第36話

「あの……この空気の中で話すのは非常に気が引けるのですが、僕には全く話が分からないんです」

 窓際の席で大人しく成り行きを見ていた東が、申し訳なさそうに、気を遣いながら小声で話し始めた。しかし、その声に答える者はいない。

 東は軽く咳払いをした後、全員に聞こえるくらいの大きな声で、独り言という名の会話を始めた。

「よーし、じゃあ東くん。状況を整理しよう。なーに、どうってことはない。友達も恋人もいないうえに、家族ともうまくコミュニケーションが取れない僕が生み出したもう一人の僕との会話だ。いつもやっていることじゃないか」

 東の同情を誘う作戦は、失敗に終わった。少しばかりの寂しさを覚えながらも、東は誰かが反応してくれるまで、一人で会話し続けることを選んだ。

「まず今回の事件は、匿名掲示板で真白さんとここにいる好青年、新田くんが出会うところから始まる。やがて仲良くなって直接会ったとき、新田くんはかつての命の恩人だった人と真白さんを重ね合わせた。――僕にはそのことが何のことか分からないけど――そしてそんな彼女を救いたいと考えた新田君は、彼女が人生を狂わせることになった冤罪事件の関係者を亡き者にすることを提案した。しかし、真白さんは最初それを拒絶した。

 ところがどっこい、半年前に真白さんの仇の刑事についての情報が全国紙に載ったことで、状況は一変した。それを見た新田君が、一人で突っ走ってその刑事を殺すかもしれない。そう案じた真白さんは、二人で逃げ切るための交換殺人計画を考えたと言って、新田君に計画の協力を仰いだ。新田君はその計画に乗り、実行した」

 また東は四人の方を見る。誰も反応を示す様子は無い。

「ところがその計画は、二人で逃げ切るための計画ではなかった。新田君が真白さんを助けたくて殺人を企てたように、真白さんも新田君を助けたくて交換殺人の計画を立てた。そしてその計画のフィナーレは、真白さんがすべての罪をかぶって自殺することだった。だから、必要ないはずのもう一本の凶器があった」

 東は、息継ぎするふりをして四人の反応を窺った。松井戸は腕を組みながら目を閉じ、なにかを考えこんでいるようだ。茅野の方は、視線を真白に釘付けにしている。真白と新田の二人は変わらず、涙を流しながらお互い抱き合っている。

 内心東は、新田のことを羨ましいとさえ思った。自分だって真白を助けるために、警察に偽証するというそれなりに危ない橋を渡ったつもりだ。それなのに、自分はまだ真白との濃厚接触どころか、軽いスキンシップすら果たせていない。その待遇の差に、憤りさえ感じた。

 だが考えてみると、その差は当然かもしれない。自分は警察に思い付きの嘘を適当に垂れ流しただけで、自分の人生を、一生を棒に振るほどのことをしたわけではない。

 その上、未だにこの事件の真相を何一つ掴んでいない。霊園の外で茅野から真白の過去の話を聞いた時は、心の底から驚いた。確かに生家の近くで起こったことだし、その騒ぎ自体は知っていた。その時分には、平家には絶対近づくなと親からよく叱られたものだ。

 さりとて、その騒ぎを知っていたとして、真白がそのことに関係していたと気づくわけがない。東は実際に騒動の渦中にいた平家の誰とも会ったことはないし、真白は改名までしている。関係者だと気づく方がおかしいだろう。

 だが新田は、すべてを知っていた。その上で、真白を救うために一生を棒に振る覚悟まで決めていた。もちろん、その方法が称賛されることは金輪際ないだろう。それにそのせいでこのよう悲劇が生まれたのだとしたら、新田こそ諸悪の根源というべきかもしれない。

 しかし真白にとっては、自分の命を賭して守りたいと思えるほどの人間だったのだ。それがなぜかは、東には分からなかった。多分、真白本人もそれを分かっていないだろう。言葉では説明することのできない何かが、そうさせたのだ。

「しかし、真白さんが自殺してすべての罪を被るという計画は、変更になった。だからこうして二人は生きたまま、警察に連行されている」

 東は二人について考えることを止め、再び会話を始めることにした。新田への憎悪とさえいえる嫉妬心も、とりあえず心の中にしまうことにした。

「ところがここで、いくつか分からないことがある。まずは、なぜ計画を変更する必要があったのか。松井戸さんたちの話では、何らかのアクシデントによるということだったが、それはなにか。そして、真白さんは、どうやってすべての罪を被ろうとしたのか。石橋を壊れるまで叩き、やっぱりこの橋は危なかったんだと周囲に言いふらすほどの慎重な性格をしている真白さんのことだ。なにか、あの日記帳以外にも自分が罪を被る工作をしているはずだ」

「お前、もう喋るな」

 東が待っていた他の人間の反応が返ってきたが、その反応は期待していたものとはまるで違うものだった。茅野が冷たく、完全に人を下に見る目で睨みを利かせながら放ったその言葉は、東の心に深く刺さった。もう金輪際、人間と話すことなどごめんだと感じるほどに。

「私が罪を被ることは、簡単だったよ」

 涙をのんだ真白が、話始めた。東は、少し心が救われた気がした。

「まずこの計画殺人において重要なのは、目撃者を一人も出さないことだった。目撃者が居たら、私が罪を被ることなんてできないから。だから現場をよく下見して、確実に人がいない場所を選んだ。そして忠勝くんにこう言ったの。ターゲットを間違えないために、軽く顔合わせをしておいた方がいい。私がバイトしているカフェに来て、私が親しげに話しているカウンター席のお客さんに、警察志望だって話してほしい。その間に、私が脅迫状をその人のカバンに入れるから、ってね。

 彼は素直だから、その通りに従った。私も、計画通り脅迫状を河野刑事のカバンの中に忍ばせた。だけどこれをやった本当の目的は、脅迫状に私の指紋を残すことだった。そうすれば、凶器の購入履歴と脅迫状の指紋。そして自白しているようにしか読めないその日記帳……二件目の現場で被害者の隣に倒れる私。そしてそこに残された凶器からも、私の指紋。犯人じゃないと思う方が、無理な話よね」

「物証が完璧だった……てわけか」

 東がそう言って視線を落とすと、真白が更に話を続ける。相変わらず二人の刑事は、押し黙っている。

「物証だけじゃないわ。状況証拠もばっちりにしておいた。まず当時岡濱市で起こっていた連続誘拐事件を利用して、私が被害に遭いそうになったという狂言をした。これには、目的が二つあった。一つ目は、悪い噂をたててあの河原に人が寄り付かないようにし、より目撃者が現れる可能性を下げること。そして二つ目は、容疑者を私たち以外に作り出すことだった」

「容疑者を別に作り出す? どうやって?」

「その人は、河野刑事の殺害場所として選んだ河原をランニングすることが日課だったの。だから、その人に第一発見者になってもらおうとしたの。その人は連続誘拐事件の時にも現場に居合わせた人でね。私の狂言を含めれば既に二度も同じ場所で事件に遭遇して、通報したことになる。その上、河野刑事の事件も通報したとなっては、少しできすぎじゃないかと疑われる。そう思ったの」

「そうして、その人に罪を擦り付けるつもりだったの?」

「そうじゃないわ。確かに、最初は河野刑事殺害を疑われることになると思う。さっきの理由もそうだし、なにより河野刑事殺害の第一発見者になった時は、日課のランニングの時間とはズレるはずだったんだよ。これまでは夜の十時くらいに走って事件に遭遇、今回は夜の八時頃に走って事件に遭遇。当然警察はこの時間のズレが意図的なもので、河野刑事殺害にこの人が関与していることを裏付ける証拠だと思い込む。

 でもそこで、その人がこう証言するの。以前誘拐犯から救った女の子――つまり私に、同じ時間帯に同じ場所を走って二度も事件に遭遇したから、警察はあなたを疑っている。走る時間を変えるべきだ。と、言われたってね。後は連続誘拐事件の犯人が逮捕されて私の狂言がバレるか、私が自殺すればその人の疑いも晴れるし、私の犯行を疑う人はいなくなる。そういう算段だったんだけどな」

「ずいぶん怖い計画だね。でも、そこまで綿密に計画していたのに、なんで変更することになったの?」

 東が純朴な目を向けながら真白に尋ねると、真白は視線を二人の刑事の方に向けた。この先のことも言っていいのか、伺いを立てているようだった。しかし、松井戸も茅野も答えようとしない。

 そんな様子を見て、真白は一度視線を落とした後、もう一度東に向き直って話を続けた。

 東の目には、意を決した真白の顔が映った。

「河野刑事殺害の実行日。私がアルバイトを終えて帰ろうとすると、新田君に話しかけられたの。私は驚いた。本来新田君は、もう地元に戻っているころだったから。なんでまだ岡濱にいるのかって。でも、新田君が言ったその次の言葉には、もっと驚いた。新田君は、こう言ったの。

 ――ごめん、僕の手で河野刑事を殺せなかった。誰かに、先を越された――そういう新田君の手には、私が凶器として渡した包丁が、新品のまま握られていた。新田君はそのままこう続けたわ。――僕は約束を果たせなかったから、あなたも約束を守る必要はない――ってね。でも、その選択肢は私に無かった。新田君が直接手を下していないとはいえ、河野刑事が亡くなったことに変わりはない。それに、真犯人がもし新田君の姿を見ていれば、自分が罪を逃れるために利用されるかもしれない。このまま計画を実行して、私が罪を被る方が安全だと思えた。でも――」

 視線を落とす真白。

「でも、私の方も失敗した。私も先を越されて、ターゲットを殺された。その人の罪も被って死ぬことも考えたけど、話を聞いてみたらその人も冤罪事件で人生を狂わせた人だった。あまり詳しくは聞かなかったけど、とにかく冤罪事件に強い恨みを持っていることは分かった。だから、私が罪を被って死ぬことを、その人は望まないと思った。だから私は、死ぬのを止めた。素直に警察に連行されて、自分の罪を償う。そうするしか、この事件は終わらせられないと思った。

 ただ、最後にお父さんに謝りたかった。復讐心に染まらないでって、私に言ってくれたのに。こんなことをした私を許してって……そう謝りたくて……」

 真白は、再び泣き始めた。

 嗚咽と重たい沈黙が、五人の周辺と車内を支配した。

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