無限の赫 遠き蒼

今井士郎

1. 今、そこにいる逃亡者

 内面の緊張とは裏腹に、外から見たら絶妙にリラックスして見える姿勢で、男は歩いていた。

 30も半ば。引き締まった体つき。見る者が見れば、男が曲がり角に訪れるたびに、わずかな大回りをしていることに気付いただろうか。

 ハロウィンも過ぎ、クリスマスに染まり始めるまで、わずかに数日を残している街。歩いているうちに、駅前の「街」と住宅地の境目が近づいてくる。

 丁字路を油断だらけで--外から見れば--しかしきょろきょろと見回しながら曲がり、彼は信号付きの横断歩道に着いた。

 スーツにコートにビジネスバッグ。順当に見れば、会社帰りのサラリーマンか。

 ふと、男が鞄を頭の辺りに持ち上げた。次の瞬間、衝撃が体を揺らし、男はよろめく。遅れて耳に届く破裂音。

「この……」

 鞄を下ろさないまま僅かに呻いて、左の手首を口元に近づける。

「串倉ビル7階。スナイパー。排除願う」

 ぼそぼそとした声に返事はない。しかし彼の優れた聴力は、再びの破裂音を捉えていた。恐る恐る鞄を下げ、視線の先に脅威がなくなったことを確認。

「感謝する」

 そう呟いて、鞄を下ろした。

 鞄の表面を確認する。穴が開いているが、内部の防弾プレートはえぐれているのみ。まだ、穴は開いていない。このまま3発・4発と防ぐのだと考えると、大いに懸念が出てくる。

 さっさと先に進みたい。そのためには、この信号に、青になって欲しい。


 男はスパイだった。

 内閣情報調査室、国際部門エージェント。本名はかつて武村といったが、今は後藤に変えられた。武村は戸籍上、すでに死亡している。

 別途コードネームもつけられているのだが、上役に命名されたそれを、後藤は頑なに嫌っていた。先ほどの支援依頼も、本来であれば名乗るのが筋である。匿名での依頼が許されるのは、カウンタースナイパーと後藤の、個人的な人脈によるところが大きい。

 先ほどは運が良かった。自分を狙う絶好の狙撃ポイントに気付いた後藤は、幸運にも、夕方の空にかすかなスコープの煌めきを目視した。防弾の鞄を掲げるのが間に合わなければ、今頃彼の頭は割れたスイカになっていたことだろう。


 狙われる心当たりは、残念ながらありすぎるほどにある。現在、後藤がコートのポケットに確保しているUSBメモリ。この中には、近隣某国の予定している軍事行動の規模・部隊・スケジュールetcの重要情報がこれでもかと詰まっている。

 某国エージェントが隠れ蓑にしているペーパーカンパニーのオフィスに忍び込み、まんまと情報を入手した後藤であったが、同じオフィスを見張っていた他国勢力にも現場を晒すことになってしまったらしい。この先で仲間のピックアップを受けたのちに、安全な拠点に転がり込まなくてはならない。


 後藤の視線が走査した範囲で確認できた狙撃ポイントは幸いにも、先程仲間に狙撃させた一箇所だけだ。あとは近くで目視できる脅威に備えれば問題ないはずである。

 信号を無視して、このまま駆け抜けることを考える。

 自動車はかなりの台数、かなりのペースで走り抜けており、危険なのは明らかだった。

 絶対の安全はない。スパイの行動は常にリスクにさらされ、リスクテイクを迫られる。他勢力の妨害に長時間さらされるリスクと、害意すらない障害に殺傷されるリスク。後藤は脳内で、両者を簡単に比較する。

 この信号を目視して、はや数分。これまで、赤信号は変わっていない。だとすると、変わるまで長くて数十秒。

 少なくとも、一足一刀の間合いに脅威たりうる人影ナシ。待てる。


 待つ。

 これが、逃亡者、後藤の選択だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る