第72話 賢君

 草臥れた男が、部屋の中に一人座っていた。目の前には大量の書類が丁寧にファイリングされて置いてあり、その横にはボールペンで大量の用事が丁寧に書き記された手帳が広げられている。時刻は既に十一時を回っていた。


 先程淹れたばかりの紅茶は湯気を立てている。老年の男は、それを悲し気に眺めた。かつての彼の気に入っていた茶葉は、あの冷たい海を渡って届くことはない。


 考えれば、様々なものが変わってしまった。経済は停滞し、新たな発明品は産み出されなくなり、外国との外交は途絶え。彼が必死に守って来た物、今ではそれも失われる危機に立たされている。

 彼は悲嘆に暮れていた。


 世間一般に言われている程、彼は完成した人間ではなかった。

 妻を喪った時には一月は真面に働けなかった。心労で臓器を患ったこともある。間違いを犯したことも、何度もある。賢君、そう称えられていようとも、彼も一人の人間だった。

 だからこそ、現在の絶望的な状況を嘆かずにはいられない。


 出来る限りの手は打っている。しかしそれでも、人類を滅ぼさんと迫る力は余りに強大だった。何をしようとも、それを超えた新たな問題に襲われる。

 何か、何かこの苦境を打破する物を見つけなければならない。心臓の奥で燻るその焦りの感情は、常に彼を内側から焼き続けていた。


 少し冷めたであろう紅茶に手を伸ばして、一息に喉へと流し込んだ。温かい液体は喉を下って行き、腹の奥に熱が行きつく。一つ大きな呼吸をした。自らが吐き出す息もが熱を孕んでいた。

 沈みかけていた精神を自ら叱咤するように、彼は静かに正面を見据える。彼が成さねばならないことは数多く溢れていた。


 妻が愛したこの国を、守るために彼は今動き続けている。慈愛に満ちたあの素晴らしい女性ひとが、天の上からでも微笑みかけられるような、そんな国であり続けられるように。

 しかし、最初こそ、ただ妻に報いるために働いているようなものだった。ただそれも、時を経て彼女の言葉を思い出す度に、腐っていた自分の心の綻びが解けて行くような気がした。彼女が守りたいと言っていたもの、それが何か分かったような気がした。

 だからこそ、今は進まなければならない。


 切り替えるように、深く長く息を吐き出した。頭の中を支配していた不安感が吐き出されて行き、急激に体が重くなってくる。寝不足という程でもないが、疲労感故の眠気が全身を支配していた。


 何の気なしに、目の前に置いてあるファイルから、数枚の書類を取り出す。そこには、至極最近活動を始動した四人の現状報告が、事細かに書かれてあった。


 …………彼らを結成したのは、彼にとっては苦渋の決断だった。探索者という仕事は、その全てが死に直結している。そんな彼らを支えれば、それはつまり彼らが死にに行くのを応援するような行為であり、更に言えば、それを半ば強制するようなものであった。

 その上、明確に彼らをサポートしてしまえば、そしてその活動を公にしてしまえば、新たに彼らのような存在を目指す者達も増えて来るだろう。例え自由意思に委ねているように見せたとしても、それは「全体を守るために個を犠牲にする」という行動の欺瞞に過ぎない。


 あるかも、、、、しれない、、、、戦争に備えて軍に配備されるのではない。自ら、そこにある、、、、、危険の中に飛び込んで行く。それが彼らの仕事だ。

 彼らが居なければこの国が成り立たないとは知っていても、みすみすと人の死を見逃しているという後悔を、微塵も抱かずにいられる訳ではなかった。


 …………年を経たものだと、独りでに思う。昔は、もっと尖った考え方をしていたものだった。時代の先端を行くことを良しとし、自他の区別を明確にすることを好んでいた。失敗は、その行動を起こした者の責任だと割り切ってしまえていた。

 今ではそう冷たい考え方を取ることは出来ない。人とは過ちを犯すもの。人の手の助けなしに自ら真っ直ぐと歩き続けられる者などそういはしなかった。彼自身が、そうであったように。


 こうして年を経た実感を持つようになったからこそ、彼らに対して過剰な期待を抱いてしまうのだろうか。この国の未来を彼らの背中に託してしまっているような気になるのは、その所為なのだろうか。


 願わくば、全てが上手く行かんことを。

 人々が前進し、在りし頃の栄光を取り戻さんことを。


 また紅茶に手を伸ばす。どれだけの間考え込んでいたのだろうか。既にカップは冷め切ってしまっていて、先ほどまで聞こえていた隣の部屋で作業をしていた者達の物音も聞こえなくなってしまった。時計を見れば、短針が真上を示している。


 帰らなければならない。もう既に、誰もいなくなってしまった家に。


 独りで暮らすことに忌避感がなかった訳ではない。ただ、今まで彼女と共に暮らしていたその家を手放すのは考えられなかった。例え少しであっても、彼女との記憶をどこかに残して置きたかった。

 また、そこに住むことは自らへの戒めでもあった。いつか自らが彼女の下へと向かう時に彼女へと胸を張って語れることが増えるようにと、棺の中で穏やかな顔をして眠る彼女を見てした決意を、決して忘れることがないように。


 老年の男は、幾らか憑き物が晴れた顔をして立ち上がった。手に持っていた資料を元のファイルの中へと戻し、閉じる。机を離れ、電灯の光を落とし、扉から外へと出た。


 誰もいない、暗い部屋だけが後に残された。

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