第37話 鹿肉
火の勢いを調整して、鹿肉を引っ繰り返す。想像よりも脂が乗っていたようで、触った瞬間に鹿肉から脂が滴り落ちた。
数分待ち、十分に焼けたのを確認してから、数枚を皿に盛り付けた。
適当に野菜も取り、手を軽くタオルで拭いてから、鹿肉に箸を伸ばす。心なしか緊張しているらしく、箸を握る手に上手く力が入らなかった。………いや、疲れてるだけか。
心を決めて、鹿肉を口の中に放り込む。
酷い臭みを覚悟していた口の中に、確りと焼いたのが功を奏したのか、若干の香ばしさが抜ける。そして次に、柔らかい甘みのある肉の食感。
歯を噛みしめる度に、肉らしい旨味が口の中に広がる。
…………重ねた苦行のせいか、若干泣きそうにまでなっていた。疲労感に染み渡る味だった。無心で、次の肉を一枚口の中に放り込む。
まさか、ここまで幸せだとは。味だけを鑑みれば、最高級の肉と張り合いが付くようなものでは到底ない。しかし、この環境、この苦労、そしてこの達成感。
塩と胡椒だけの単純な味付けだが、いや、だからこそか、口の中に広がる旨味は言葉にし難かった。キャンプに行って食べる食事は別物だと聞いたことはあるが、確かにこれは格別だ。普段はしないような苦労をした上で、疲労感に染み渡る旨いものを、普段とは違う環境で食べる。態々高い金をかけてキャンプ道具を揃えたくなる気分も、今ならば分かった。
そのままの勢いで残りの網の上にあった残りの肉を平らげて、次の肉を更に並べようとして、思い止まる。
白米が欲しい。欲を言うならば炊き立ての。
少し考えてから、立ち上がる。現在時刻は午後六時。ここから近場のコンビニに行って帰って来るまでにかかる時間は、短く見積もって二時間程度。…………柚餅子に気合を入れて走って貰えば、一時間半ほどで帰って来れるだろうか。
そこから────買ってくるのはパックの温めるだけで食べられる米にするとして────調理にかかるのは準備諸々を含めて二十分程度。鹿肉が焼けるのにも、そこまでの時間は掛からない。
急げば、夜八時には食事を再開できるだろう。少し遅いが、別に忌避されるほどではない。
よし、行こう。
柚餅子にまだ生の鹿肉を幾つか献上し、快速で飛ばしてもらうこと一時間。その一時間で、大部屋に戻って来れた。
流石は犬。走るのが速い。
柚餅子を撫で回すのは食後にするとして、タッパーを持って
気合で駆けあがって、そのまま大きめのタッパーを握りしめて川の方向へと走る。久しぶりに自分の足で走るが、やはり柚餅子に乗っている方が景色の流れが速かった。足を置く場所の選び方も柚餅子の方が格段に上手いし、体の上下の揺れも彼の方が少ない。
姿勢に気を付けて走ってみるが、走行速度にそこまでの差は感じられなかった。
川に辿り着き、二つ持って来ていたタッパーの中にそれぞれ水を汲む。鍋にしなかったのは、タッパーの方が水を入れたまま走りやすいから。やはり固定できる蓋がついているというのは機能性が格段に違う。
…………いや、鍋もって走る人はそんなにいないと思うけどね。
走り続けること十分、
ここまでの距離を全力走行したのは久しぶりだった。体力は順調に伸び続けているのだが、やはり全力でとなると体への負担が大きい。
息の乱れが収まってから、鍋を取り出してきて、一つのタッパーから水を注ぎ込む。大量に買って来たパックの白米を待機させながら、鍋の水を沸騰させた。
泡が出てきた辺りで耐えられなくなって、二つパックの中に突っ込む。同じタイミングで、鹿の肉を網の上に乗せた。網の端に寄せてあった野菜を食しながら、五分間の間沈黙を保った。柚餅子は餌を確保しにどこかに行ってくるらしく、馬耳東風とは知りながらも無理をしないように語り掛けて、送り出す。
肉が焼けたタイミングで、白米も準備が出来た。鍋からパックを取り出し、膝の上に置いた鍋敷きの上で、プラスチックの蓋を捲る。
蒸気と共に、炊き立ての米の匂いが香り立つ。いそいそと焼き立ての鹿肉に塩胡椒をし、それを炊き立ての白米の上へと乗せた。
一口。肉と白米。
…………うっまぁ。
やっぱりこれだよね。これ以上の組み合わせはないよね。肉と言ったら塩胡椒で、肉と言ったら炊き立ての白米だよね。
米と合わせるからと少し多めに振りかけた塩にも負けない程、噛みしめる度に鹿の風味が立ち上ってくる。塩味と肉の旨味が合わさって、これまた白米の進むこと進むこと…………。
甘いストレートティで口の中の油を流し込み、一旦口の中をリセットしてから、もう一度焼き立ての肉に齧り付く。
不味かったらどうしようとか、思ってた俺が馬鹿だったわ。マジでただの肉だ。めっちゃ旨い。
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