明らかに民衆の反応が尋常でないことは確かだった。溜め込まれてきた鬱憤が暴発したのだと、そう称する他ない程には。


 しかし当の本人は自らの評判は気にもならないようで、専ら他の研究員に対して申し訳なさそうな顔をしては、ソファの上でテレビを見ながら縮こまっている。その報道の内容も彼に関するもので、取って付けたような魔王という呼称が画面では踊っていた。

 それがまた研究所の空気を重たくしていることを、彼自身は気が付いていない。


 ここから、何をすれば良いかは、正直彼には分からなかった。想定外の事態の連続で、種々の事柄全てが収集のつかない始末。

 全てを放り去ることは、彼らには出来なかった。家族がいる。家がある。友人がいる。世界から見捨てられたと言っても、全員が全員見殺しにできるような存在ではない。


 既に時刻は深夜の十一時を回っている。兵吾が話に聞いた淳介と日和の生活習慣では、そろそろ就寝の時間帯だと思うのだが。

 淳介は真っ直ぐと画面を前にしているだけで、何か行動を起こす気配はない。帰って来てからは一言も言葉を発しておらず、話しかければ壊れてしまうような危うい気配を放っていた。


 日和はと言えば、部屋の隅で縮こまっていた。スマホの画面を冷たい視線で見降ろしながら、時折顔を顰めては、端末を握る手に力を入れている。


 明日になってしまえば、侵攻が始まってしまう。焦燥感のような、心の臓に巣食う恐怖心のような、得も言えぬ嫌な感情だけがこの部屋を支配していた。

 巨大な蟻地獄の中で、彼らは藻掻いている。何もなければ良いと願いながら。何もないことはないと知りながら。


 ―――――不意に、日和が立ちあがった。そして足早に部屋を飛び出して行く。


 長く続いた部屋の停滞に慣れ切っていた兵吾の思考は一旦停止し、その後に彼女の様子を確認するために後を追おうとした。

 先程までの彼女の様子では、何を仕出かすか分からない。


「兵吾」


 歩き出そうとした矢先に、彼に声を掛けたのは彩羽だった。先ほどから難しい顔をしていた彼女は、彼の顔を真っ直ぐと見据えて首を横に振る。

 その行動に疑問を抱くよりも先に、日和の後を追って淳介が部屋を出て行った。





――――――――――――――





 大曾根日和は壊れそうな程にスマホを握り締めて、研究所の玄関から外へと出た。やり場のない怒りが喉の奥でつかえて、それがまた彼女自身への苛立ちへと姿を変える。

 誰に対してその感情をぶつければ良いのかも分からないまま、日和は行く先もなく歩き出していた。


 外の冷たい風が頬を撫ぜる。昼頃まで曇天だったはずの空はいつの間にか晴れ上がっていたようで、弱々しい星々の光が辺りを照らす。三日月とも呼べない程細い月は、揺らめく光屑の間にひっそりと身を潜めた。


 深く息を吸い込む。肺を満たした冷涼な空気は、火照った感情を冷ますには十分ではなかった。


 ――――――背後で、小枝が折れる音がする。


 彼女が振り向けば、そこに立っていたのは淳介だった。

 彼の姿を見て、日和のささくれ立っている心がさざ波を立てた。屈折した感情が涙となって瞳から溢れ出す。歪んだ世界で、彼はまだ真っ直ぐと立っている。


「……………一人にならせてよ」


 涙で若干震えたその声を聞かないで、彼は日和を見つめた。

 真っ直ぐと揺るぎない瞳が、薄暗いこの夜には眩いほどの光を裏側に孕んで、提燈ランタンのようにぼんやりと明るくなる。


「私は、……………納得できない」


 言葉を探しても、出て来たのはそんな陳腐で月並みで詰まらない表現だった。彼女の痛みを表すには、あまりにも役不足だった。


 胸の奥の瘡蓋かさぶためくれて、彼女は淳介へと詰め寄る。彼は逃げなかった。

 日和は淳介の許に辿り着いて、彼の胸へと握った拳をぶつける。頼りない音が響いて、淳介が下を向いた。


「私は、ずっと見て来たから、淳介がそんな人じゃないってことを知ってる。私はちゃんと知ってる。だから、……………だから納得できない」


 共に暮らして来た時間が、彼の為人ひととなりを知るに十分でないとは、日和は微塵も思わなかった。


 彼女はずっと彼のことを見つめてきた。隣で、正面で、後ろで、彼がする全てを心臓に縫い付けて、何度も何度も頭の中で反芻した。彼が笑う時に少しくすぐったそうにすることも、彼が話すとき少し居心地悪そうにすることも、彼が見つめるときその瞳に迷いがないことも、彼女は良く知っていた。


 だからこそ、納得が出来ない。


 なぜ彼が責められなければならないのか。なぜ彼が全ての悪を詰め込んだ人類の敵のように扱われなければならないのか。なぜ彼が、なぜ、なぜ、なぜ?

 堰を切ったように疑問と憤懣と悲しさが、胸の内に湧き出す。


 言葉を口に出そうとする度に、代わりに涙だけが溢れ出て来た。


「…………ねぇ、どうして、どうして!?」


 やっと言葉になった疑問の言葉も、一度口から出てしまえばあまりに空虚で、それがまたやるせなくて唇を噛む。

 涙のままに嗚咽を漏らしながら、目の前で下を向いて佇む彼の胸に拳を押し付け続けた。


 淳介が両手を広げて、彼女の事を搔き抱く。日和は彼に包まれたまま、広い夜の中で涙を流し続けた。

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