第35話

 真白と新田の二人が涙を流したことで話は一時中断するかに思えたが、ここで今まで押し黙っていた松井戸が、真白の日記帳を取り出して話し始めた。

「新田君、君はこれの存在を知らないだろ」

 真白と新田は僅かに顔を上げる。その刹那、真白は日記帳を松井戸の手から奪った。新田は呆気に取られて、きょとんとしている。

 日記をぎゅっと抱きしめる真白を見て、松井戸は少し話すことを躊躇した。が、新田や茅野が続きを話すよう催促したので、気乗りしないながらも話すことにした。

「これから話すのは、僕の想像や妄想が多分に入っている。だから、違うところは違うと否定してくれ。まず、今回の交換殺人を持ち掛けたのは新田君、君からじゃないか」

「は、はい。そうです。悩みの種が無くなれば、きっと真白さんを救うことができると思って、それで……」

「しかし真白ちゃんは最初、その話に乗ってこなかった」

「はい、そうです。冤罪に関わった河野刑事という人がどこにいるか分からないから、殺すことなんかできないって。そう言ってました」

「それでも君は、提案し続けた。どこにいるか分からないなら、調べればいいと。僕が調べるからと、そう言ったんじゃないか」

「……松井戸さん。あなたは何でもお見通しですね。まるでその時のやり取りを見ていたようだ。あなたの言う通りです。僕は何度も彼女に会っては、提案し続けました。僕が必ず、この手で仇を討つと」

「そして半年前、突然真白ちゃんが話に乗ってきた。それも、詳細な計画まで考えてきて」

「あの、なぜ時期まで正確に分かるんですか? それに、真白さんが計画したところまで。僕から話を持ち掛けたんだから、普通僕が計画の立案者だと考えますよね」

「それは――」

「もうやめて!」

 松井戸が新田の質問に答えようとしたその時、真白は日記を強く抱きしめながら叫んだ。新田は真白の顔をじっと見つめている。真白はそんな新田に一切目を合わせようとせず、ただただ俯いて時間が過ぎるのを待っているようだった。

「真白ちゃんが話さないなら、僕が話すよ」

「やめて! もういいでしょ。さっきの話を聞いて、私がいかに罪深かったか分かったから。松井戸さんも、もう全部分かってるんでしょ。これを読んで、この日記の本当の読み方にも気づいて……これ以上、何も話さないで。お願い」

 涙目の真白というのは、とてつもない破壊力と訴求性を兼ね備えていた。以前の松井戸なら、「うん、分かった」と軽はずみな返事でもし、そこから本当に何も話さなかったかもしれない。

 だが、今の松井戸はもうそんな軽はずみなことはしなかった。真白を泣かせることになると分かっても、続きを話すことを止めなかった。

「新田君。この交換殺人には、表の計画と裏の計画があったんだ。表の計画は君が知っている通り、交換殺人で完璧なアリバイを作り上げて見事に逃げおおせることだった。君は、その計画を信じて実行した。そうだね」

「はい」

「でも、裏の計画ではそんなハッピーエンドになるはずではなかったんだ。それを証明するのがこの日記と……真白ちゃんが凶器として購入した包丁の本数だ」

「本数?」

「新田君の知る通りの計画しかなかった場合、包丁は何本必要になる?」

「当然二本です。河野刑事と波野の分。それだけで足ります」

「でも真白ちゃんは、包丁を三本買っているんだ」

 松井戸の言葉を聞き、新田は驚きの声を上げた。真白の方は涙を流し、何も話すことができなかった。ただただ涙を流して、手元に持った日記を濡らした。

「……真白さん、その日記帳、見せてもらえませんか」

 新田がそう言うと、真白は日記を持つ手に力を込めて抵抗を示した。

「……真白さん、僕はあなたを助けるためにここまで来たんだ。だが、僕はまた同じ間違いを繰り返していた。自分が思う最善策に固執して、またあなたの話を全く聞いていなかった。もう、僕を大切な人が守れなかったと後悔させないでほしい。もう……一生隠し通さなければならないことを抱えないでほしい」

 新田の心から叫びが真白に届いたのか、真白は日記を差し出した。あのバーコードの書かれた表紙を向けて。新田はそれを受け取ると、中身を読み始めた。そして松井戸に問うた。

「これは、僕が馬鹿だからでしょうか。なにも不審に思うことが無いのですが」

「確かに、一見すると普通の日記帳です。あなたが知っている計画に合致するような、自分たちが犯人ではないと捜査員に思わせる書き方がなされています」

「では、真白さんも僕と同じように逃げ切ろうとしたのではないですか?」

「しかしそれは、不測の事態が発生したために新しく書き直されたものです。気付きませんか、読んでいてその違和感に……いや、“手渡された時”に気付きませんでしたか? その日記が孕む、矛盾に」

 新田は、再度ノートを閉じてまじまじと眺め始めた。そして、呟いた。「逆だ……」と。

「市販されているノートの多くは、バーコードが背表紙に書かれている。でもその日記では、バーコードが書かれている側が表紙になっている。もちろん、それだけならノートの種類や製造元によってはあるかもしれない話だ。

 だが、ページの開き方は横書きと縦書きで統一されている。そのノートは縦書きなのに、ページを右から左に送る横書きの開き方をしている。これは、どう考えても不自然だ。なぜこんな不自然な形になったのか。それは真白ちゃんが何らかの理由で、このノートを逆向きに使用する必要があったからだ」

 松井戸がそこまで言うと、新田は日記を本来の開き方に直してみようとした。しかしその手は、本来の表紙を開いた一ページ目で止まった。

 茅野がのぞき込むと、そこのページは鉛筆で黒く塗りつぶされているように見えた。

「……真白さん、あなたこんなことを考えていたんですか」

 新田が、真白の方を向いて呟いた。

 すると真白は、涙を溜めた目で新田を見つめて、また「ごめんなさい」を数度言った。それ以上は、何も話さなかった。新田の方も、それ以上話すことはなかった。

 その空気感にたまらず茅野が口を挟み、「どういうことですか? なにが書かれているんですか」と喚き始めた。だが、二人はその問いかけに答えない。ただお互いの方に体を向けながらも俯いていた。

「新田は真白ちゃんを助けようとした。だが同時に、真白ちゃんは新田を助けようとしたんだ」

 茅野の質問に答えたのは、松井戸だった。だがその答えだけでは、茅野は全くもって要領を得ることができなかった。

「どういうことですか? 説明してください」

「……さっき俺は、真白ちゃんが計画に乗り気になったのが半年前だと言い当てたな。何故当てられたと思う」

「その答えが、日記帳に書かれていたんでしょう。だから、早く僕にも――」

「日記には、十月一日からの記述しかない。それ以前の話はほとんど書かれていない。だから、これはあくまで推測でしかないんだ。今の真白ちゃんの反応を見る限り、どうやらこの推測は当たっているようだが」

「勿体ぶってないで、早く教えてください」

「お前、自分で考える能力があるんだから考えろよ。あの捜査会議での活躍、ここでも見せてみろよ」

 松井戸は答えを言いそうにないので、茅野はしばらく自分で考えてみた。キーワードは、半年前。半年前に何かあったことで、真白はこの計画を実行に移すことにした。しかしそれは自分のためではなく、新田のためであった。そうして情報を整理していき、やがて一つの結論に辿り着いた。

「半年前、河野さんは全国紙に取り上げられた。それを見た真白ちゃんは、新田が暴走して河野さんを殺すんじゃないかと考えた。だから計画に乗るフリをした。それは河野さんを殺したいからじゃなく、新田をコントロールするためだった……」

「その回答は、五十点だ」

 茅野が辿り着いた回答をすべて述べた後、松井戸は少し鼻につく言い方でその回答を採点してきた。

「五十点? それ以外にも何か、理由があるということですか」

「いや、理由はそれだ。だが、その先の想像が足りない。計画に乗るフリをして交換殺人を実行するだけでは、新田を確実に助ける事なんてできない。それに、あの日記帳も書き直す必要がない」

「確かに……」

 茅野は、改めて考える。真白は本来どのような計画を立てたのか。その時に気になったのが、真白の「ごめんなさい」という言葉であった。これを最初に言ったのは、新藤真由美の話が出た時である。

 反応から考えて、真白はその時はじめて新藤真由美の話を聞いたのだろう。しかし、それではなぜ謝罪したのだろうか。新藤真由美と自分が瓜二つであると知り、それで新田が暴走したと知ったからだろうか。だが、どうも腑に落ちない。

 新藤真由美の話を聞くまで、真白は平然としていたのだ。観念してすべてを話そうと、そう思っていたに違いない。だが、その話を聞いてからは話すことを拒んだ。それは、警察に捕まりたくないからだろうか。

 違う。ここまで素直に同行されているのに、今更それを拒む理由などない。では、話すことを拒む理由は何か……。あの日記帳の本来の役割とは……。

「三本目の包丁は……自分を」

 茅野は意識ではまだ答えに辿り着いていなかったが、無意識では答えに辿り着いていた。

「そう。真白ちゃんは最初、波野刑事を殺害した後に自殺するつもりだったんだ。すべての罪をかぶって。だからあの日記帳は、本来真白ちゃんが罪を独白するものだった。その証拠に、本来の表紙から見た一ページ目には、その前のページに書かれたことのペンの跡が残っていた。鉛筆で塗りつぶして跡を読んでみると、そこには自分が二人の刑事を殺した犯人であると書かれていたよ」

「それが、当初の計画だった。でもなぜ、計画が変更になった時に真白ちゃんはノートを変えなかったんですか。別のノートに日記を書けば、その独白のことはバレなかったはずですよね」

「そこには、父親のお墓のことが書かれていたんだ。一緒に眠らせてくれってね。だが計画は変更され、自殺は止めになった。そして新田は表の計画通り、逃亡を企てた。だから真白ちゃんは、自分たちの居場所をこっそり警察に知らせる必要があった。そのために、それを置いたんだ。誰かがその本当の意味に気付くと、そう信じて」

「そして現れた警察に、すべてを洗いざらい話すつもりだった。表の計画も裏の計画も含めて。しかし新田が、真白ちゃんにそっくりの恩人が自殺したことに心を痛めたことを知り、このことを話すことを拒んだ。また新田が……自分のせいで誰かを殺したと思わないで済むように……」

「……あの日記の最初に、この日記を書くことは創作活動の一環だと書かれていたんだ。だから、日記の中には嘘の記述が多かった。……でもそれは、本当は真白ちゃんの理想だったのかもしれない。本当はこうあってほしかったという……」

 ――新幹線はいつの間にか広島駅を通過し、さらに東に向かって進んでいた。気付けば同じ号車に乗っていた乗客たちは、全員降りていた。意図せず貸し切りとなった車内には、真白と新田の泣き声だけが響いた。

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