2. 攻防・逃亡・再疾走
後藤に近づく影があった。ダウンジャケット、私服の男。
訓練された足取りであることを確信する。
後藤も相手に近づいていく。相手が、気付かれたことに僅かな驚きを見せる。
腰に手をやる男。
最後の二歩を一気に踏み込み、拳を横に振りきる後藤。
銃を抜くことの適わなかった相手の男は、後藤の裏拳に脳を揺らされてその場に沈んだ。
相手が倒れる前に抱き留める。
「どうした? 飲みすぎたか? だからほどほどにしとけって言ったんだよ」
周囲に聞いている者は……堅気の者はいないはずだが、しらじらしくも言っておく。
そのまま、後藤は相手の男を植え込みに隠した。
命は取らない。死体は処理の困難な、無駄な痕跡となる。
そろそろ駆け出すことはできないか。
信号は、赤である。まだ、赤である。
後藤は本当に奮闘した。
気配もあらわに近づく男を、サイレンサー付きの拳銃で迎え撃った。
背後を取って襲い掛かってきた男を、見事な合気で投げ飛ばした。
催眠ガスの霧吹きを取り上げ、逆に相手に噴霧した。
近辺の植え込みは定員をオーバーしつつあった。
「まだか……!?」
あまりにも遅すぎる。この信号機は、いつになったら青になるというのか。
焦燥感が高まる中、後藤の目の前を一人の老人が横切ろうとした。
新たな脅威に備えて、後藤の体が緊張を伴った、最適な弛緩状態を形作っていく。
しかし、老人の注意は、明らかに彼には向いていなかった。優秀なスパイ故の殺気の隠蔽というわけでもない。老人は、後藤に注意を払っていない。彼の注意は、視線の先の黄色い機械にあった。
無辜の一般市民であろうその男に、しかし後藤は精一杯の警戒を向けた。あの黄色い機械が爆発物である可能性、機械から銃が抜かれる可能性、機械から……。
……あの機械はなんだったろうか。
後藤の理性は、実のところ答えにたどり着いている。しかし、感情が理解を拒否している。
老人が、機械に設置されたボタンを押した。文字を象る赤いランプが、点灯状態を変えた。ボタン下のランプが消灯し、ボタン上のランプが点灯する。
後藤の優れた視力は、新たに点灯したランプが示すメッセージが「おまちください」であることをはっきりと視認していた。
ほどなく流れる「とおりゃんせ」のメロディ。
「押し、ボタン、式……」
呆然とこぼれた声は、決して「とおりゃんせ」の音楽に負けることなく、後藤自身の耳朶を叩いた。
徒労感、羞恥心、自らへの怒り、羞恥心、警戒心、羞恥心、ありとあらゆる感情が後藤の胸を灼く。
その場で丸くなりたい強い衝動をはじき返し、後藤はトップスピードで駆け出した。仲間の待つランデブーポイントへ。乗車してしまえば、現状とは比べ物にならない安全を確保できる。
仲間と、合流に向けた最後の詰めを図るため、後藤はイヤホンをはめた。従来の一方通行では、万が一仲間の状況が変わっていた際に対応できない。
「こちら後藤。『いしころ』応答せよ」
後藤の言葉に、応答が返った。
《発信者へ。氏名調の発信者へは、規定で応答できない。コードネームを名乗られたし》
ぐぬ、と後藤が言葉に詰まる。
やけになって大声で返したい衝動を飲み込んで、後藤は左手首につぶやいた。
「『けしかす』より『いしころ』。ランデブーポイントは近い。状況に変わりないか。送れ」
《『いしころ』より『けしかす』。現在、脅威となる敵影は確認できない。そのまま、急ぎ合流せよ》
スパイたるもの、目立たぬコードネームを名乗るべし。気取らず、周囲に溶け込めるものをコードネームとして背負うべきだ。
上長の思想は、分からないでもない。
それにしたって、絶妙に目に見えないものは、もっといろいろあるではないか。
『陽炎』とか『黄昏』とか。『夢幻』とか『新月』とか『霞』とか。
なんで『いしころ』に『けしかす』なんだ。紛れるにも、もっと、こう、あるじゃないか。
『けしかす』は走る速度を速める。
某国によって引き起こされる戦争を止めるために。
頑張れ『けしかす』w 負けるな『けしかす』w 日本の未来は、君にかかっているw
(了)
無限の赫 遠き蒼 今井士郎 @shiroimai
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます