第40話 望まれない遭遇

 鹿肉を食べた昨日の夜。迷宮ダンジョンの中でボディーシートを使って体を拭くという前代未聞の事柄を成し遂げ、寝袋を使って安眠するという偉業を達成した自分は、次の日の朝七時近くまで目を覚まさなかった。

 どうしても迷宮ダンジョンっていうのは普段とは異なる環境だし、途中で目が覚めてもおかしくないって思ってたんだけどね。何なら最近は特に睡眠時間が短くなって来てるから、少しも眠れなくても仕方がないとまで覚悟してた。

 ただやはり、普段とは違う行動をするだけで疲労は増加するのだろう。久しぶりの長時間睡眠のお陰で随分と復活してはいるが。


 胸がすくような感覚と共に目を覚ますという、普段の迷宮ダンジョン攻略の中では体験したことのない事態に違和感を抱きつつ、寝袋の類を片付ける。

 部屋の端に積み上げられている物の山に視線をやり、少し溜息を吐いた。片付けなければならないとは分かっているのだが、どうせ次も使うことを考えるとどうしても躊躇ってしまう。細かい物なんかも多いことだし、何か片付けが出来る入れ物でも買って来れば良かったか。


 コンロを引っ張り出してきて火をつけ、あまり干されてもいない鹿肉を網の上へと乗せる。朝食はどちらかと言うと白米派なのだが、今水を汲みに行く元気はないので、取り敢えずはパンにでも挟んで食べようと思う。

 最近値段が高騰している野菜の類だが、レタスは使いやすいと思って値段を顧みずに買ってきていた。サンドイッチとまではいかないが、朝食としての体裁程度は整えられるだろう。


 ペットボトルのお茶をリュックの小さな保冷バッグの中から取り出し、口に含む。起き抜けの飲み物は、喉が変に乾いているせいで少し味が分からなかった。


 焼けたであろう鹿肉を二枚、レタスと共にロールパンの間に挟む。このパンも先程網の上に乗せて置いたので、併せて食べても違和感がない程度には温まっていた。

 もう一度お茶を飲んでから、パンを口にする。洞穴の暗闇の中では何も面白い物などないが、こうしてただただぼんやりと朝食を食べるのも悪くはなかった。幸いにも昨日は魔物に襲われるようなことはなかったらしいし、柚餅子ゆべしが人感センサーを鳴らすこともなかった。人生で初の野外宿泊だった訳だが、思ったよりも恙なく終わって良かった。


 さて、今日の予定だが、少しこの辺りの土地把握マッピングでもしようかなと。何せ今までは特に深く考えもせずに迷宮ダンジョンの中に飛び込んでいた訳で。この付近程度は少しは全体像を掴んでおきましょうよということでして。

 基本的には、柚餅子の背中に乗ってここら辺を走り回ろうかと思っている。この森の中で地図を追える程に位置感覚に優れている訳でもないので、取り敢えずは何となく見渡すだけでも。


 長期間迷宮ダンジョンに潜るという初挑戦の最中ではあるので、少しハードルを下げようという意図もある。流石に迷宮ダンジョンの中に籠もり続けるのは疲労が激しいからね。

 取り敢えず、色々と始めるのはこの朝食の時間が終わってからということで。


 それにしても、いつもと違う環境で、一人で紅茶飲みながら朝食のパンを食んでるとは。流石に幸せが過ぎる。





───────




 いじける良太を宥めつつ、肇は上へ上へと歩いて行く。肇と茂樹の二人だけで、素人二人を守りながら進むという、普通ではあまりしないような行動。良太の取った記録を覗き込んでもいまいち概要が掴めないために来た価値があったかどうかは分からないが、少なくとも計画の無茶さに見合うだけの疲労を肇は実感していた。


「………流石にこれだけの長時間暗闇の中にいると目が疲れますね」

「それが実感できているだけ落ち着いているということです。探索者シーカーになってから数年たっても、偶に疲労すら忘れて動いている時がありますから。そこまで来ると、いつ力が抜けて倒れるやも分かりませんからね」


 良太の対応で苦労している肇を尻目に、穂香と茂樹の二人は静かに語りながら着実に前へと進んで行く。

 先程の休憩時間で、穂香が父親の死をきっかけに探索者シーカーを目指していたという話を聞いてから、茂樹はやけに饒舌だ。茂樹はもう少しで五十の大台が見えて来る年齢だった。そして、彼の娘の年齢は丁度二十歳はたち。穂香とは二歳違いだが、娘と重なって見えるものがあったのだろう。


 相変わらず景色は変わらない。慣れてきたとはいえ、視界の悪い中で、見えるものの半分が魔物の死骸だというのは、言いようがない程気味が悪かった。




───────




 柚餅子の背中の上で、過去に攻略した迷宮ダンジョンの数々を見て回る。基本的に二、三回は通っているために、訪れたことのある迷宮ダンジョンの概形は覚えている。ただそれでも、時間を空けてからもう一度訪ねてみれば、どの場所も通っていたその頃とは印象が随分と変わって見えた。

 時折、中に入って行って様子を見てきたりもしていた。基本的には前述の通り、攻略された迷宮ダンジョンというのは新たに魔物が発生することはないはずなのだが、偶に数匹の魔物が飛び出してきたりもして予想外の戦闘に陥ったりもした。以前であれば時間が掛かっていたはずの魔物を相手しても、それといって大きな苦労をしなかったりするのは、何となく嬉しかった。


 足の下で柚餅子の全身が動くのを感じながら、姿勢を低くして目を瞑る。風の感覚だけでも、どれだけの速さで前に進んでいるかが分かる。

 心地良い涼しさに身を任せて、柚餅子の首筋に両手を回した。





―――――――――




 やっと迷宮ダンジョンの入り口に到着する。肇は、疲れた様子の良太を穂香に預け、自分は自分で飲み物を取り出して休息を取った。甘い物を摘まんでエネルギーも補給する。

 外の明るい光に慣れないまま、四人は入り口近くの、若干陰になった地点で腰を下ろして休んでいた。茂樹と肇はそこにあった岩に腰かけ、周囲の警戒を怠ることはない。

 疲れている時こそ、魔物との遭遇を念頭に置いて行動しなければならない。気が緩んでいる状態から一気に戦闘へと精神状態を移行させるというのは、想像以上に難しいものだった。


 座ったまま、腰を前に屈めて足を延ばす。肺から大きく息を吐き出しながら、膝裏が大きく伸びる感覚と、疲労感が誤魔化されるその感触を楽しんだ。

 今度は反対側に背中を逸らして、手を頭の後ろに組んで腰を捻る。凝り固まっている、という程ではないが、運動後の独特な倦怠感が全身を支配していた。


 ─────視界の端で、茂樹が勢い良く立ち上がる。腰に手を添え、いつでも銃を抜けるような姿勢を取りながら、茂樹は目にも止まらぬ速さで前へと飛び出した。

 肇は、何が起こったか分からず一瞬瞠目し、直ぐに視線を茂樹の向かった先へと向けた。


 息が詰まる。


 白く、巨大な狼だった。額からは二本の角が生えており、両の前脚は何時でも飛び出せるように柔く曲げられている。視線は鋭く、目を向けられただけで首筋辺りに痺れのようなものが走った。


 前に立つ茂樹が小さく見える。

 不意に、以前「逃げろ」と叫んだ時の彼を思い出した。声が枯れて、焦燥感に溢れた表情をした彼の事を。


 視線を上げる。


 青年だった。


 彼は狼の上で、こちらを冷たい表情で睥睨する。

 短く刈り揃えられた黒い髪に、白い肌。この距離からでも見える透き通った瞳が、全ての光を呑み込んでいた。


 足がもつれる。指が絡まる。心臓が破裂するような勢いで拍動する。


 頭が働かない。


 必死で体を動かす。右足を一歩前に、左手を下に、右手を上に。ホルスターに伸ばした指が、冷たい金属に触れる。一度掴むのを失敗して、冷えて行く指先でどうにかそれを掴み直した。


 手を前に伸ばす。引き金を引く。

 一気に視界が狭くなる。音が消え、世界から色が消える。


 遠くで、発砲音がした。

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