第25話 犬
さて、用事は全て終わったのでそろそろ帰途に就かなければならないのだが。どうにも疲労感が酷すぎて、コアの欠片の横に寝転がったまま、立ち上がる気にもなれず。
最早疲労感と言うよりも鈍痛だった。指先一つ動かそうとしても、筋肉が痙攣するだけで力は入らない。勝って兜の緒を締めよとは言うものの、この状況では緒を締める余力も残っていなかった。
ふと、頭上────つまり奥の方向から何かの気配を感じた。怠い身体を無理に起こして、武器を握る。
視界の先にいたのは、不思議げな表情をした魔物だった。良く見て見れば、コアを破壊する前に戦闘から逃げ出した個体だ。体毛は灰色で、体は小さく、額には短い角が二本生えている。まだ幼い犬のような見た目の魔物だった。
魔物が近づいて来た。
攻撃に備えて、姿勢を低く保つ。こちらの空気が変わったのを察してか、魔物は体を震わせた。震えるように翻って壁際へと走ろうとするも、そこから先に道がないことに気が付いて絶望的な表情を浮かべる。
何を思ったのか、魔物はその場で体を低くして、地面へと這い蹲った。
行動の意図が掴めずにひたすらに姿勢を保っていると、魔物が高く弱々しい声で鳴き始める。取り敢えず仕留めようと更に距離を詰めれば、鳴き声は近付くにつれて大きくなった。そして魔物は、体を更に小さく縮こまらせる。
…………あ、命乞い。魔物への敵対意識が完全に染み付いていて、その可能性を考えてすらいなかった。そもそも魔物に命乞いをする程の頭があるとすら思えなかったし。
一応は武器を下ろして、警戒心を解く。万一に備えてパイプから手を離すようなことはしないが、意識を戦闘から切り替えた。
いそいそと顔を上げた魔物が、こちらの様子に気が付いて体を起こす。時折警戒するように固まりながらもゆっくりとこちらに近づいて来た魔物は、俺の足に体を
恐る恐る魔物の頭の部分に手を伸ばすと、向こうも緊張はしているようで、そろそろと心配げな動きで頭を押し付けて来た。わさわさと頭を撫でつけると、緊張が解けて来た魔物も嬉しそうに高い鳴き声を上げる。
武器を地面へと置いて、両手で魔物の首筋を撫ぜた。確か、犬は首元が良いんだったか。
数分間撫でまわして、傍と我に返る。帰らねば。
完全に意識を犬に持ってかれていた。過去にアニマルセラピーとかいう単語を聞いた時に、頭の中で高齢者と戯れる魔物を想像していたせいで「何言ってんだこいつ」という思いしか抱いていなかったが、今ならば分かる。確かにこれは精神安定剤だ。
名残惜しいが、犬っころとは此処でお別れだ。俺は、ここまで仲良くなった魔物────一度は敵として相対したとは言え─────を殺す程の冷血人間ではない。
俺は常識を弁えた慈悲深き一般人。異論は認めない。えぇ、認めませんからね。何故か今まで叩き潰してきた魔物の数々が思い出されるものの、私は間違いなく慈愛に満ち溢れている男。
涙を飲んで、犬の頭を最後に撫でる。犬は嬉しそうに尻尾を振って、小さく跳ねた。
背筋を伸ばして、犬へと手を振る。完全に何も理解していない顔をしているけど、まぁ、自己満足なのでそこは。実際手を振り返されたりしたら絶叫ものだしね。
呆けた顔をしていた犬が、数度跳ねた後に、急にこちらへと跳んだ。反射的にパイプへと手を伸ばして、姿勢を低くする。犬は俺の目の前で着地し、完全に恐怖した顔で後退った。
…………俺は、慈悲深き一般人。
自らの反射的な行動が悲しくなって来て、パイプから手を放して、手の甲で目を覆い上を向く。ねぇ、どうして。完全な反射で武器を構えるってどういうことよ。
そうして固まっていたのを見て、犬が体をおずおずと擦り付けて来る。しゃがみ込んで犬の頭を両手で撫でれば、犬は目を細めて喜んだ。薄く空いた口から舌が覗き、浅い息が零れている。
よし、連れて帰ろう。なんか、昔は動物を飼うのが昔より一般的だったらしいし。ペットが今の時代にいても良いだろう。
しかも噂によれば、ペットとしての二大巨頭は猫と犬。ならば目の前にいる犬を連れて帰らないでどうする。
確かにね、魔物だからね、危険だけどね。まぁでもここまで近づいても攻撃してこないし、何か凄い服従のポーズ取ってたし、きっと大丈夫でしょう。
ただ取り敢えずは連れて帰るだけで、ペットとして飼うかどうかは他の諸事情と要相談だけど。餌代が嵩張るだのの話は、昔は大型犬を買っていたらしい父親が良く話していた話だ。
いつまでも犬と呼び続ける訳にも行かないし、帰宅で開く時間を折角だから名前を考える時間に充てよう。自分に諸々のセンスがないことは諸事情で重々知っているので、どうせ名前は直ぐに決まらないだろうことは何となく予想できる。
どうせだから父親に犬っぽい名前も色々聞くのが良いかもしれない。酒が入っている時に語らせたら止まらなくなりそうだから、素面の時を探して聞くか。
歩く足元に犬が絡みついて来る。少し歩きにくい。ただ、何となく咎めるような気にもならなかった。
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