第42話 異変

 帰り道は四人の内誰も口を開くことはなかった。茂樹は道中何かをずっと考えており、肇の後ろの良太も遠くを見つめたまま言葉を発する様子はない。穂香は衝撃が強すぎた故に、口を固く噤んだままじっと進行方向を見ている。

 しかし、誰よりも動揺が大きかったのは肇だった。辛うじてバイクを運転し続けてはいるものの、気が付けば茂樹からはぐれ、時折バランスを崩して倒しそうになる。顔面は蒼白で、激しい運動をしている訳でもないのに肩で息をし続けている。それでも、何かから逃れるように、手をハンドルから離すことなくバイクを走らせ続けている。


 肇の心臓はあの時からずっと早鐘を打ち続けていた。奥が見えないが故に平坦な瞳が、何の感情も表に表さずにこちらを見つめている光景が頭を支配している。

 気が付けば何度も何度も同じ場面を頭の中で繰り返している。


 視線を向けられ、ホルスターに手を伸ばし、銃を掴み損ね、掴み直し、照準を合わせ、引き金を引く。彼は死なない。


 そして意識がまた最初の場面に戻る。茂樹が立ち上がって、その視線の先を追いかけて。


 何がそこまでの恐怖を呼び起こしたのか、肇自身も分からなかった。容姿自体は普通の青年だった。背丈も、格好も、顔も、肌の色も、珍しいものではなかった。

 ただその存在が、根本的に間違っている。そこに有ってはならないものが有る違和感。生命のないものが命を宿したかのような、目に見えない不合理。肇はそう思えて仕方がなかった。


 視線を向けられ、ホルスターに手を伸ばし、銃を掴み損ね、掴み直し、視界が狭くなり、照準を合わせ、引き金を引く。彼は死なない。


 最初に戻る。


 バイクのエンジンの低い音が耳の奥で踊っている。視界の端では木々が、後方へと勢いよく飛んで行き、暗い緑色が霞んでいる。誰かの息遣いが自分の喉の奥で潰れるように引き攣る。

 瞬きを忘れていて、乾燥で滲んできた涙でようやく気が付いた。


 視線を向けられ、心臓が潰れるような感触がして、ホルスターに手を伸ばし、銃を掴み損ね、掴み直し、視界が狭くなり、照準を合わせ、引き金を引く。彼は死なない。


 最初に戻る。また。


 後ろで良太が身じろぎをする。この位置では表情も見えないが、先程から様子がおかしかった。自分の理論を実証するような巨大な魔物と出会って喜んでいるのだろうか。

 肇は呆れた溜息を吐く。そんな彼自身が遠くに感じる。生きている感覚がない。普通の感情を心の中に作り出そうと必死になっている彼自身を、外側から眺めている。


 視線を向けられ、心臓が潰れるような感触がして、ホルスターに手を伸ばし、息が荒くなり、銃を掴み損ね、掴み直し、視界が狭くなり、照準を合わせ、酷い頭痛がして、引き金を引く。彼は死なない。


 最初に戻る。何度も。


 人間に向かって発砲した自身が衝撃だったのだろうか。今まで、彼が戦っていたのは人間を守るためだった。家族を、友人を、自分を、大切な人を、守るために闘っていた。例えそれが若さ故に抱けるような綺麗事だったとしても、肇はそれを支えに生きて来た。

 あの青年に向かって銃を撃ったのは何故だったのだろうか。防衛本能か、恐怖による攪乱か。強いて言えば、存在してはならない悪を成敗するような、強烈な正義感か。


 視線を向けられ、心臓が潰れるような感触がして、ホルスターに手を伸ばし、息が荒くなり、銃を掴み損ね、体勢を崩し、掴み直し、視界が狭くなり、照準を合わせ、酷い頭痛がして、地面につくばって、引き金を引く。彼は死なない。


 何度も何度も。


 ふらり、とバイクが揺れる。後ろで良太が身じろぎをした。呆れて肇はため息を吐く。視界が涙で歪んだ。吐き出す息が震える。ふ、と唇が歪んだ。後ろで誰かが身じろぎをした。


 視線を向けられ、心臓が潰れるような感触がして、ホルスターに手を伸ばし、息が荒くなり、銃を掴み損ね、体勢を崩し、掴み直し、視界が狭くなり、照準を合わせ、酷い頭痛がして、地面につくばって、首を刎ねられる。自分が死ぬ。


 何度も何度も何度も。


 息が出来なくなる。視界が一瞬暗くなる。ふらり、とバイクが揺れる。呆れて溜息を吐く。後ろで誰かが息を呑む。


 視線を向けられ、心臓が潰れるような感触がして、ホルスターに手を伸ばし、右手が指先から折れて、息が荒くなり、銃を掴み損ね、体勢を崩し、左肘から先が吹き飛んで、視界が狭くなり、足先から狼に呑み込まれて、酷い頭痛がして、地面につくばって、首を刎ねられる。自分が死ぬ。


 何度も何度も何度も何度も何度も。


 轟音。

 一瞬、何が起きたか分からなかった。


 肇が、自分の運転しているバイクが横転して樹木に突っ込んだことに気が付くのに、数分の時間がかかった。そしてそれを自覚しても、肇がそれに反応することはなかった。

 彼は、投げ出された体勢のまま、少し離れた地面を眺めて、静かに流れる涙を頬に感じていた。

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