第36話 下処理という苦行

 かなり必死で頑張って、色々な場所を駆けずり回って、やっとの思いで肉の下準備が完了した。ナイフを使って素手で鹿の皮を剥ぎ、足を骨から切断して扱いやすくし、血抜き用の塩水を確保するために態々川を探して回り。

 慣れればあまり時間もかからないとサイトには書いてあったものの、辛すぎて既にかなり疑心暗鬼になっている。これで美味い肉が食えないのであれば、二度とやりたいとは思えなかった。


 血抜きの二十分程度の間、寝転がった柚餅子を枕に、石部屋の中で呆けていた。柚餅子の毛皮は完全に剛毛タイプで、こうして体重を預けるにはあまりにも居心地が悪い。随分と長いこと一緒にいるせいで、この感触も気にならなくなって来たし、少し体温が感じられるせいで離れがたいような気さえしてきたのだが。

 にしても、マジでアニマルセラピーだわ。生き返る。


 腕時計の安っぽいアラームが鳴って、渋々体を起き上がらせる。慣れない獣の解体のせいで心身ともに疲労感が半端でない。


 調理用に持ってきた三つの鍋の中に、三十センチほどのブロックになった鹿肉が詰め込まれている。血が抜けた痕跡で、鍋の中の塩水は赤黒い色に染まっていた。

 鹿肉を取り出して、タオルで包んで行く。取り敢えずこの鍋の中の塩水を捨ててきたいのだが、この迷宮ダンジョンの中で捨てると匂いが籠って魔物が引き寄せられてきそうだし、内臓の類を捨てた所まで行ってから捨ててこようと思う。…………三往復、いや、一度に二つ運べれば二往復………。


 行くか…………。






 主に精神的な疲労感でテンションが激ローなのだが、気合を振るい立たせて、タオルに包まれた鹿肉に向かう。

 この内の殆どは、塩漬けにして干し肉系の保存食にしようと考えている。頻繁に肉を買おうとするとどうしてもかなり金がかかる為、今までは野菜中心のサンドイッチで我慢していたのだが、もしこれで美味い保存食が出来れば、それだけで攻略速度が上がるような気がした。


 ということで、まずは肉に塩を擦り込みます。目の前の量を見ると、かなり本気で現実逃避したくなってくるが、未来の自分のためだ。

 終われば、旨い肉が待っている。







 ブロックを更に小さくしながら無言で塩を塗りたくること三十分。手が塩でふやけて凄いことになっているが、取り敢えず予定していた分は終わった。これを風通しの良く、光の当たらない日陰に置き、虫に卵を植え付けられないように注意し、腐敗臭がしないかを常に気を付け…………。仕事が多い。泣きたい。体裁も気にせず大泣きしたい。


 大量に持ってきた折り畳み式のゴムのバケツに、鹿の肉を放り込み、部屋の端へと置く。最初は部屋の外に置くことも考えたのだが、外にいる魔物────主に柚餅子───に食べられないかどうかが不安なので、この部屋の中に置くことにしていた。

 風通しのいい場所が必要となろうことは分かっているので、壁の下の方には幾つか穴が開いていて、風が通り抜けるようになっている。と言っても、結局迷宮ダンジョンの中ではあまり強い風は抜けないのだが。

 ただ、虫が殆どいないのはありがたかった。迷宮ダンジョンの中は魔物以外の生物には死ぬ程厳しい環境で、水も植物も餌もないので、もし迷い込んだら死ぬ他ないのだ。生態系が完全に魔物だけで完結している以上、虫の数も極端に少なくなってくる。


 ただ、このバケツ、水を通さないので、このまま行くと完全に腐る。だから、取り敢えず一旦今鹿肉を食べてみて可能性を感じたら、新聞か何かを持って来てその上に鹿肉を広げようと思う。何ならこんな場所で処理する必要もないしね。家に持って帰って干せばいい話だし。


 てかマジで、初回からこのサイズの魔物狩ってきたの誰だよ。後先考えてなさ過ぎて笑えるんだが。初心者は小動物からじゃん。普通に考えて。その日の食事さえ賄えれば良いんだし。

 あー、悲しくなってきた。人間である以上ある程度のミスは仕方がないにしても、何でこうも面倒な失敗をするかな………。


 溜息を吐きつつ、残っている鹿肉を小さく捌いて行く。

 てか本当にキッチン買ってきてよかったわ。これが座っての作業とかだったら完全に腰がお陀仏だった。包丁とか使うにしても、台があってまな板がある方が格段に作業がしやすいし。


 包丁で、やや硬い肉を捌いて行く。こうしてみると、あの死体から良くこの状態まで持ってきたものだと自画自賛したくなる。切実に。

 …………いや本当に死ぬ程大変だった。


 肉を捌き終え、今度はコンロの準備をする。一酸化中毒やら何やらが色々と心配なので、火を使った調理は部屋の外でするつもりだ。換気扇もないし。

 ガスの缶をコンロの中にぶち込み、網を乗せ、鹿から取った脂で網を拭いて行く。火をつけ、鹿肉を中心に乗せ、周囲に先ほど切った野菜など諸々を並べた。


 まだ焼けない内に、色々と片付けをする。流石にここまでの長時間の作業のお陰で、部屋の中はそれなりに散らかっていた。

 荷物を元あった場所に戻し、代わりにペットボトルの某午後のストレートティーを引っ張り出す。冷たくなっていないのが唯一の難点だが、それでも甘い飲み物が飲めるだけありがたかった。


 部屋を出ると、空腹をそそる匂いがした。

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