第43話 不安
本当は、彼とて肇のように塞ぎ込んで世界から逃げたかった。しかしこの場で正気を失ってしまえば、いつ戻って来れるのかも分からない。頭の奥底に蟠る嫌悪感と、瞳を閉じて戦っていた。妻の事を思い出す。彼女との思い出で全てを塗り潰す。娘の笑顔を思い出す。彼は一人ではない。
カタ、と小さく音がして、顔を上げる。視線の先では穂香と良太が戻って来ていた。先ほどまでは本部に緊急退避の旨を連絡すると言って姿を消していたのだが。
二人の様子がまだ通常であるのが恨めしかった。人の事を羨んでも仕方がないのだと、分かっていても止められない。
「…………お疲れ様です」
気を遣ったのか、穂香が飲み物を持って来てくれていた。緑茶の入ったペットボトルを一瞬眺めて、ありがたく受け取ってから机の上に置く。まだ喉に何かを通す気分にはなれなかった。
それを知ってか知らずか、穂香は僅かに視線を逸らして、良太と共に近くのソファへと座りこむ。未だ感情の整理が付き切っていない茂樹は、内心で軽く悪態を吐きながらも、表面上は快く二人を受け入れた。
「…………小坂さんの御容態は?」
分かっているだろうに、穂香は、ホテルの一室で今は眠っている社の若手の様子を聞いた。
なぜか、彼が入社してきた日のことが脳裏を
今後の彼の事を想う。
「肇は、まだ落ち着くまでは時間がかかりそうです」
重たい空気が三人の間を流れる。常に飄々としていた良太でさえ、肇の現状を見て感じるものがあったらしい。
誰もが表情を重くしていて、誰も口を開かない。話さなければならないことは数多あるというのに、喉の奥が乾いて言葉が出てこなかった。
そのまま、数分の時が流れる。茂樹は、穂香に貰った飲み物のラベルを無感動に眺めていた。同じ文字を二度、三度、追いかける。ただそれでも、中身のないナレーションのように視界を空虚に通り過ぎて行くだけで、中身が何一つとして頭の中に残らない。
また初めから。初めから。初めから。
「…………小坂さんの容態に関して、できることがあるかもしれません。淡い希望を抱かせるような物言いになってしまって申し訳ないのですが」
自分の中で種々の物事を噛み砕き終えたらしい穂香が、やっと口を開いた。
何を言っているのかが分からず、逡巡の後に理解する。小さく顔を上げた茂樹の瞳を、彼女は真っ直ぐと見据えていた。
「研究機関にそういったカウンセラー機関があると?」
図らずも、皮肉染みた言葉が口をついて出る。この仕事を受けた自分が悪いのだと、頭のどこかで分かっていても、彼らへの恨みを隠しきれる程、茂樹は出来た人間ではなかった。
「いえ、私たちの研究に関わってくる分野でもありますので」
茂樹の様子に対して、穂香は落ち着いて答える。彼が無言で続きを促せば、穂香が視線で良太に合図をして、再び前を向いて語り始めた。
「私たちの研究は、ご存知の通り魔力の作用についてです。魔物という存在がどのようにして生まれるかについてが現在の主題ではありますが、魔力全般の研究が全て止められている訳ではなく、今でも研究所の幾つかの部門に分かれて様々進められています。そしてその内の一つに、魔力の精神への作用があります」
SCEによる魔力の研究は、十五年という長い歴史がある。国家機関という多大なるアドバンテージのお陰で、その内容に関しては他の追随を許さない高度さを保っていた。
そうして積み上げられた研究の成果として、一つの大きな仮説が立てられている。
それは、突如として発生した一連の現象は、何者かによって故意的に引き起こされたものである、というもの。
研究所としてはあるまじき、多大なる推論によって組み立てられたものではあるものの、心理学者などの様々な分野を超越した協力によって何度も何度も練り直した末の結論でもあった。
その
それが、この
ともかく、この
事実、魔力には精神へと干渉する効果があることが分かっている。当たり前だが、それは魔力の絶対量が多い程、つまり高濃度である程に効果が大きい。
そして、肇の見せた症状は、魔力による錯乱の例と合致する点が多かった。狼の魔物、もしくは例の青年が高濃度の魔力を有しているのであれば、それが引き金となって肇に影響を及ぼした可能性も考えられるのだった。
「完全にそうと言えたわけではありませんが、一応伝えておいた方が良いだろうとの判断で、今回の話をしています。我々の研究成果ではあるので、なるべく外へは広めないでいただきたいのですが、小坂さんのセラピーのために話すのであれば、私たちからは何も言うことはありません」
穂香はそう言葉を締め括った。
話を聞いていた茂樹の頭の中には、青年の姿がぼんやりと映し出されていた。
吸い込まれるような黒く澄んだ瞳。何の感情も映し出さない表情。
彼は誰だったのか。何が原因で我々はこのような悲惨な目にあっているのか。
自然と、息が浅くなった。
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