第89話 沈み行く船の甲板で

 リゲイナーズの四人は、プロテクターにも身を包まないで歩いていた。勿論、普段彼らが過ごしているような都心の中心部では、素顔を曝け出して歩き回るなどということをすれば一瞬で人垣に囲まれることになる。しかし現在彼らがいるのは、居住地域の南部――――――これから一月もしない内に奪還作戦が実行される、くだんの場所の付近だった。

 道行く人々は、彼らを見て顔を輝かせ小さく笑みを浮かべるものの、集まってくるようなことはしない。それもその筈だった。彼らには、その余裕などない。


 今回の計画でこの場所に焦点が当てられたのは、何も都心付近でアクセスが良かったからという理由だけではない。確かに大量の武器や資源、人の移動があることを考えると車で訪れやすい場所が選ばれるというのは自然ではあるが。

 一番の理由は、被害状況の深刻さだった。大量の人間が暮らしている中心部と違い、ここでは人口は段々と減って行くのみ。人が減ればそれだけ危険への対策からは手が引かれることになり、それに連れて人々は更にその土地を離れることになる。

 そして残されるのは、今更居住地を変えるだけの余裕のない者達。その殆どを、経済的に人より劣る者も含め、女子供や年寄りが占めていた。最早それぞれの家で生活していられるだけの状況ではなく、小さな共同生活施設に身を寄せあって暮らしている。


 そうした取り残された者達にとって、日々の生活は死への漸近だった。共同生活の地を守るのは比較的年若い壮年の男性達のみで、魔物に襲われてしまえば、対抗手段は幾つかのハンドガン程度しかない。日に日に食料は不足して行き、精神的余裕すらも段々と削られて行く状況。

 劣悪な環境、その言葉をここまで真摯に描写した景色は、この場所以外に存在しないだろう。そう思えてしまう程に、彼らの生活は限界に近づいていた。


 今の世では、余裕のない場所など溢れ返るほど存在する。それでもこの場所が飛び抜けて限界に近いのは、大都市付近であるというその地形的な要素が原因だった。付近で大量の人々が生活しているだけに、中で生活して行けるだけの余裕がなくなったものが外へと溢れ出て来て、食料を始めとする資源類は金銭的に余裕がある者達の下へと集まる。治安は悪化の一途を辿り、迫りくる危険は外からだけではなくなってしまった。


 そんな場所を、彼ら四人は歩いている。


 誰もが言葉を発せられなかった。それほどまでに、都市の内部と外部では様相が異なる。

 今の今まで誰も実感していなかったとしても、自分たちが今まで恵まれた生活をしていたことをまざまざと実感させられる。極彩色のLEDから届けられる映像では見えなかったものが、彼らの目には届いていた。


 付近にあった共同生活施設の中へと、足を踏み入れて行く。入り口を守っていた男性に頭を下げるも、疲労と緊張がないまぜになった視線を向けられただけで返事は返ってこなかった。

 彼は、どれだけこの生活を続けているのだろうか。


「あ、リゲイナーズの………」


 小さな子供が歓声を上げかけて、その言葉を途中で呑み込んだ。隣では、年寄りが腹を丸め込むようにして寝転がっている。子供は、安堵のような、それでいて悲しげな表情をして、もう一度彼らに視線を向けてから、その老人の隣へと座り込んだ。

 老人は、最早動いているかどうかも分からないような静けさで、その薄い背中を上下させていた。眠っているのか、それとも苦しさを紛らわせるために横になっているだけなのか。


 部屋の反対側の隅で、叫び声ではないにしろ厳しい声が聞こえた。見れば、子供が食事を配っていて、それに女性が何かを言っている。


 沙良が動き出そうとして、遼河がそれを右手で制した。


 女性は、静かに涙を流していた。彼女の手の中では小さな赤子が、泣き声も上げずに静かに眠っている。

 配膳の子供は何をして良いのかも分からずに、ただただ辺りを見渡すだけでおろおろとしている。周囲では、手を差し伸べられる程に余裕のありそうな者はいなかった。







 中の者達へと、少ないながらも食料を分け与えて、彼らは無言でその建物を後にした。後ろ髪を引かれるように、沙良が何度も後ろを振り返る。


「歪だ」


 数分歩いて、基次郎が遂に口を開いた。


「彼らのような者達がいることが、なぜ広まっていない。自分たちは十分に生きて行けるだけの状況にいながら、なぜこうして苦しんでいる人がいる」


 それが何故であるかを半ば理解しながらも、彼は後を引くように言葉を続けた。しかしその後、その問いに答える者はいない。


「…………意図的に隠されているとしか思えないけど」


 続いた沈黙を破ったのは、肇だった。


「混乱を起こさせないためか、一定数の生存者を確保するためか、どちらもか。何にせよ、軽い情報統制でもしなければこんな状況にはならないと思う」

「…………何、まさかあの人がそれを看過してるって言うの?」


 沙良がそれに思わず答える。彼女の脳裏には例の賢君のことが浮かんでいた。年の割に伸びていた背筋が、しゃっきりとしたスーツに身を包んでいた彼の姿が、蹲って小さくなっていた老人の姿と重なる。


 彼らはまた、各々で考え込みながら進んで行く。都市の中心部へと続く道を一歩一歩足を踏み出して行くにつれて、その道を取り囲む景色は徐々に姿を変えていくような気がした。

 十キロ近くに渡る距離を、彼らは思う。この隔離がどれだけの物陰になっていたのかを。


 重い静寂を破るように、電話が鳴った。半ば弾かれるようにして電話に出た肇は、声を落として何かを語らい始めた。他の三人は、心ここに在らずと言った様子でぼんやりと遠くを眺めている。

 そろそろ車に乗って移動を開始しなければならない。いつまでも変装もせずに街を出歩く訳にもいかなかった。今ではそれも、どこか嫌悪感を催すもののように思えて仕方がないが。


 電話が終わって顔を上げた肇が、一旦何かを噛砕くような顔をした。


「…………南部の居住地奪還が、中止になるかもしれない、と」


 遼河の視線が厳しくなる。


「誰が?」


 その言葉に、肇は小さく「曽根さん」と答えた。

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