第39話

 ――地獄の旅が終わりを告げてから七日後。松井戸以外の四人はレストルームのカウンター席に、仲良く横並びに座していた。松井戸の居場所は、当然留置場である。

「はい、お待ちどうさん」

 マスターが渋い声で、全員にアメリカンコーヒーを振舞った。東はそのままブラックで、真白と新田は砂糖を入れてから飲んだ。茅野はこの中で最年長なのに、誰よりも多くの砂糖をコーヒーの中に入れた。その量たるや否や、危うくコーヒーがカップからあふれ出すほどだった。

「糖尿病になりますよ、茅野さん」

「大丈夫だよ、真白ちゃん。これまで僕が健康診断で引っかかったことは、たったの三回だけだからね」

「その年齢で三回なら、そこそこ多いと思いますよ」

 真白と茅野が、そんな熟年夫婦のような会話をしている。東と新田は、二人のことを妬ましそうに睨みつけながら、ただただコーヒーを口に運んだ。そうしてよそ見しながら飲んでいたからか、時折二人は互いのカップを取り違えて口に運ぶこともあった。だが、二人は気付かなかった。あまりの妬ましさに、コーヒーの味なんて分からないようだ。

「いやー、それにしてもよかった。真白ちゃんが疑われた時はどうしたことかと思ったけど、まさかあの松井戸さんが、真白ちゃんに罪を擦り付けようとしていたなんてね。驚いた。今回の事件は、警察の不祥事だらけだったね」

 マスターが、壁に阻まれて見えないはずの岡濱東署の方を向きながら、冗談めかして話した。四人はその言葉を聞いて、思わず啜っていたコーヒーを止めた。全員一様にカップを置く。


 新幹線から全員一緒に連行されて、取り調べを受けた。一時とはいえ捜査線上に浮上した東はもとより、茅野や松井戸にしても同様に取り調べを受けた。捜査本部の人間から見れば、二人は遥々逃亡犯を連れ戻してきた英雄というよりは、犯人逃亡の手助けをした可能性のある人間としてみなされていた。松井戸が捜査を攪乱したうえでのそのようにしたから当然の結果だと言えるが。茅野は少し不服に思っていた。この中の誰よりも早く、真相に辿り着いていたのに――そんな思いさえあった。

 しかし、そんな取り調べは長く続かなかった。まず解放されたのは、東だった。あまりにも事件のことを知らなかったので、ただの妄想が激しい変態として処理されたのだ。警察のメンツもあるので念のため厳重注意は行ったが、ほとんど形だけのものであった。東には、何の罰則も課せられなかった。

 次に解放されたのは、茅野である。茅野はただ優秀な捜査官として、松井戸の暴走を止めた。それは称賛されこそすれ、非難される必要などなかった。ただ東より時間がかかったのは、車内で聞いた話を事細かに確認する必要があったからだ。

 松井戸に頼まれてはいたが、茅野は車内で聞いた話を正直にすべて話した。罪を償う機会を奪うことが真白を救うことになるとは、到底思えなかったからだ。むしろ自分がした罪に対して罰が与えられないことは、冤罪を何よりも憎む真白にとって、最大の屈辱となるとさえ思えた。

 だが、茅野が解放された次の日、真白と新田は同時に解放された。二人とも、お咎めなしと判断されたのだ。真白と新田は自分たちは罰を受けるべきだと岡濱東署のロビーで抗議の声を上げるが、その声に答える捜査員はいなかった。むしろ冷たい目が向けられ、「ガキの遊びに付き合っている暇はない。早く帰れ」と罵られる始末だった。

 茅野は不審に思い、無理を承知で青鳥に今回の事件の顛末を聞いた。青鳥は少し遠い目をしながら、松井戸が取り調べでした供述の要点をかいつまんで教えてくれた。

「あいつ、捜査会議で自分が言った、天城真白や新田忠勝が不利になる情報はすべて偽情報だったって言いやがった。新田が犯行前にレストルームに現れたことなんてなかったし、天城真白が出したというであろう脅迫状だって、自分が河野に渡したものだってよ」

「そんなの、明らかに嘘じゃないですか。それなら河野さん殺害の時に残された靴跡はどう説明するんですか。負北が真白ちゃんにあったという証言は、どうなるんですか」

「あいつが嘘ついてることなんて分かってるんだよ!」

 突然大きな声を出した青鳥に、茅野はたじろいだ。何か地雷を踏んだのかと心配したが、その握り締められた拳を見て、青鳥もなにか抱えているものがあることに気付いた。

「天城真白と新田忠勝、この二人が交換殺人を企てたことは間違いないだろう。だが、それを立証する証拠は何もない。新田に訊いた話では、二人で逃げ切るつもりだったからと、河野殺害時に履いていた靴は処分したらしい。だからあの現場に居たことが証明されたのは、残された足跡と一致する靴を持っていた松井戸だけだ。松井戸は新幹線の中で事件の真相をすべて話したと言っているから、天城真白や新田から秘密の暴露があったところで、奴の嘘を暴くことはできない。その上、真実を聞いた自分に同情した他の四人が偽証するだろうが、無視するようにとさえ忠告してきた」

「どれだけ用意周到だろうと、そんな綻びだらけの証言に信憑性なんてない。難しい立場でしょうが、自分に捜査させてください。そしたら必ず――」

「お前はもう、この捜査から外れろ」

「どうして!」

「上からの指示だ。天城真白や新田忠勝を無暗に逮捕して、過去の冤罪事件がこれ以上マスメディアにクローズアップされたら困る。だから二人の捜査は取りやめて、松井戸に全ての罪を被せて捜査を終了しろとな。当然、真実を知っているお前は捜査から外される。その内、何らかの処分も下るかもしれないな」

 茅野はついに我慢できなくなり、青鳥の胸倉に掴みかかった。

「それじゃあ、あの冤罪を生んだ頃の警察と何も変わらないじゃないか! 真白ちゃんや新田君は、自分たちが正当な罰を受けることでこの事件を終わらせようとしたんだ。それなのに、それなのに……」

 青鳥の胸倉を掴む力が徐々に弱まり、茅野は無様に膝をついて涙を流した。青鳥はそのままの状態でタバコに火を点け一服すると、「松井戸は九州から立つ前に、何かを捨てなかったか」と茅野に尋ねた。

 茅野は新幹線乗車後に松井戸が、わざわざホームに戻って何かを捨てたことを思い出した。しかし、それを口にすることはできなかった。その真意に今更ながら気付き、自分の体たらくを思い知ったからだ。

 青鳥はそんな茅野の様子を見てすべてを察したが、それ以上は深入りせずに話を続けた。

「もしあったんだとしたら、きっとそれは天城真白と河野の指紋がべったり付いた、脅迫状だろうな。唯一といっていい、二人の交換殺人を立証できる可能性を秘めた証拠品だ。それをその時点で捨てたとなると、松井戸は最初からすべての罪を被るつもりだったんだろうな。だから全員の前で、触れにくいことにもすべて触れながら、全容を明らかにした。自分が、罪を被るために」

 茅野は、それ以上何も言えなかった。

 かくして混迷を極めた連続警察官不審死事件は、それぞれが単独の犯行として処理され、河野殺しの罪で松井戸、波野殺しの罪で負北が起訴されることが決まった。他の誰も、罰を受ける者はいなかった。

 そうして、今このレストルームに四人が一堂に会すことができているのだ。だが当然そんな真実は表舞台に出ることはなく、裏に、決して光の届かない闇の底に、葬られたのだった。

「マスター、コーヒーのお替りもらえますか」

 茅野がそう言うと、マスターは返事もせずにすぐに店の奥へと引っ込んでいった。自分の一言で空気が悪くなったことが気まずかったのだろう。

「私、これからどうしたらいいのでしょうか」

 真白が唐突にそう言う。東と新田の二人はチャンスなどという不埒な考えをしたが、人生経験の浅い二人では特に気の利いたことなど言えるはずもなく、あえなく撃沈した。

「……俺、一つ真白ちゃんに言っておかなきゃならないことがあるんだ」

 茅野はそう言うと、懐から一枚の写真を取り出した。松井戸が茅野の車の車内で発見した、あの盗撮写真だった。その写真を見た真白は、目を見張った。東と新田の二人も、同じ反応をした。

「……裏も、見てくれるかい」

 真白は、恐る恐る写真をひっくり返す。東と新田の二人も真白の後ろから覗き込み、そこに“桜”の字を認めた。たまらず、新田が叫ぶ。

「桜と一緒に映ってるからこう書いたってことは、これは写真のタイトルってことですよね。つまり、他にも何枚も盗撮写真があるってことですか!」

 新田が憤りを感じながらそう叫んでも、茅野は動じなかった。その上、真白と東の二人が新田に便乗することもなかった。

 新田が真白の方に目をやると、そこには口元を手で覆いながら、涙を流す真白の顔があった。東は、そんな真白の肩を抱いている。新田には、何がなにやら理解できなかった。だが、むき出しにした闘争心を今更治められるわけもなく、混乱した頭のまま叫び続けた。半ばやけくそだった。

「ほら、こんなに泣いてるじゃないですか。茅野さん、ストーカーというのはそれだけ恐怖心を与えるんですよ」

「確かに、突然こんな写真を見せられたら怖いだろう。本当に申し訳ないと思う。ただ、もう隠しておくわけにはいかないんだ。俺の親父のためにも。真白ちゃん――いや、桜ちゃんのためにも」

 茅野が力強くそう言うと、「茅野さん。あなたまさか……」と真白が涙ながらに言った。新田は何のことか分からなかったが、茅野が何か話しだしそうだったので、空気を読んで黙っておくことにした。

「久しぶりだね、桜ちゃん。覚えてくれていて嬉しいよ。父が平さんの会社で働いていて、僕が君の家庭教師をしてた頃以来だから、もう十年以上経つね。小学校の頃の君は繰り上がりの足し算も怪しかったのに、今は大学で優等生。人は、変わるものだね」

 真白は、涙を流した。盗撮されていた恐怖のためではなく、昔馴染みに出会えたその感動からであった。あの一件以降、真白に会おうとする酔狂な顔見知りの人間は、誰一人としていなかった。だが茅野は――かつて子どもながらに淡い恋心を抱いた憧れの人は――こうして会いに来てくれた。

 陰にこそこそ隠れていたし、こちらに来てから初めて相対したときの印象など、最悪であった。意地汚い人間め、地獄に落ちろ……とさえ思った。だがそれも、茅野の優しさからくるものだったと、真白にはすぐに分かった。

「俺の親父は、ずっと後悔してたんだ。つい酒の席で、平さんが逮捕されたことへの愚痴をこぼした勢いで、住所を大声で話してしまったことを。それ以降、平家に嫌がらせが始まったことを。ひょっとしたら、父が話したことと平さんの家に嫌がらせが始まったことは、直接の関係が無かったかもしれない。でも、父にはそうは思えなかった。自分のせいで、平一家が滅茶苦茶になった。そうして自分を責め、心を病んだ。俺たち家族が話しかけても、まるで返事をしない。ただうわ言のように、桜ちゃんは元気にしてるだろうか。桜ちゃんに会いたい。会って謝りたい。と、言うだけだった」

 茅野はそこで、コーヒーを仰いだ。が、既に空になってマスターにお代わりを頼んでいたことを思い出した。茅野は一瞬店の奥の方に目をやったが、空気を読んだのか、気まずさに耐えかねたのか、マスターの姿はそこに無かった。

 茅野は一度深呼吸し、話を続けた。

「だから俺は警察官になって、桜ちゃん、君を探し続けたんだ。そして、見つけた。でも、父のせいでひどい目に遭ったかもしれない桜ちゃんに、どんな顔をして会えばいいのか、俺には分らなかった。だから、こうして写真を隠し撮りし、父に送り続けた。三か月前に、父が亡くなるまでね。臨終のとき、父は俺の方を向いて感謝の言葉を言った。そして、安らかに、眠るように息を引き取った。盗撮は悪いことだし、桜ちゃんを不快にさせたのなら申し訳ない。ただ――」

「もういいです、茅野さん。私は、あなたを責めたりしません。むしろ――」

 真白は溢れんばかりに涙を溜めた瞳で茅野を見つめた。

「私を――あの時代に取り残された抜け殻の私を――見つけてくれて、ありがとう」

 時計の乾いた針の音が、店の中に響いた。

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