第62話 観察対象
淳介の腕時計が午後十時を差したようで、鬼気迫る勢いで
その眠い頭の中で、取り留めもない思考が広がって行く。気が付けば、淳介の左手に付けられた安い腕時計を眺めていた。
佐藤淳介という青年に着いて日和がこの山奥へと越してきてから、随分と長い時間が経った。「一ヶ月」という言葉に出してみれば少ないが、彼女自身にしてみれば信じられない程の長い時間だった。
思い返してみれば、初めて彼に出会った時の記憶が遥か遠くに感じられる───…………
最初に橘兵吾が淳介という青年を研究所へと連れて来たとき、日和は彼に対して何の印象も抱かなかった。幼い頃から興味がある事柄以外にてんで興味を示さなかった彼女だが、両親の多大なる苦労のお陰で、普段は一般人を取り繕える程度にはなっていた。しかしそれも、橘の下で働き始めてからは必要が無くなった。魔物関連の研究では、確かに研究員同士のコンビネーションは必要とされていたが、大抵の人間の性格が終わっていたので、日和の異常に誰もこれと言った気を配らなかったためだ。
彼女が有しているのは、観察対象への狂った程の愛情だけ。ただ目の前の、未知の構造を多数有する生物を、愛して愛して止まないだけ。それが他の人間へと実害を及ぼさないのであれば、それを咎める必要などどこにもなかった。
そうして過去の両親の教育空しく再び人間性を失いかけていた日和にとって、淳介はただの一人の人間に過ぎなかった。興味も無ければ、知り合う必要も見い出せない。思い出したかのように彼を庇う発言はしたものの、本心から思っての発言ではなかった。
話が変わったのは彼と魔物が戦っている映像を見せられた時だった。自分が見たことも無いような体躯の魔物。発生が予測はされていたが、現実────映像越しではあるが────として目撃するのは初めてだった。
可愛い、心底そう思った。…………日和は、少し頭がおかしかった。
ともかく、初めて見るような魔物と青年が戦っている映像を見せられては、大曾根日和という人間は否が応でも興味をもざるを得ない。というより、何が何でも会いたいと思ってしまう。彼女は、身近に貴重な人材がいるというこの機会を
…………何度も繰り返していることではあるが、魔物というのは基本的には人類の敵である。大抵の人間が忌避して恐れる存在であり、喜んでその傍に飛び込んで行くような人間など、そういるものではない。気が狂っていると名高い研究所の人員であっても、魔物を駆逐することに魅力を感じている者や、人智を超えた魔力の挙動や魔物の生態に魅入られている者が殆ど。控えめに言っても、日和が示した魔物への興味は異常だった。
もう一度言おう。日和は、少し頭がおかしかった。
淳介が都会暮らしの一週間を部屋の中に籠って過ごしている間、日和は橘兵吾を通して淳介の姉、彩羽と連絡を取っていた。淳介本人に話を通そうとしても受け入れられないだろうことは彼女も何とはなしに理解していたので、可能性が高かった彩羽に話を持ち掛けたのだった。
結果から言えば、彩羽は受け入れた。しかし勿論淳介の意思を確認してから────と彩羽が言い掛けた所で、説得へ向かう道中に購入した饅頭を手渡せば、彼女は口を噤んだ。そして彩羽は苦渋の決断をして、父親に連絡をし、日和の荷物を纏めるのを手伝い、アパートの解約を手伝い、その事実を淳末から隠し通した。
途中からの彼女が、弟を陥れる計画を完全に楽しんでいたことには、触れないでおくべきだろう。
そうして淳介が家へと帰る当日、橘夫婦と共に何事もなかったかのように見送りに立ち合い、そして何事もなかったかのように淳介と共に電車へと乗り込んだ。流石に共に改札に向かった時には混乱した顔をされたが、逡巡の後に諦めたような表情をしてホームへとエスカレーターを下って行った。
日和の勝利である。
そこからの日々の濃度は言葉に出来るものではなかった。淳介の家に泊った翌日の朝早くに叩き起こされたのは、日和からしてみれば文句を言いたい出来事ではあったが、彼女は大人の女なので我慢をした。やはり自制心のある人間は違う。そう心の中で独り言ちて、満足気に二度寝へと瞳を閉じた
初めて柚餅子と出会った時には、それこそ雷に打たれたような衝撃を受けた。と言ってもファーストコンタクトは寝ぼけていた際に上に放り投げられた状態であり、背中に乗っている状況では全身を眺めるようなことは出来なかったのだが。それでも足の下で野生動物らしい強かな筋肉の動きを感じ、そのサイズ感に人知れず感動を抱いていた。
いざ初めて
日和は生まれてこの方二十年と少しの年月を生きてきた訳だが、その時以上の幸福感を感じたことはなかった。そう思える程に幸福な体験だった。
淳介の傍で過ごす生活程、理想的な環境に彼女は今まで出会ったことがなかった。
幼少期に生命機関の完成度に感動を覚えてからというもの、最初に動物図鑑を詠み荒らし、次に人体に興味を持って自ら学校の理科室に籠って人体模型を凝視し、更に魔物に関して研究が進んでからは今までの科学では理解が出来ない生命構造に対して並一通りではない興味を抱き。ただ一つの難点は彼女が興味を持った存在を手軽に観察することができない現状であった。
それが解決したのだ。それも、これ以上ない程のレベルで。感動を覚えている暇もない程、彼女は更に研究へとのめり込んだ。
…………────睡眠をあまり必要としないらしい淳介が、隣で柚餅子に寄り掛かりながら遠い目をしているのを、日和は瞼を薄く持ち上げて眺める。流石に一日柚餅子の背中の上に乗っているのは、例え柚餅子自身が気を遣ってくれているとしても、ただの一般人に過ぎない日和にとっては多大な体力を要することであった。全身に疲労が広がっていて、それが重みとなって彼女の体に襲い掛かっている。背中で感じる柚餅子の温かい感触が心地良かった。
彼女は、睡眠を欲して止まない頭で、淳介について思考を巡らせた。
睡眠をあまり必要としない体質、強靭な肉体、格段に性能の良い聴覚及び視覚、無尽蔵の体力。生命を冒涜しているとまでは行かなくとも、少なくとも彼女の知っている人体の構造からは軽く逸脱している。
何が彼にそれを齎しているのか? 魔力が人体に作用することがあっても、それがここまで大きな変化を施すものなのか? 彼の体質は? 彼の性格は? 彼がここまで人里を離れて暮らす理由は? 彼が少しも言葉を発しない理由は? 彼が自らの身体の異常性を平然と受け入れている理由は? 魔物を手懐けた手立ては? 魔物への忌避感は?
疑問は止まない。考えれば考える程に、彼女の知らないことが増えて行く。彼女自身が如何に彼を理解できないかが分かって行く。
大抵の人間は、彼女にとってみれば、思考経路が単調で面白みがなかった。過去に一度興味を持って心理学について調べてみたことはあったが、通常難しいとされている人間の感情の機微の殆どが比較的単純な説明によってなされているのは、あまりにもつまらなかった。
ただ、それも過去の話だ。
薄れて行く意識を搔き集めながら、日和は淳介のことを見る。普段は違う部屋で寝ているのに加えて、普段の遠征でも彼が眠っていることを見たことがなかったため、今日は淳介が寝姿の観察を目論見ていたのだった。
しかし、この調子ではそれも出来そうにもない。いかに日和とは言え、重い疲労による眠気に逆らい続けることはできなかった。
負け惜しみのように、日和は彼の事を眺め続ける。
奇しくも、日和が彼へと向ける視線は、彼女が研究対象に良く向ける瞳と良く似ていた。
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