第38話

 松井戸は、遠い目をしながらあの日のことを語り始めた。その目はどこか、恐怖を帯びている。だが、それはその事実が明らかになるのが怖いのではない。あの日の出来事を思い出すことそのものが、松井戸にとっては怖くてたまらないのだ。

 暗闇に響く河野の怒号。それは、普段聞く冗談めいたものとはまるで違った。そして、殺意を持ったあの目。生涯離れることはないだろうその光景と音響は、松井戸の心に深く、暗い影を落とした。

「あの日、僕は連続誘拐事件の裏付け捜査に出ていた。あの時は徹夜続きでね、さすがに疲れてたんだ。冷静な判断なんて、できなかっただろうな。それは、河野さんも同じだったんだろう。ましてや、過去の冤罪事件で脅迫されてたんだから、尚更だ。とにかく俺は、市内を走り回っていた。そんな時、ふと気になってあの河原に寄った。当然気になったのは、真白ちゃんが被害に遭ったという誘拐未遂のことだ。今となっては狂言だったと分かったけど、その時は本当にあったことだと思い込んでいた。でも、逮捕された誘拐犯はその未遂事件を否定していた。いや、正確に言うなら、その時間に別の誘拐事件を起こしていた。その事件は目撃者が完全にいなくて、我々も把握できていなかったから、逮捕されるまで別の犯人がいる可能性なんて考えもしなかった。

 そう考えると、途端にあの未遂事件が謎だらけに思えてきた。茅野が言ったように、犯人が間近に迫っている目撃者に全く気付かなかったこと。これまで捜査の目を掻い潜り続けた犯人が、まだ警戒態勢が敷かれている可能性の高い同一の現場で犯行を行ったこと。その前の被害とは違い、被害者を無理やり連れだそうとしなかったこと。そしてなにより、真白ちゃんも目撃者の久留米さんも、犯人が車で逃走する音を聞かなかったことだ。前日の犯行では、車があったことでうまく逃げおおせた。なら、次の日も車を用意するのは当然だ。それなのに、犯人は走って逃亡した。それは何故か?」

 松井戸はそこで息を継ぎ、更に話を続けた。

「そんなことを考えていたら、俺はいつの間にかあの河原に行っていた。もう鑑識がしこたま調べた後だ。現場になんにも残っていないことは、火を見るより明らかだった。そう冷静に判断していれば、あんなことにはならなかったんだけどな。とにかく俺は疲れ切って鈍くなった頭を抱えて、あの河原に行った。そしてそこで、河野さんの姿を目撃したんだ。早帰りしたのに、なんでこんなところにいるんだろうとは思ったけど、そのことを深く考えることができるほど、俺には体力が残されていなかった。とかく単純に、河野さんも俺と同じようにあの誘拐未遂の不審点に気付いて捜査しに来たと、そう考えた。

 だから俺は、辺りを一切見まわすこともなく、ただ視線を落として河原の階段を降りていく河野さんの後を走って追いかけた。今思えば、その時に違和感を持つべきだったんだ。本当にあの未遂事件を調べに来たのなら、河原から下に降りる必要なんてない。あの未遂事件は、すべてが階段の上で完結していたのだから。それに河野さんは、周囲の警戒を怠って捜査するほど、間抜けじゃない。単独で捜査するなんて、以ての外だ。だが、当時の俺はそんなことは考えず、河野さんの後を追って階段を降り、声をかけた」

 松井戸はそこで、言葉を止めた。あまりの話の重さに耐えかねて、俯いて話を聞いていた他の四人が顔を上げると、そこには全身を震わせて、なにかに怯えるような目をする松井戸の姿があった。

 誰もが、話の続きが気になっていた。しかし、誰も続きを催促することなどできなかった。それほどまでに、松井戸が怯えていたのだ。

 松井戸が続きを話し始めるまでに、五人を運ぶ白い車体は随分と進んだ。他の四人は、その続きを聞くことを半ば諦めていたほどだ。

「声を掛けたら、河野さんは恐る恐る振り返った。そして僕の姿を見た途端、鬼の形相なんて言葉では表せられないくらいの顔つきで、僕のことを怒鳴りつけたんだ。お前だったのか、なんでお前がこんなことをするんだって……。当然僕には、何のことか分からなかった。だから聞き返した。何のことですか? って。それがまずかった。河野さんは逆上して、僕の方に近づいてきた。手には、証拠品から盗み出した拳銃を持って、殺意に満ち溢れた目で僕を見ながら、本気で僕を殺そうとして、本気で僕を恫喝しながら、こっちに近づいてきた。

 辺りは暗い。だから河野さんも、遠くから僕を狙って打つことは難しかったんだろう。拳銃を構えて、着実にこちらに近づいてきた。河野さんは、捜査の時に使うペンライトを片手にしていたから、僕の方からはその位置が手に取るように分かった。そのほの暗い明りに照らされる河野さんの顔も、ペンライトで支えられた拳銃を持つ右手が、寸分の狂いもなく僕の方に向けられていることも、分かった。怖かった。怖くて、怖くて、僕はその場に立ちすくむことしかできなかった」

 松井戸がようやくその重い口を開いて、続きを話し始めるころには、新幹線の車内に次の停車駅が新神戸だということを知らせるアナウンスが流れていた。

 もう間もなく、この暗く重い旅も終わりを告げる。それに安堵する心が半分。残りの半分は、恐怖におののく松井戸を不憫に思う気持ちと新幹線の扉が開いた時の地獄絵図を想像して辟易とする気持ちだった。

 誰もがこの旅の終わりを願いながら、誰もがこの車両の扉が新神戸で開かれることを拒んだ。二律背反。その二つの願いが同時に叶うことなどあるわけがない、そう分かっているのに、願わずにはいられなかった。

「暗闇でも河野さんの顔がはっきり見えるとこまで近づいた時、僕は本気で殺されると思った。そんな時、不意に昔のことが思い出された。僕が相棒を撃ち殺した、あの時のことだ。あの時、星野はこう言ったんだ。お前が俺の近くで銃を構えていたなら、その貧弱な足でも払って、明後日の方向に撃たせることができたのにな……って。信頼している人間に殺されそうになる恐怖心と昔の相棒を殺した罪悪感がごちゃ混ぜになった俺の心は、その相棒の言葉に忠実に従うことを選んだ。俺は河野さんに撃たれる前にしゃがみ込んで、その足を払った。

 火事場の馬鹿力って言うのかな。人間、追い詰められると普段からは考えられない力が出るもんだ。稽古の時ですら一度も受け身を取らせたことが無かった相手を、一発で仕留められたんだからな。……一発で、仕留め……」

 松井戸は、そこで言葉を止めた。そして自分の足元を見つめて、誰にも聞こえないような小さな声で呟いた。

「きっと、お前が守ってくれたんだよな。星野……」

 その小さな呟きは周囲にいる誰にも届かなかったが、天国の相棒には届いた。松井戸は、そのように感じた。

 茅野が空気を読まず、その後の拳銃の行方について尋ねる。現場からそんなものは見つかっていないから、気になったのだろう。松井戸の答えは、至極簡単だった。現場から持ち出し、その日の内にこっそり保管庫に戻した。ただ、それだけのことだった。

「それにしても、その河野さんという人はどうして、松井戸さんの登場でそんなに逆上したのでしょうか。まずは落ち着いて話し合ってもよさそうなものですけど……いきなり拳銃を抜くなんて……」

 東がそう言うと、恐怖でもう何も言葉を紡ぐことができないでいる松井戸の横にいる茅野が、首を左右に振りながら答えた。

「きっと河野さんは、脅迫状を受け取ってすぐに調べたんだろう。そして、真白ちゃんがあの事件の関係者であることを知った。脅迫状の犯人が真白ちゃんで、その動機が過去の冤罪事件だと分かった時、河野さんは覚悟したんだろう。真白ちゃんに殺されることを。そして、もし彼女が殺すことを躊躇ったら……その時のために、拳銃を持っていた。そんな極限状態の中、現れたのは信頼を置いていた相棒だった……。もう、すべて投げ出したくなったんだろう。過去の自分も……そこから形作られた今の自分も……」

 力なくそう言うと、五人を乗せた新幹線は丁度新神戸駅に到着した。座席に座っていても、ホームから捜査員たちが大挙して押し寄せてくることが分かった。

「詳しいことは知らんが、後のことは頼んだぞ。真白ちゃんのこと、絶対に刑務所になんか入れるな。彼女は、何も悪くないんだ……信じてるぞ、茅野」

 松井戸はそう言うと、例の盗撮写真を茅野に手渡した。

 そしてそのことに茅野が驚こうとした時、捜査員たちが座席を取り囲んだ。手には令状と手錠。あのやる気のない捜査員たちの目が、今回ばかりは獲物を狙う野獣の如く鈍く光を放っている。

 ただでさえ衝撃的な暴露の連続で疲弊した五人が、そんな目に当てられて何か言い返せるわけもなく、全員大人しく連行されることになった。手錠は真白と新田の二人にかけられ、他の三人は屈強な捜査員に両脇を抱えられる形で連行された。

 地獄の旅は、そこで終わりを告げた。

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