第50話 飼い主の威厳

 迷宮ダンジョンに潜り始めてから早くも一週間が経過していた。洞穴の中から外に出たのは一度のみで、その際に飲み物や食料を補充し、風呂に入って着替えをし、一時間程仮眠を取ってまた直ぐに戻ってきた。

 その短時間であっても、この規模の迷宮ダンジョンであれば大量の魔物がまた姿を現していたのだが。何なら一度通った道でも、戻ってくるときには新しい魔物が発生しているなどということがザラにあった。ただやはり発生したばかりの魔物と言うのは、サイズにしても身体能力にしても他の魔物に見劣る部分があり、相対するに困ることは殆どない。それが唯一の救いだった。


 ここまでの長い距離を進んできて、やっと肌のひりつくようなピリピリとした感触を感じるようになった。ただ、迷宮ダンジョンコアが近くにある際に感じるこの感触だが、一つ気にしなくてはならないのは、それを感じ始めるのは迷宮ダンジョンのサイズ────つまりはコアの大きさに準拠しているということだ。この規模の迷宮ダンジョンであれば、ここから更に長い距離を進んで行かなければならないかもしれない。

 ここまでどれだけ進んできたかを考えると、この迷宮ダンジョンの全体像を俯瞰したときにどの程度のサイズになるかなど想像したくもなくなる。その全体と比べれば、これから進む距離が想像以上に長くとも仕方がないという話だった。


 普段何も考えて居なさそうな柚餅子も今は流石に疲れているようで、力の抜けた表情で骨を舐っている。死んだ目をして、舌が垂れているのにも気を配らないで、ただただぼんやりと肉に噛みついていた。

 後で何か労ってあげよう。流石に可愛そうに見えてきた。







 疲労感を押し殺しながら進み続けること更に数時間。魔物の量が異様に減って来て、その分それぞれの魔物の勢いがまるで違ってきた。相対する前から気を張っているかのような、この世の全てを敵とでも思っていそうな目をしている魔物が殆どだった。

 見かければ攻撃。それ以外に選択肢はない。


 流石に、ここまでの疲労を抱えた状態で魔物と闘うというのは辛い。足が重く、頭が上手く働かない。

 そう、実は最近ではエネルギー不足になるという経験をなかなかしなくなってしまったために、疲労感故に頭の動きが悪くなるというのを久しぶりに感じている。前までは常に疲労感とそれによる脳の機能低下に苦しめられていたのだが。

 腕も限界に近付いており、度重なる衝撃に痺れ、持ち上げるだけでも肩が悲鳴を上げるようになっていた。ただ、耐えられない程ではない。


 懐かしい感覚に、思わず笑みが零れる。

 迷宮ダンジョンに本格的に潜り始めてからというもの、最初の頃は無茶ばかりをしていた。そのために自分の限界を超えて動き続けている場合も少なくはなく、こうした疲労感を常々抱えながら生きていた。

 通常、迷宮ダンジョンに潜っていると、疲労を忘れて進み続けられる瞬間と言うのが出て来る。魔力による精神の高揚が原因なのか、少し前までは付かれていたはずなのに、急に何もかもが頭から抜け落ちて、白紙のような状態で前に進めるのだ。

 しかし、それを超えると地獄が待っている。積み重なった疲労により、急激に重くなる身体。働かない頭。一ミリも動きたくなくなるような非常な倦怠感。ただそれも、慣れれば意外に耐えられるものだ。


 飛び掛かってくる魔物を回り込んで避ける。鋭く踏み込んできた魔物は、体を壁際に寄せて更に態勢を低くする。

 魔物の体と迷宮ダンジョンの壁の間を走り抜けた先で、勢いよく振り向いた魔物の手が此方へと迫って来た。姿勢を屈めて、何とかそれを避ける。数十センチ先を通ったはずの魔物の腕は、この距離でも感じられるような暴風を伴って、轟音と共に洞穴の壁に大穴を開けた。


 後ろで柚餅子が飛び込む音がする。この深さにいる魔物とも遜色のない体躯をしている柚餅子のことは流石に無視できなかったのか、魔物は真正面から柚餅子に向かい合って戦闘態勢を整える。

 一応俺にも背を向けないようにはしているらしいが、体躯的に私のことはあまり重要視していない様子。


 私が飼い主なのですがねぇ。気に入りませんねぇ。


 柚餅子に集中している魔物に気が付かれないように、静かに後ろへと回り込む。柚餅子はこちらの意図に気が付いたのか、魔物に対して偶に近寄っては細かく噛みつくような素振そぶりをした。

 拳を振りかぶって、飛び込みながら勢い良くそれを叩き付ける。


 ────轟音と共に、魔物の足が弾け飛んだ。悲鳴。血液の飛沫。


 …………わーお。


 魔物と闘っている最中は、いかに本気で殴るといえども、体勢が整っていなかったりして力が入りきらないことが多い。流石に手早い対応が求められる状況に置いて、完全に用意の整えた一撃を入れるというのは厳しいものがある。

 だからこそ、こうして魔物に全力で拳を叩き込んだのは久方ぶりだった。


 ここらの魔物と言うのはどうしても皮が固いイメージが有ったので、本気で殴ろうという気にすらなっていなかった。怪我すると思ったし。現に今俺の右手滅茶苦茶痛いし。

 流石に骨を折ったりはしていないと思うけれども、打撲程度にはなっているかもしれない。まぁ、硬い物と硬い物がぶつかったらどちらにもダメージを生じるだろう。仕方なし。


 足が一本なくなった魔物の首筋に、柚餅子が飛びついて喉笛を噛み千切る。


 今度は悲鳴を上げる間もなく、魔物が絶命した。

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